小説 | ナノ

鼻の奥がツンとするほどに冷えきった空気であった。
雲間の隙間に星が瞬いている。
その雲の動くのと同じ速さで、冷えた空気が私達の身体を通り過ぎていく。
まだ朝日も登らず、夜と朝の丁度間の暗闇は、尚の事、凛とした空気を作り出していた。

しゃらしゃらと震える鈴の音が、リンと一際高鳴る頃。
バチバチと脇の松明から火の粉が上がる。
広大な境内を照らしてしまうほどの、大掛かりな松明が舞台へと掲げられているのだ。

見事な神楽であった。
技術やら何やらは私はからっきしであるし、その技が如何に凄いものであるのか。それもわからないので、たんに「すごい」としか言えはしないけれど、けれど見事であった。
荒々しく、力強く。
けれどもどこか、繊細な動きであった。

「わ、ぁ……!」

思わず声が漏れていた。

「すごい! ね、凄いねぇ、チエミちゃん! 凄ぉい!」
「うん! すごぉい!!」

寝ぼけ眼をぐい、と擦り上げたチエミちゃんは、顔をしっかりと持ち上げる。
その隣へと立つシュウスケも、静かに舞台である壇上を見据えていた。

「名前ちゃん、お姉さんみたいですねぇ」

すぐそこで、神楽をともに見守っていた須磨ちゃんの声がする。

「そう? ……嬉しい!」
「あ! 不死川さん、出番ですよぉ!」
「チエミちゃん! 出ますって!」
「うん!」

実弥さんが、以前の奉納の舞でゆったりと着ておられた舞衣は、すっかりと着込まれている。
このような場ではきっちりと、という実弥さんの姿勢であるのか、はたまた心境が変わったのか。
わかりはしないけれど、兎も角、それらも総てがあいまり、いっそ神々しさすら感じるほどであった。

「わ、ぁあ! すごぉい!! すごぉいねぇ!」
「迫力が凄いですねぇ」

チエミちゃんはきゃあ! と盛り上がり、チエミちゃんのすぐ後ろへと立ってくださっていた須磨ちゃんの声がそれに応える。
けれど私はなにも言えなかった。

実弥さんのお顔は造面に隠されている。
隠されているから、その奥へとある筈の視線も表情も、見えるはずが無いというのに、なんだかその奥の実弥さんの視線に射殺されてしまう。──そのような心地がしていた。


造面に隠れて見えなかったはずの実弥さんの視線が、ずっと、ずっと胸の奥までこびり着いて、剥がれなかった。

***


鬼狩り様達の集まりも終え、程なく。
集落で執り行われた新年の祝い事の片付けの為、出ずっぱりであられる奥様のお手伝いとして、里中のお家へと呼ばれたものであるから、私は里中のお家へとシュウスケとチエミを連れ来ていた。

集落行事であった新年の祝い事。その手伝いやら何やらを、実弥さん含め、不死川の屋敷の者は一切合切やっていなかったものだから、それくらいは。と買って出たのは良かったけれど、例年通り、することが山とあった。

今度は主に布物の洗濯が多く、シュウスケもたいそう手伝ってくれはするが、終わりが見えないことに、私はすっかり弱音を吐きそうであった。

「シュウスケさん、……私、お水を捨ててきますね」
「そっちは俺がやる……ます。……変われよ」
「でも、凄く重たいですよぅ」
「だからだろ、チエ」

行くぞ、とチエミちゃんを連れ、行ってくださるシュウスケの背中は、出会った頃に比べて、遥かにしゃんと伸びて見えた。

然程経っては居ないけれど、あの日大人に怯え、惑い、苦しんでいた子供達は、今や洗濯桶一つできゃあきゃあとはしゃぎ、畳の上で転げ、お手伝いをするね、と私達に向け、笑みを見せてくれる。
野山を駆け、畑を耕し、勉学に勤しみ、実弥さんの背中を直向きに見据えている。
それら全部が、私には眩しかった。
嬉しかった。

「ありがとうございます」

シュウスケの洗ってくれていたものを引き継ぎ、物思いに耽った。
あの二人を見ていると、ちっぽけな心が慰められる心地であった。私も、しっかりやらなくちゃ、と発破をかけられたような心地がし、自然と、笑顔になれたのだ。

