小説 | ナノ

あれからも実弥はただ毎日を常の通りに暮らしていた。
朝は起きて仕事に出、昼には様子を見るために一度屋敷へと戻る。
夕刻まで畑やらをやり、夜には揃って夕餉を食べる。

夕餉を終え、シュウスケらが寝静まる頃、未だぐずる産まれてまだ数ヶ月の坊らをあやす。
双子であったから、泣くときも腹をすかすときも、互いにつられるように泣き出すものであるから、名前の負担は計り知れない。
夜半でも朝方でも、子が泣けば起きておしめを変え、乳を飲ませとやっている名前には、頭が下がる思いであった。

そうこうしていれば眠り支度を終え、寝所へと戻ってきた名前がぴと、と体をひっつけてくる。

「ありがとうございます」
「もう良いのかィ」
「はい。あとは明日の自分に任せます」
「そんなにちぃとの事なら俺に言やァよかったろぉが」
「お仕事なさっているのに、そんなこと言えませんよぅ」
「大した事ァしてねぇよ」

うーうーと唸る坊が手足を天へと向け、ばたつかせる。
方やもう一方は大人しく布団の上。大の字ですやすやと寝息を立てている。
それを眺め、名前はふっと目を細めた。

「昼間、セツさんがお手伝いに来てくださいますし、ヤス子さんも差し入れをくださいます。実弥さん、夜半も起きてくださるし。私は十分甘やかされてますよぅ」

そうして頼りのない眉の下がった笑顔を向ける名前は、ずっとぽけぽけとしたままだ。
恐らく、実弥と初めて会った頃と変わることはない、そのどこか間の抜けたままの柔い人間だ。
実弥はずっとそのままでいてほしかった。

しょうのないことで怒り、泣き、ぴゃッと飛び上がっては恐ろしいと喚き立て、小さなことを喜んでは、嬉しい嬉しいと笑っている、そんなままの名前が良かった。

実弥を見てはにこッと笑いかけてくる坊へと手を伸ばす。
途端に実弥の手に、あの夜・・・の感触が蘇る。
男の頭をぎしぎしと、音がするほどに絞めた。
男の手首へと押し込んだ鎌。
穴を掘った時の、土の感触。
穴を埋めたときに触れた、土の冷たさ。
土を擦りつけた時の、ごつごつとした木肌。
冷えた小川の水。

子へと触れる前に握りしめた手の中で、それら全部を握り潰した。
もう出てくるな、と。今は出てくるな、と。

「実弥さん」

そう実弥を呼んだ名前の手が、そろそろと実弥の筋張った手へと絡んでいく。

「見てください」

視界を遮る蚊帳の向こうへと広がる夜の空を差した細っこい指先は、仄かな月明かりでなお、柔く見えた。

「星!」

綺麗ですねぇ。
そう、のんきに笑う名前に、実弥は、ずっとそのままでいてほしかった。

──────────
─────
──

体の節々が悲鳴を上げているのを、実弥はずっとひしひしと感じている。
この年に入ってすぐの頃からであった。

実弥の不調に一番に気が付いたのはシュウスケであった。

ふらつき、体を上手く扱えず、井戸の縁へと体を強かにぶつけた実弥を、シュウスケは見ていた。

「名前さん、……呼んでくる」

シュウスケがそう言って、その頃はまだ腹を大きくしたままに、寝所でうんうんと唸っている名前を呼ぼうとするのを、実弥は止めた。

「すぐに良くなる。大袈裟にすんじゃねェ」
「……わかった」

しかつめらしい顔をしたシュウスケは、それが三日も続けば「医者に行けよ」と言うが、行ったところでどうにもならないことも、時が近付いている・・・・・・・・のであろう、ということも本当はわかっている。
実弥もそれを、理解していた。

「次なァ」

だからこそ、当たり障りもなく実弥は毎度そう返したが、シュウスケはそれに言及することもなかった。



秋も深まってきた九月の終わり。
その日も、実弥は起きるのが辛かった。

体中に、砕かれるかのような痛みが走り、やっとのことで冷や汗とともに実弥は身を起こした。

落ち着いてから名前の方を見れば、坊らの方へと顔を向け、小さくその細っこい肩を上下させている。
そんな景色があるはずであった。

名前の顔は、確りと、冷や汗をかく実弥の方を捉えていた。

「……起こしちまったかィ」
「起きてました」
「朝餉の用意にしちゃァ、早ぇだろォ」

薄い眉を下げた実弥よりも、さらにぐッと眉を下げた名前は、実弥から顔を背けた。

「南瓜を、煮付けちゃいますね」
「珍しいじゃねぇか。今からかィ」
「今からです」
「まだ寝てりゃァ良いだろォ」

実弥の言葉に名前はようやっと振り向き、噛み締めた下唇を解くことなく、首を横へと振る。

「なにかあったのかァ」
「無いですッ!」
「ほら、皆起きちまうだろ。どうしたってんだァ」
「何でもないんです!」

立ち上がり背を向けた名前の手を引けば、意図も簡単にその小さな体は実弥の懐へと収まった。
静かに震え始めた名前の手が、そろそろと実弥の背中へとまわり、ぎゅうぎゅうと締め付けた。

