夢を見ていた。と、実弥は思う。
霞がかった景色の向こう。
まるで揺り籠にでも乗せられたかのような微睡む意識の中。確かに実弥は、その半醒半睡の向こう側に不安気な表情を作る名前の姿を見ていた。
──実弥さん、どこに、……行かれるんですか……!
実弥へと、縋るような目を、確かに名前は向けている。
夢の中ですら見せる名前の憂いた表情には、覚えがあった。
いつのことであったであろうか。
実弥は思考する。
手に力を入れた。
途端に、左手の中身がミシミシと、厭な音を立て「ヒィッ」と鳴いた。
そろそろと視線をやれば、なんのことはない。
男の頭だ。
男は実弥に「許してくれ」という。
だが、実弥には一塵も、その言葉を聞き入れてやるつもりなどなかった。
だから、実弥は男の尻を蹴り上げた。
尻を蹴り上げ、男が小さく上げた悲鳴を無視し、「とっとと歩きやがれェ」そう、凄んでいた。
──ああ、
実弥は静かに理解する。
なんのことはない。
自分が少しばかり募らせた罪悪感の見せる、なんということもない、ただの悪夢である。
夢だ。
実弥の言葉に、ぺこぺこと赤べこのように頷く男を、集落の外へと連れ出した。
山の奥のほうだ。
できるだけ深く。
昼間である、その時ですらも、足元のはっきりとしないほどの。木漏れ日も届かない程の。奥深く。
本当であれば、殺さないほうが良い。そう、考えていたと思う。
だが、名前や、シュウスケやチエミの将来を脅かしかねない無頼漢など、存在するだけで迷惑なのだ。
三人の将来には無用なものであるのだ。
そこにさらに産まれ落ちてきて呉れる、己が子が、脅かされる可能性はあってはいけないものなのだ。
とっとと男を殺して、自分も捕まっちまった方が早くことが済む。
否。
隠せば良いのだ。
そうすれば、誰にもこんな厄介な手間を取らせることもなくなるのだ。
だが、万が一にもこの男の死体が誰かに見つかれば、厄介だ。
お巡りも馬鹿ではない。怨恨やらなんやらで、恐らく捜査の手はあちらこちらへと伸びるだろう。
迷惑を被る事になるのは、九分九厘、里中の家の人間だ。
無論、名前とて無事では済まないかもしれない。
なら、ハナから男を牢屋にでもぶち込んでもらうほうが良いだろうか。
だが、どうやって。
刑期を終えればもう来ない。そんな確証も無い。
寧ろ、また狙うに違いない。名前を。
家族を。
すっ転んだ上にがくがくと震えながら、地面へと震える手を押し付けている男の頭の天辺を、実弥は見下ろしていた。
──どうするか
実弥はまだ、その時には良い答えが浮かばないでいた。
夢現の間にいる今でも、結局のところ、答えなど出はしない。
男の身に纏う一張羅であったのであろう、煤け、破れ、草臥れたスーツが、男のこれまでを物語っていた。
きっと、また来る。確実に。
実弥には、そう、確信があった。
幾度か警察へと突き出されていた親父がどうなったのか。実弥は忘れたことはない。
あの長屋に住んでいた頃。
治安が良かったか、と問われればそんなことはない。
見てはいけない、聞いてはいけない。何に対してかは知らない。だが、そう言い聞かせられたことが、度々とあった。
一週間。速ければ、数日もすると戻ってくるのだ。
皆が口を揃えて「気をつけろ」と言うような奴らは。
この男も、間違いなくそうなる。
実弥はそれを、痛いほどに理解していた。
それから、犯罪者の身内となった一家の末路も。
だから、ぽつ、と呟いた。
「殺しちまうかァ」
落とされた実弥の呟きに、男は動きを止めた。
それまでの震えもぴたりと止め、血走り、怯えを色濃くとっぷりと塗りたくった目で、男は実弥を振り返っていた。
はくはくと、音も鳴らさない男の口が動いている。
その男の顔は、鬼を前にした無力な人間そのもののようであった。
実弥は足元の小石を踏みしめた。
どうせ、また来るんだろォ? 宇髄に聞いたぜェ。
てめェ、なんべんも女に手ぇ、上げてたんだってなァ。
アイツも、面倒な男に目ぇつけられやがってよォ。
なにも名前じゃなくても、誰だって良かったんだろォ?