私が緩む口元をやり過ごし、洗濯物をごしごしと擦り始めてすぐ。

「名前」

そう、私の名前を呼ぶ声がした。
低い声である。

かけられた声に、やにわに意識が引き戻された。

実弥さんはこの時分、畑の方へと出向かれておられるし、荒木のおじさん達も然り、だ。

それに、その低く、少しばかり掠れた音に、何故か私の手が震える。
なんてことはない。覚えていたからだ。

「名前、来なさい」

声が出なかった。
着ているものが変わろうとも、窶れ細っていようとも、くたびれていようとも、あの大きな手が何をしたのか。
私の体が、嫌という程に覚えていたからだ。

「立ちなさい」
「や、……ッ!!」

ズカズカと里中の家へと勝手に入り込んできたその人・・・は、ぐいッ、と私の腕を引っ張った。

やめてください、と言いたいのだけれど、言葉は一向に出てこない。
それどころか、体が動いてしまう。
男の言うようにしよう、とでも言うように、私の体は立ち上がってしまう。

「ほぅ」と私の体を上から下までしげしげと眺めた男は、口元を歪ませた。

「石女ではなかったのか、お前は」
「……そ、……その、」
「まぁいい、そんなことは良い」

そう言った男は、どれだけ見窄らしくなろうとも、尾上の人間であることは、私の、元の夫であることは変わらなかった。

気が付くと、私の体は石のように動かず、けれど、蛇に睨まれた何かのように、ぶるぶると震えている。

わざわざと、そんな私の視界に入られるまで顔を下ろし、ぺちぺちと私の頬を叩きはたき上げながら、男は言った。
金はあるか、と。

「……っあ、……あり、ません……ッ!」
「そんな上等な着物で、奉公人まで抱えて。無いはずが無いだろう」

持ってきなさい。そう、男は言う。

「……ぁ、ッ……ありませ、ん……! あ、のこたち、は……ほ、奉公人でも、ありません……!
これは、さ、実弥さんが下さったもので、……私の、もので、……ないので、……あの、渡せるものは……」
「おい」

先よりも男が頬を叩く力が強まった。私の肩が、嫌でも跳ね上がる。
ひりひりと、頬が痛み始めている。

──怖い。

声が掠れた。

「ぁ、の……な、無い、ん、です……」
「五円で良い。三円でも、二円でも。持ってきなさい」
「……その、な、……無いです……から、……も、もぅ、……こ、来ない──」
「来るな、とでも言うつもりか」

男の言うことに、うんともすんとも応えられず、私は黙り込んでいた。
答えてしまえば、一体どうなってしまうのだろうか。
──怖い。
ただ、怖かった。
怖かったのだ。

否定すれば、また、厭なこと・・・・が起こるかもしれない。
今度はシュウスケもチエミも居る。
どうすれば良いのだろう。
お腹の子も、まもらなければならないのに、どうすれば、良いのだろう。
早く帰っていただかねば。
それだけで頭の中がいっぱいだった。
シュウスケやチエミが怖い思いをしちゃいけない。はやく、何とかしなくちゃ。
そう思うばかりで、体も口も、思うように動かないどころか、どのようにすれば、と考えているのか、自分でも考えの一つとしてまとまったものは無い。

──どうしよう。

頭の中は、それっぽちでいっぱいであったのだ。

「さっさとしないか!」

振り上げられた手から、私はただただ腹を抱え、蹲ることで、逃げた。
もう頭の中は真っ白であった。何も、考えられなくなっていた。

──ぶたれる!

それだけしか、頭に無かったのだ。

寒さにかじかむ指先の感覚が、腹の底までやって来た頃。

一向にやってこない痛みに、視線だけをのろのろと、男の方へと向ければ、真冬にも関わらず、膝もとまでの股引一枚のみを纏っただけの足が、直ぐ側にあった。

実弥さんのものとは明らかに違う。
まだまだ細く、筋張った子供の足だ。

「てめぇ、誰に手ぇ上げてんだよ」

シュウスケであった。
己よりも、一尺二寸も三寸も大きな大人の男を前に、シュウスケは立ちはだかり、私を庇っているのだ。

「し、シュウスケさん、……わた、……私は、大丈夫です、から……ッ! 奥に行って……、ねぇ、お願いですッ!」

シュウスケの手を引っ張るけれど、一塵たりとも動かない。

「し、シュウスケさん……ッ! 奥に……!」
「うっせぇ! 黙ってろよ!」

シュウスケは、私の前から頑として動かず、私や男へと口汚く声を荒らげた。

「その薄汚ぇ手で、触んじゃねぇ!!」

そう男を罵ったシュウスケは、そのままの勢いに任せ、男へと唾を吐きかけた。

この、ガキがァ……と、あの、地を這うような音がした──。
──シュウスケを守らなくちゃ。
──お腹、守らなくちゃ。
──どうにか、……何とかしなくちゃ!

