小説 | ナノ

そのまま実弥さんを連れて行ってしまうなにか・・・に、魅入られてしまいやしないだろうか。
ふ、と不安にかられた私は、横を向き、実弥さんを見た。
まだまだ部屋は薄暗い。
実弥さんの横顔。
睫毛。
息遣い。
傷で少し抉れた鼻筋。
薄めの唇。
大きな目が、今は仕舞われている。
出会った頃に比べ、少しばかり丸みの減った頬。
張り出した喉仏。
くっきりと入る首の脇の筋。
小さく、けれど深く。確かに上下する胸元。
ぐ、と喉仏が動いた、と思えば、薄っすらと実弥さんの目が開いていく。

「……助平かよォ」

掠れた声。
私は心底ホッとして、なんだっていいです、と返したかもしれない。

ぎゅう、と布団の中で抱きついた。
足を絡めた。
背中を擦ってくださる手に縋りついた。

しなないで。
そんなことを言えれば、どんなにか気は紛れただろうか。
その答えはわからないけれど、口には出さない代わりに、何度だって心の中で叫んでいた。

きっと、前よりもずっと。実弥さんが、薄くなっていた。

──あぁ、怖い。

毎日、夜が来るのが怖かった。
朝、日が昇るまでが怖かった。
体を冷やしていく温度が怖かった。

もう、じきに十一月になってしまう。
私は全てに怯えていた。

だから、実弥さんの着流しへと手を引っ掛けた。

─────────
─────
──

十一月も半ば。
朝晩の風が、キンと冷えてき始めた頃。

膳も下げ終えたシュウスケはまた畑に出て行き、チエミはクニ子お婆さんの手習いに通い始めていた。
私は部屋で、子どもたちを見ていた時分であった。

何やらすることも思いつかなかったらしい実弥さんも、そのうち私の隣へと腰を下ろして居られた。
腕を組み上げ、口をきゅっと引き絞ったままに「眠ィ」なんて仰られて居る様だ。

私は、「お布団を敷きましょうか」なんて答えていたと思う。

目に見えて体力の落ちた実弥さんは、それでも弱音の一つも吐かず、毎日外へと出られていたのだけれど、今日はたまたま、荒木のおじさん達に呼ばれていた畑の仕事を、シュウスケに任せて休まれたのだ。
珍しい事であった。普段は必ずと言ってもいいほどに、実弥さんも同行していたのに。

そのあたりから、私には嫌な予感があったのだけれど、きっと気の所為だ。そう思うことで私は自分を騙そうとしていたのだと思う。

その上、実弥さんの様子は昨日とも一昨日とも、何も変わりはなかった。
変わりはなかったのだ。
拍子抜け、と言えば聞こえは良くないのかもしれないが、何もないのだ。そう思うと、肩の力は自然と抜けていった。

赤ん坊たちしか居ない、比較的静かな部屋でそのうち目元を綻ばせた実弥さんは、静かに私の膝へと頭を乗せ、また「眠ィなァ」と、一言だけ仰った。

「ふふ! 重たいですよぅ!」

部屋には、少しばかり冷えてきた風が通り、部屋の暖かな温度を連れ去っていく。

「ほら、こっちだァ。触れるかィ」
「ふふ! 転んできましたねぇ」
「はは、すげぇなァ」

実弥さんは、ころころと転がってくる、まだ髪の薄い我が子に触れながら口元を綻ばせていた、と思う。

「にしても、いっぺんに二人たァ、豪気だよなァ」
「本当に! 私、びっくりしましたよぅ!」
「バァさんも、すげぇはしゃいでたしなァ」
「あれははしゃいでいた・・・・・・・じゃなくて、驚いていた、だと思いますよぅ」
「そんでも、夫人は喜んでたろォ」

実弥さんは目を閉じた。
長いまつ毛を静かに下ろし、ははっ、と乾いた音を鳴らしてから、静かに子の腹を、ぽん、ぽん。とやっている。

実弥さんの頬へとかかる髪を退けていれば、実弥さんは「擽ってぇ」だなんて文句を垂れ、少しだけ目を開いた。
そうして、うとうととやりだした子の顔を眺めながら仰る。

「ありがとうなァ」

静かな音であった。
実弥さんの着流しから剥き出された足。その太腿あたりで転がり、眠るもう一人の子供の寝息すら聞こえてくるほどの静かな空間に溶け込むほどの、微かな音であった。