自分の欲が満たせて、ガキ孕んで。ちぃと反抗的なら、殴れる。そんな女なら、誰だって良かったんだろォ?
だから二人目の嫁も殴ってたんだっけなァ。てめェ。
着の身着のまま逃げてる、たァ聞いちゃいたが、わざわざわここに来るってぇあたり、てめぇ、もう頼る宛もねぇんだよなァ。ちょうど良かったかよ。アイツは。
実弥はいっそ、そう言ってやりたかった。
実弥から目を逸らしもせず、今にもまろび出そうな目玉を、ぎょろぎょろとやる男から、目を逸らす気にもならなかった。
否。
恐らく、男は目を逸らせなかった。
男は実弥の一挙手一投足を、嘗めるように見ていた。隈なく。
実弥の動き一つで、或いは自分は死ぬ、と理解していたのだろう。
実弥は静かに腰へと引っ掛けてある、農作業で先まで使っていた鎌を手に取った。
「てめぇが生きてンのは面倒だ」
ぶんぶんと顔を左右へとやる男は、地べたへと頭を擦りつけ、消え入りそうな音で「すみません、もう来ません」と繰り返す。
だが、許すだとか許さないと言うような話ではない。
最早、この男は生きている、ただそれだけで実弥にとって、脅威であったのだ。
直に居なくなってしまう自分が守ることのできなくなった矢先に、名前やシュウスケ、チエミや、産まれてくる子供が、この男にもう二度と出くわさずとも済むように。
もう二度と、この男の手の届かぬところで暮らせるように。
そのために出来ることならば、なんだってする。
なんだってやる。
男の真っ白になった顔面が、実弥をただ、見上げていた。
─────────────
───────
──
夜。
名前も隣で寝息を立て、家の隅。小さくしていた子供の気配が静かになる頃。
実弥は静かに布団から起き上がった。
静かに玄関扉をしめ、真っ暗な夜道を踏みしめた。
月のほとんど上がってもいない夜道が、じゃりじゃりと小さく悲鳴を上げていた。
黒い山の奥を、実弥は静かに目指していた。
昼間にも通った道である。
できる限り、昼間に残してしまった足跡やら、男を蹴り上げてしまった時の跡やら。
痕跡を消しながら辿った。
男を張り付けにした木の足元へと辿り着いた頃には、酷く据えた匂いがしていた。
血のにおいだけではない。
糞尿やらの混じったにおいだ。
大の男が、漏らしてしまっていたらしい。
「……っひ、ぃい!! ばっ! 化け物ッッ!!」
真っ黒が視界を埋め尽くしているであろう男は、それでも抵抗していた。
男の頭上で両手首を穿く鎌。
歯の長さが足りず押し込みすぎたせいか、左の手首は落ちかかっている。
未だ男の心臓の動きに合わせ、滴る血。
それを尻目に、実弥は穴を掘り始めた。
未だぶつぶつと何事かを呟く男には目もくれず、実弥はただ一心不乱に、穴を掘った。
一刻ほど掘りきったであろうか、という頃。
男は喚かなくなっていた。
ただ目の前に出来た、縦にも横にも人が一人、二人と入れそうな穴に、男はただただ恐怖し、唇を噛み締めていた。
他には人の影も形もない真っ黒の静かな山の奥には、男のすすり泣く音と、時折混ざる、嗚咽混じりの謝罪の声がわずかばかり。
実弥はスッと目を窄め、男を見やっていた。
人ではない人間の末路を、実弥は目に焼き付けていた。
──別に、人を殺すことなど初めてではない。
実弥はそう思考する。
──地獄で親父とお袋を見た。
鬼であろうと罰を受けるというのであれば、人に戻ることが出来る、"鬼"を斬り殺して来たことは罪ではないだろうか。
それは、人を殺すことと、何が違うのか。
人を食わぬ鬼、というものの存在など、実弥は未だ、信じてはいない。
