小説 | ナノ

実弥さんがあの人・・・を連れ出ていって下さり、戻られてから程なく。

シュウスケとチエミが息を呑む姿があった。
その姿を一瞥するなり、「途中で出てきちまってるから」実弥さんはそうとだけ仰られて、畑へと戻っていかれた。

シュウスケはそれにも何も言わず、また洗濯物の続きを始めた。
チエミは私の背中へと隠れたままだ。

実弥さんと、私達の間には、確かになにか、溝のようなものが出来てしまったのだ、と言うことを、何とは無しに私は感じていた。

夕飯の時分になり、私達も実弥さんの屋敷へと戻ってから、実弥さんは帰ってこられた。

「おかえり」
「お、おかえんなさい」

おずおず、と言うのが正しいと思えるほどの物言いで、框の上から実弥さんへ向けられた愛らしい声の紡ぐ言葉を、私はすぐそこで、お味噌汁なんぞを拵えながら聞いていた。

「実弥さん、お帰りなさい!」

実弥さんは私を一瞥し、頭を何度か引っ掻いてから、「おう」と、然程大きくはない声で応えられる。

こう言ってしまえば、聞こえが恐らく悪いのであろうが、実弥さんに怯えていた。
恐らく、あの場に居た皆。

あのへと向けられていた、禍々しいまでの空気。あれは所謂、殺気、というものなのであろうが、そんなものを目の当たりにし、肌で感じたのは少なくとも私は初めてであったし、シュウスケらも、初めてに近しいものなのではなかっただろうか。
つまり、怖かったのだ。

けれどシュウスケ達は、私が何を言わずともこうして気持ちを切り替え、実弥さんを迎え入れる言葉を紡ぐ。
本当に聡い子達である、と思う。
例え本心がどうであろうと、この子らのその仕草一つでもって、実弥さんの怒った肩が下がるのを私は見た。

そうしてやっと私は気が付いた。
もしや、実弥さんも怖かったのでは無かろうか。
昼時には、チエミが私の後ろへと身を隠すのを実弥さんは目にしているし、シュウスケが数歩、後退っていたことに、実弥さんが気が付かないはずがない。

もしや、不安があったりはしなかったろうか。
緩慢な動作で三和土を歩く実弥さんの背を、私は眺めた。

「ね、そろそろご飯だから、片付けお願いしますよぅ!」

私が声を張ると、シュウスケは「チエ!」と、チエミちゃんを連れ、居間の方へと引っ込んでいく。

框へと腰を下ろし、足を洗い始めていたはずの実弥さんは、いつの間にか立ち上がっていたらしい。
気が付けば、私は背中側から抱き込まれていた。

何が実弥さんにそのような行動を取らせたのかはわからない上に、どう応えるのが正しいのかも、私にはわからない。
けれど、「ちぃと、疲れた」そう、呟くかのようにおっしゃってから、優しくお腹を摩ってくださる。
そんな手も、実弥さんをも、怖がることが間違いになるのであろうな、と言うことくらいは、私にもわかっていた。

「元気そうですか?」
「いんや、黙りだァ」
「味見、お願い出来ますか」

お玉を差し出せば、づづッと、啜りあげ「うめぇ」と仰ってくださる。

「ね、離して下さらないと、支度ができませんよぅ」
「もうちぃとだけ」
「今日、とびきり寒かったですもんねぇ」
「あァ」
「温かいお汁、食べましょうね!」

実弥さんはすりすりと、私の腹を擦り続け、また「あァ」と答える。

「ずっとここに居られるなら、扱き使ってしまいますよぅ!」
「あと何すんだァ」
「そこのほうれん草……! まだ和えられてないんです」
「ん」

実弥さんは私の傍へと並び立ち、菜箸を手に取った。

「胡麻が……あれ?」
「ほら、屈まねぇで良ィ。これかィ」
「あ、その右の……ありがとうございます」

実弥さんをちら、と盗み見れば、ばちッと視線が合ってしまった。
どちらともなく視線を逸らした。そう思っていたのだけれど、もう一度実弥さんを見れば、矢張り、視線が絡まる。

「……その、……や、薬味!! 薬味にお葱を……!」
「名前」

実弥さんはもう一度、静かに名前、と、私の名前を呼んだ。
目の前に影が落ち、さらさらとした実弥さんの真っ白な髪が額にかかる。
私の顎を下から掬い上げる実弥さんの指先が、ひどく熱い。
惚けてしまって、ため息が落ちそうであった。
僅かに触れた唇はすぐさま離れてしまった。

「ど、……どきどきします……」
「そういうのは黙ってるモンだろォ」
「だって……す……するものはするんですッ」
「遅くなって悪かった」

実弥さんは、怖かったろ、と言った。

「でも、来てくださったから、……それに、シュウスケさんが、凄く格好良くて! 庇って下さってね。出来れば、後で褒めてあげてください。きっと喜びます。
だから、私全然、本当に大丈夫で、……だから……」
「名前」
「だから、ですよぅ、……その、……きっと、そのうち慣れます。慣れて、へっちゃらになりますし、母になるんだから、もっと、立派にやります。心配しないで……」
「なァ」