私が立ち上がり直してすぐであった。


「ッ、ぐ!!」

鈍い、男の悲鳴が漏れ出ていた。

男の頭には、短く揃えられた爪の隙間に土の入り込んだ、節ばった手が乗っていた──否。
その手が、男の頭を指先の力だけで締め上げていっている。

私の方まで、ミシミシと音が聞こえてきそうなほどであったのだ。

──「オイ」
──「てめぇ、見た顔だなァ」

まるで、地響きであった、と私は思う。
その声一つで、場が凍りついていた。

ひ、ヒィイ!! と、情けなく上がる、その男の悲鳴ですら、気にもならなかった。
男の背後から顔を覗かせた実弥さんは、その地響きにすら思えるほどの、恐ろしい声色で、尚も言葉を続けたのだ。

「言ったよなァ」と。

この女・・・の事んなると、俺ァ冷静じゃァ居られねぇ、そう、言ったが、覚えちゃいねぇのかィ」

男は、上げていた手を下ろし、己の体を掻きむしっている。
はくはくと、言葉も出せずに動く口の端から、ぎしぎしと、歯の軋む音すら聞こえてきそうだ。

「それとも何かィ。てめぇはわざわざ、俺に顔を見せに来てくれた・・・・・・・・・・ってぇのかィ」

なァ、と、実弥さんは言い、それから漸く、シュウスケと私へと、視線をやった。

「……悪ィが、ちぃと待っててくれぇ」
「実弥さん、ど、……どこへ、連れて行かれるおつもりですか……」

私の声に、実弥さんは視線を逸らした。

「……すぐに帰る」
「実弥さん! ど、……どこに、行かれるんですか……」

尚も食い下がる私に、実弥さんは静かに言った。

「……約束は守って貰わなきゃなんねぇだろォがァ」

なァ、尾上の旦那よォ。
実弥さんは男の足を払い、庭の上へと押し付けた。

実弥さんに頭をがっちりと押さえつけられたままの男は、ぼたぼたと涎をこぼし、目を白黒させている。
なにも例えではない。
本当に、白目と黒目を行き来しているのだ。

──しんでしまう。

「あ、あのッ! ひ、人を! 人を呼びますッ!! 呼んできますッ! 実弥さん、お巡りさんのとこへ、連れていきましょう! ね、私、大丈夫です……ッ!」
「必要ねぇ」

素気無く断る実弥さんに、私はやっぱり、しつこく食い下がった。

「実弥さん、私、大丈夫です! ……私、大丈夫ですよぅッ!」

鋭く舌を打った実弥さんは、「立ちやがれ!」と男を立たせ、尻を蹴り上げながら里中の家から出ていかれた。

「お巡りさんとこォ」

そう、呟いて下さった上で。




ふらふらとなり、地面へとへたり込んだ私に、チエミちゃんがわッと飛び込んで来る。

どうやら、チエミちゃんは、一人。実弥さんへと異常を報せに行ってくれていたらしかった。

そうして、シュウスケが、潤んだ目をごしごしとやりながら「大丈夫かよ」なんて聞いてくるのだ。


なんとも情けなかった。
こんな幼い子に、自分が見守っていくのだ、と言っていた子供たちに、私は守られているのだ。
こんなにも逞しい子供たちに、救われたのだ。
誇らしかった。


だと言うのに、私はちッとも大丈夫なんかではなかった。
──怖かった。
やっぱり、あの人・・・が、怖くて怖くてたまらなかったし、実弥さんは、あの人を本当に殺してしまう・・・・・・
──そう思ってしまった。
それら全部が、恐ろしく、たまらなかった。

「し、シュウスケさん……怪我は……」
「ねぇよ」

アンタは。
そう尋ねてくれるシュウスケに、「大丈夫」そう、震える声で返すのが精一杯であった。

シュウスケや、チエミちゃんの、怪我一つない、滑らかな頬を私はぎゅ、ぎゅと、撫でつけた。
私には、それしか出来なかったのだ。

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