あの竈門の妹も、もし、今も鬼であったなら、明日にも人を食ったかもしれない。
だが、もう、人になってしまったのだ。
鬼が人に戻るということなど、知りたくもなかった。
だが、それでも、それらすべては現実であったのだ。
全て。
「ひ、人でなしッ!! 後悔するぞ!! 頼む! 頼むから……ッ、たすけてくれ……ッ」
実弥へと、ぼろぼろと涙やらなにやらを垂らした汚れきった顔を向ける男は、それでも頭を振り、「死にたくない」と喚いていた。
到底、人には見えなかった。
実弥は思考する。
──これが鬼でねぇなら、なんだよ
──親父が、鬼でねぇなら、なんだったんだよ
──あのときのお袋が、鬼でねぇなら、なんだった
──竈門の妹が、鬼でねぇなら、アレはなんだった
──鬼だった。間違いねぇ。鬼だ。
──アイツらは、鬼だった
すべてのことを終え、砂利を均しながら実弥は静かにそこいらを見渡した。
木には男を刺し止めた跡があり、そこから垂れていた血痕やらも残っている。
片さなければ。
乾いた土を木へと擦りつけた。
実弥は何度も何度もそれを繰り返し、そこからすべてを、墓標も立たない墓へとしまい込んだ。
実弥は思考する。
──鬼を殺した人間が、鬼じゃねぇ。なんてこたァ、あるはずがねぇ
それが一番、しっくりときた感覚であった。
とうの昔に。
母親を手に掛けた時から。
自分自身も、鬼であった。
きんきんと、体を刺すほどの川の水で、これでもかと手を洗いながら、真っ黒な水面に写る、真っ白な姿を実弥は何度もかき消した。
***
体を揺すられる感覚に、実弥はぎゅッと眉根を寄せた。
「実弥さん!」
次第にハッキリと聞こえた自分の名前を呼ぶ声に目を開けば、実弥の額の汗を拭う名前の姿があった。
「また腰のあたりが痛むんですか? 冷えたんですかねぇ?」
綿をぬいたのが早かったですかねぇ、と実弥の掛物を軽く持ち上げ、名前は寝不足が祟っているのか、隈を拵えた顔を顰めた。
「魘されてましたよぅ。お加減悪いなら、きちんと仰ってくださいよぅ」
「……いや、夢見が悪かっただけだァ」
「本当ですか? だって、この間も……」
掛物を持ち上げ、名前へと来るように促せば、名前はぴたッと動きを止めた。
そのうちむくれていた口元を少しばかり冷えた指先で隠した名前は、ちら、名前の布団の向こうで眠る赤ん坊へと視線を向けてから、実弥の布団の中へと足を忍ばせた。
「寝りゃァ治る」
「そうですかぁ? でも、」
「気にすんなァ」
実弥の足に、そろそろとやってくる名前の足が触れた。
実弥は名前の肩口へと掛物を引き上げながら、「ほら、とっとと寝ろ」と肩を叩いた。
「起こしちまって悪かったァ、世話かけたな」
「いえ、でも、……また、なにかあったら……」
「ほら、寝ちまえ」
「……ん……仰ってください、ねぇ、」
「わかったァ」
何度か頷いた後、実弥の腕の中、すぅすぅと寝息を立て始めた名前の髪を梳き、ようやっと、実弥は静かに息を吐き出した。
そう。
ただの悪夢であった。
ただ、夢見が悪かっただけだ。
こいつらは、何一つ関係の無いことだ。
実弥は静かに思考する。
これから先
なにものにも、脅かされることのないように。
名前が、シュウスケが。チエミが、子どもたちが。
ずっと笑っていられるように。
穏やかに、過ごせるように。
──それ以外のことは、すべて俺が持っていく。
実弥はそっと睫毛を下ろし、息を吐いた。
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