なんでもない。そう言いながら実弥の背中へと回す腕は、小さく震えている。

「小せぇな」
「……なんですか……?」
「名前は、小せぇなァ」

実弥は自分の体よりもずっと小さな名前の体を、同じように抱きしめた。
こんなにも小さな体で名前はこの世の理不尽に堪えていたのだ。
こんなにも細腕で、これからを生きていかなくてはならないのだ。
こんなにも柔い体で実弥を受け入れ、赤子を抱き、チエミらの手を引いているのだ。

「そんなに小さくないですよぅ! 実弥さんが大柄なだけです!」

そう言って、実弥の手の中にすっぽりと収まってしまうほどの名前の小さく震える背中を、何度も擦った。

「お医者様に、……診て貰いましょうよぅ……」

実弥はいっそ、舌を打ってしまいたくなった。
名前の呟くように言った言葉から、これが昨日今日に始まったものでないことを理解しているのは明らかであったからだ。

シュウスケか。と、あの眉をしかめた顔を思い出して歯噛みした。
何も応えない実弥から、名前はするすると腕を解いていく。
それから数度息を吐き、実弥から距離をとった。
実弥はてっきり、名前は泣いている、と思っていた。
けれど、名前は眉を下げた下手くそな笑顔をつくり、実弥へと向けいた。

「やっぱり、今から南瓜を煮付けてしまいます」
「……そうかィ」
「でも、」

また「でも」とつぶやくように言った名前は、実弥の左の手を緩々と握った。
如何にも「悲しい」とでも言いた気な顔をうつ向けた。
隠しているつもりであろうか。
実弥は苦虫を何匹も味わっているような心地であった。
──苦い。

「やっぱり、……お医者様には、かかってくださいませんか」

実弥の顔を見ることもなくなった名前へと、「わかった」と、実弥はこたえるしかなかった。

そう約束をしたのならば行かねばならない。
だが、どこでかかろうとも結果は決まっている。
それをまた、名前へと伝えなければならないのを、実弥はただただ心苦しく思った。
もう一度布団の上へとごろンと転がり直し、実弥は赤子越しに寝所を出ていく名前の後ろ姿を眺めていた。




皆が起きる頃になれば、屋敷の中を仄かに甘い匂いが漂っていた。
未だすよすよと寝息を立てる坊らをそのままに、実弥は寝所を後にする。

朝餉を始める頃に坊らはようやく泣き始め、名前がばたばたとその相手をする。
チエミは洗濯の支度をしてやり、シュウスケがあちらこちらの窓やら扉を開けては、空気を入れ替え始める。

暫くすれば、表から「すみませぇん」と、配達の人間の声も届く。

定期的に届く、子供用にと誂えられた着物や、団子が四つほど包まれた、大嶌屋の包みやら。
届くものは様々だ。
「なんの準備をなさっているんですか!」と実弥を叱っていた名前の声は、今はもう無い。
かわりに「まだ大きさがちんちくりん!」と喜ぶチエミの声と、「気が早いだろ」と鼻で笑うシュウスケの声がするくらいであった。



畑やら何やらを手伝いながら、実弥はぼぅ、と考えた。
こんな日が、こうしてずっと続いてくれやしないだろうか──と。

□□□□■

子らが産まれたときは、それはもう大変であった。

屋敷の中は慌ただしく荒木夫人ヤス子が走り、セツの叫ぶような「頑張って!」の声が響き、産婆の喝が飛ぶ。
チエミをあやす里中の夫人も、頻りに寝所を振り返りチエミの「まだ?」の声に、「まだです」と力なく答えていた。
ひっきりなしに続く名前の叫ぶような声。
時折部屋から出てくる荒木夫人の運ぶ桶の中。たぷンと揺れた水は、赤く色付いている。

手伝わせてくれ、と実弥は声をかけたが、お産に男は不要だと言われてしまえば二の句も告げなかった。

何刻経ったか、はたまた一時も経っていないか。もうそれすらもわからなくなった頃。
漸く襖が開き、額を真っ赤な手で擦った産婆は、実弥の手の中へと、あたたかく小さな小さないのちを乗せた。