──あぁ、こわい。

私はなんと返せば良いのかも上手く纏まらずに、私は曖昧な笑みをただただ浮かべていた。

「大嶌屋の、団子なァ」
「大嶌屋!!」
「みたらしのたれが変わったんだってよォ」
「わぁ! 是非! 是非とも食べたいですねぇ!」
「もうちぃと甘くしたらしい」
「……想像だけでお腹が減りますよぅ……!」

実弥さんは「ふ」と鼻で笑い、「行くかァ」と言った。

「行きたいです! あそこはお抹茶も美味しいですもんねぇ」
「飲みてぇなァ」

実弥さんは小さく睫毛を震わせ、瞬きをされた。
私は実弥さんのその表情が何を意味しているのかはわからない。ただ私は、皆で真っ赤な、それでも少しばかり色褪せた毛氈の掛けてある長椅子に腰を下ろし、団子を頬張る姿を想像した。
皆で「おいしい」と頬張り、赤ん坊を抱いている実弥さんが一番たくさん召し上がって、少し遠慮したシュウスケを「食わねぇからチビなんだろ」なんてからかう姿を想像した。
チエミちゃんも、もう一人の赤ん坊を抱いた私も、そんな様子を見て笑っているかも知れない。
もしかすると、「チエミ、もっと食べるよ!」なんてチエミちゃんは言って、頬張り始めるのかもしれない。

「帰りにクリィムソォダでも飲んで──」

実弥さんの言葉に、やっぱり私はうんうんと、何度だって頷いた。

「素敵ですねぇ! きっとチエミちゃん、あのしゅわしゅわにびっくりしますよぅ!! 私の隣でギュッと目を瞑って震えるんです!」
「ハ、違ぇねェ」
「こんなに寒いのにアイスクリンなんて食えねぇ、って、シュウスケさんはつんけんするんですかねぇ」
「想像出来ちまうなァ」
「みんなで、行きましょうねぇ!!」

実弥さんはくつくつと喉を小さく鳴らして笑い、そのうち口を閉じた。

「あぁ、……眠ィ」

と、またそう呟いて、それから。
寝息を立てる我が子らに囲まれ、実弥さんも目を瞑っては、そのうち寝息を立てはじめていた。
私はそう、思っていた。

時折入る扉からの風はひんやりと冷たく、肌の温度を奪っていく。
掛け物の一つでもかけてやらなければ、赤ん坊は愚か、実弥さんまで風邪をひいてしまう。
そんなことを考えもしたけれど、どうにもここを離れたくはなかった。
あんまりにも離れがたいものだから、実弥さんの額へとかかる髪を私は撫ぜた。
私はいつだって、なんだって良かった。実弥さんのおそばに居られれば。
それで幸せであったし、それが幸せであった。

実弥さんが、あの日・・・からとくに寝付きが悪かったことを、本当は私は知っている。
だから、少しでもゆっくりと眠ってくださるのなら、それが良かった。
あの日・・・、何が起きたのか。私にも、なんとなくわかっていた。

確信してしまったのはあれから暫くした後、魘された私を抱き止めてくださった実弥さんが「もう怖くねぇ。大丈夫だ。もう、居ねぇから」と言った夜。

──あぁ、そうなんだ。あの人は、もうこの世に・・・・居ないのか。
私はなんとなく、そう確信を持った。

それでも私が何も言わなかったのは、私が知ったと知れば、実弥さんは離れていってしまいやしないだろうか。そんな不安があったからだ。
実弥さんが、隠し通そうとしておられたからだ。
お優しい実弥さんのことだ。「お前のためじゃねぇ。俺がしたくてやった事だ」だのと言われてしまえば、私は何も言えない。もしかすると、それもわかって、実弥さんはそう言うのかも知れない。
それとも「お前には任せらんねぇ」と言うのだろうか。
それとも。
けれどそんなことを言わせてしまっては、実弥さんお一人に、その重荷・・を背負わせることになりやしないだろうか。
そう思えば、何も言えなかったのだ。

本当は実弥さんに手を汚してほしくなんてなかった。
それだけは本当であった。
実弥さんは優しくて、いつだって皆のことを考えてくださる。
そんないい人がするべきことでは無かった。
私が何とかしなければいけなかった。

それでも、この村の皆のもとであれば、どんなことがあったとしても、きっと実弥さんはもっとたくさん笑えるようになる。
もう少し時間があれば、きっと、もっと大きく声を上げて笑うことができる日々が来ると、私は思う。