「男の子ですよ」
「…………オ、ゥ」

声が出なかった。
かわりにとでも言うつもりか、涙がぼろぼろと落ち、手の中の赤ん坊の上へと降った。

「……名前、」

名前へと声をかけようと顔を上げてすぐ。
名前はまた蹲り、泣き叫んだ。

「おい、どうしたってんだァ……」
「頭が!!」

名前の股を覗き込んだセツがそう叫べば、産婆まで顔色を変え、実弥の眼の前でまた襖を閉めた。

「……乳を貰いに行ってこなくちゃ……!」

蚊帳の外の実弥たちの中。一番に動いたのは、そう呟いた里中の夫人であった。

「赤ちゃん!!ね!産まれたね!!」
「あ、……あァ」

チエミの言葉になんとかかんとか頷いた実弥の隣。シュウスケは目を白黒とさせながら呟いた。

「どうなってんだ……」

実弥の手から赤ん坊を取り上げた里中の夫人は、実弥を真っ直ぐに見た。

「今から名前さんは二人目・・・を産みます。この子にお乳を貰いに行ってきますから、不死川さん、後は頼みましたよ」

それだけを言って、そそくさと里中の夫人は屋敷を出ていった。

赤ん坊が抜き取られ、空っぽになった実弥の指の少ない手を、きゅ、とチエミは握った。
不安になっていたのだろう。

「大丈夫だ」そう言い聞かせるかわりに、実弥は静かに手を握りしめた。

「名前ちゃん……がんばれ……」

チエミの高い声が、ころンと転がった。







そうして二人目が産まれたのは、丁度日を跨いだ頃であった。
チエミもなんとか起きていようと頑張っていたが、早々に実弥の腹の上で体を預け、眠ってしまった。
チエミを布団へとねじ込み、船を漕ぐシュウスケへも眠るように、と伝えた頃。

里中の夫人と赤ん坊を一晩預かりますね、とさほど顔も知らない男が訪ねて来たが、あぁ、乳を貰えたのか、と実弥は理解してすぐに頭を下げた。
今度、礼に伺わせてほしいと言えば、男は「おにがり様のお子にお乳をあげさせて貰えるんです。こんなに光栄なことはない」などと言って笑っていた。

実弥は初めて、自分の立場に感謝した。

己が鬼狩りであったことを、良かったと思えた。

ここへ居を構え幾年か経つとはいえ、己が煙たく思われる事もあったろう。
感謝されるほどのことなど、ここの皆へ出来ていたとは思わない。
この集落の人間を助けただのなんだのと言うのは遥か昔の名前すら知りもしない鬼殺隊の誰かだ。
生を全うできたかも知らない、誰かだ。

それでも。それら全部が一つに繋がり、己の子へと生命を繋いでくれている。
今なお、新しい生命を産み育もうとしてくれている。

今ここで起こっていることすべてが、実弥には眩しかった。
眩しすぎたから、実弥は目元を手で覆った。

いのちの音がする。


新たに産まれ出でたいのちが、賢明に泣く、音がする。

「ほら! ご主人、産まれましたよ。かわいい女の子ですよ」

襖を開いた向こうから、産婆が笑顔で実弥を呼び立てる。

「おめでとうございます、鬼狩り様!!」

実弥の直ぐ側で、腕を擦る男はこれでもかと破顔している。
周囲の声に、シュウスケは飛び起き、「産まれたのか?!」と目をきらきらと瞬かせた。
実弥は、それをいつかの自分と重ねた。
初めて玄弥に出会った日。初めて寿美に触れた日。初めて弘の名前を呼んだ日。ことを、貞子を、就也を抱きあげた日。

実弥の周り全部が、気が付けば笑顔で溢れていた。

「実弥、さん……」
「…………おゥ」
「産まれました、よぅ」

掠れた声であった。
いつもの溌剌とした声では決してない名前の声は、それでも愛情に満ちていた。実弥はそう思う。

襖の内側。寝所の中へと踏み入れば、赤子を抱き、乳をやる名前が実弥を見上げ、笑っている。

「おゥ」
「元気に、お乳、……飲んでますよぅ……」

汗やらなにやらで顔中に髪を貼り付け、見るからにくたくたになっている名前が、それでもどうしようもなく愛らしかった。
どうしようもなく、嬉しかった。

「……ありがとうなァ」

震えるままの手で、実弥は名前を掻き抱いた。

どうしようもなく、愛おしかった。
ここにあるすべてが、愛おしかったのだ。


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─────
──

実弥は静かに目を閉じた。

当たり前の日々が、特別であった。
玄弥にくれてやりたかった当たり前が、眩かった。
当たり前の日常が、愛おしかった。
くだらない喧嘩が、幸せであった。
赤子の夜泣きに重い瞼を開ける日々が、大切だった。
喧しい食事時が、嬉しかった。
日々大きくなる子供らの背中を見るのが、楽しみであった。
振り返れば、半歩後ろで笑っている名前が、好きであった。
もしかすると唇を突き出し、拗ねていた顔も、好きであった。
喧嘩の翌日に拵えられるおはぎが、愛おしかった。
好きだった。

──死にたくねぇなァ

実弥は口元を引き結び、黄昏時を踏みしめながら帰路につく。
屋敷までの長くもない、けれど短くもない道のりを、一歩一歩と踏みしめた。
何もかもを飲み込む夜が来る前に。実弥は家族のまつ家へと、一歩一歩、進んでいった。
そうして毎日を、ただただ常のように暮らしていた。

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