私は愚図で、本当に鈍臭いのだけれど、そういった人に今まで目をつけられなかったのは、きっと皆が守ってくれていたからだと思う。
実弥さんだって、例外ではない。
だってあんな形相の方が居る村に、きっと近寄りたい方なんて、そう現れないはず。
初めて会った日のことは、今だって決して忘れてなんていない。

だから、きっと大丈夫。
悪いことも、相手が実弥さんなら、きっと怖がって逃げていく。

けれどそれでもやってきてしまった罪ならば、私も一緒に背負わせて欲しい。
私に、背負わせて欲しい。
実弥さんが守ろうとしてくださっている大切なものを、私にも背負わせて欲しい。
私も、大切にしたい。

ずっと夜明けを待っていた実弥さんのもとに、やっと陽がさしたんだもの。
やっと心から愛おしいと涙できる子供たちに出会えたんだもの。
この村で、皆に囲まれて生きていくんだもの。
これからもっともっと、幸せな日が続いていくと私は自信をもって実弥さんへ言える。
そんな実弥さんがそばに居てくださるのなら、私はなんだっていい。
うなされる夜も、寝苦しい悪い夢も、実弥さんが居れば、居てくださるのなら、どうということもなかった。

実弥さんの髪をまた触ると、さらさらと手のひらから溢れるように流れていった。

「ね、実弥さん。そろそろお布団に行きましょうよぅ、……すこし、……重たいですよぅ」

私の膝の上、静かに目を瞑っている実弥さんの目元は緩く閉じられている。
いっそ、その口元は柔く微笑んですら見えた。

──あぁ、こわい。

ずっと今日は、嫌なものが背中を走っている。

「実弥さん、起きてくださいよぅ、そろそろお掃除もしなくちゃ、……ね、実弥さん」

実弥さんの肩を揺らすけれど、実弥さんがそれに応えてくださらない。
実弥さん、と呼びかけても、実弥さんの体はちっとも動かない。
節くれ立った大振りな手の中へと、私は手を重ねた。
握り返しても下さらない。

──こわい。

「……実弥さん、」

また、静かに風が吹く。

「実弥さん、起きて」
「実弥さん起きてください」
「起きてくださいよぅ」
「起きてったら!」

私の殊更大きな私の声に驚いたのか、わぁわぁと赤ん坊の泣き声が響き始めた。

「ほら、泣いてます。……いつもみたいに、抱いてあげてくださいったら……」
「なんで笑ってるんですか」
「ね、お団子……まだ、食べてませんよぅ……」
「寒い中、クリィムソォダ……行くって、言った……!」

実弥さんの顔の上にぽたぽたと雫が落ちるものだから、私は何度もそれを拭った。

「言ったじゃないですか! い、言ったばかりじゃないですかッ!」

泣き声ばかりが響いている。

「嘘つきになっちゃいます……!」

実弥さんは、寝息の一つも聞かせてくださらない。

「実弥さん、起きて……!」

泣き声が、増えたかもしれない。

「風邪ひいちゃうから、お布団で寝ましょ。ね、そうしましょうよぅ……」

泣き声は、更に大きくなった。

「そうしたら、明日起きて……皆でお団子……明日。明日行きましょうよぅ、ね、そうしましょうよぅ。明日は全部全部お休みして、皆で……行きましょうよ、ぅ……」

それでも、実弥さんは起きてくださらない。

「まだ、玄弥さんたちに、年の瀬の挨拶出来てませんよぅ」

そのうち前が見えなくなった。
それでもせめて、実弥さんを感じたかったものだから、私は実弥さんをぎゅうぎゅうと抱きしめた。
「離れろォ」って、言ってくださらない。
「ほら、泣いてんだから相手してやれぇ」って、笑ってくださらない。
一緒にいるのに、まるで、遠くに行ってしまわれたようだ。

「……ぁ、……ぁあ、……ま、まだ、……須磨ちゃんの赤ん坊、抱いてあげられてませんよぅ!
竃門さんたちに、おはぎ、誰が持っていくんですか……!
わた、私、……やりませんからねッ! 行きませんよッ! 
早く起きてくださいってば!
なんでこんなときばかり! ……優しい顔なさってるんですか……ッ!
や、です……よぅ…………やだ、……」

ぐったりとしたままの実弥さんは、いつまでも、私を抱きしめ返してはくださらなかった。


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