実弥さんの手が頬を滑り、後れ毛を耳へとかけてくださったものだから、耳が熱く熱くなってしまって、ぶるッ、と体が震えてしまいそうであった。

そうしたら、実弥さんの唇がまた近付き、触れかかったところで、「片付けたよぉー!」と、愛らしい、ころころとした声がやって来た。
実弥さんはずっと左の手に持っておられた菜箸を起き、私の口をぱっくりと食べてしまってから、とっととお勝手から姿を消してしまわれた。

どきどきとしていた。
私は、ひたすらにどきどきとして、時折、手を滑らせながら。はたまた、なにもないところで蹴躓きながら、惚けきった真っ白な頭のままに、のろのろとろとろと、夕餉の支度を進めにかかる、事にした。


***


そうして、あれやこれやと過ごしているうちに、雪は溶け、春が芽を開こうと日に向け背伸びをし始めた頃。

その頃からだ。
荷物が届くようになったのは。

配達の係の方に、本当にうち宛ですか、と尋ねれば「不死川様でしょう? こんな珍しい名字は、そうはありませんよ」と笑いなさって、私の手の上へとその、小さな小包を乗せた。

中には着物が、一着。
それも、あまりにも小さなものだ。
そう。
まるで、童が着るような。

帰ってこられた実弥さんへと問えば、バツの悪い顔を作りなさって、「ちと早過ぎたなァ」なんて仰られるものだから、確かに家で間違いはなかったらしい。

「まだ? ねぇ、名前さんのお腹、びーーっくりするくらいに大きいねぇ」
「ね! チエちゃんも、触られますか?」
「いいの?!」

良いですよぅ! と笑えば、そう……とチエミが私のお腹へと手を添えた。
お腹は本当に本当に大きくなっており、今なら四人でも五人でも、産んでしまいそうだ。と思うほどであった。


「オラ、なァにしてんだァ! ひっくり返ったらどうすんだァ」
「そッ、……そんなこと仰られますけど! 少しだけ背伸びをしているだけですよぅ! そんな事じゃあお布団だって敷けないじゃないですかぁ!」
「だァから! それくらい俺がやる、つってんだァ」
「実弥さんだって荒木のおじさん達に呼ばれているじゃありませんかぁ! 早く行った……ほうが……」

私は言葉を止めた。
つつつ、と股から何かが漏れ出ていったのだ。
畳を汚してしまう! と思い、急ぎ廊下に出たのだけれど、──漏れてしまった・・・・・・・
それだけで頭がいっぱいであった。
実弥さんと障子の貼り替えの作業の取り合いをしていた矢先のことだ。
実弥さんも、あまりのことに立ち尽くして居られたかと思えば、箪笥の中から取り出した手拭いで畳を拭き始めて下さる。

申し訳なかった。
もう、そんなことをさせている、というだけでも泣きそうであるというのに、この粗相・・はチエミやら、子供ではなく、私のものなのだ。
顔から火を吹きそうだった。

けれど、その考えははじめのうちだけであった。

止まらないのだ。
ちょろちょろと、股から何かが漏れ出る感覚が、ずっとあり、廊下の木目にそって、何か・・が流れていく。

「さ、実弥さ……」
「ちぃと待ってろ、すぐ終わる」
「そうでなくって! ……実弥さんッ!」
「あァ? どうした……」

実弥さんの目があッと見開かれ、私はサッと担がれた。

「ここで寝てろ。良いな。すぐに布団を……いや、先にあのバァさん呼んでくる」
「は、はいッ!」


実弥さんの一声で、屋敷はにわかに騒がしくなった。

チエミは奥様へと報せに走り、シュウスケは私の為に、と布団を敷いたりやら何やらと尽くして下さる。
実弥さんの姿は、驚くほどに速く小さくなっていった。

──何かあったらどうしよう。
今度はそんなことで頭がいっぱいになる。
そういえば、今日はまだお腹からの元気な挨拶・・が無い。
──どうしよう!

かと思えば、段々とお腹が張ってくる。

「お、おい、大丈夫か?」
「シュウスケさ……お、お布団汚れる……ッ!」
「んなこと気にしてんな! だ、大丈夫なのかよ?!」
「わ、わからないですよぅッ!!」

わぁわぁと言い合っているうちに腰が砕けるような痛みがやって来た。
本当に、砕けるような・・・・・・痛みなのだ。
ぶわッと脂汗が吹き出し、額はべしゃべしゃになってしまった。
手も震えだしてしまう始末だ。

気が付けば、シュウスケに手を握って貰いながら、私は叫んでいた。

「な、……何か・・出そうですッ!!」
「まじ、かよ!? ちょ、まだもうちょっと待ってくれよ……!」
「む、むり……ッ! で、ますって、ばぁッ!!」
「まってくれ! さ、実弥さん! 早く帰って来いよぉッ! チクショウ! どうすりゃ良いンだよッ!」
「もう! 痛ッ、て、ば……ァ!! いた、ッ……ぅ、う゛ぅう!!」
「待て待て待て待て! 待ってくれ!!」
「待てないって、……言ってるでしょぉッ!!!」

ぎゃあぎゃあとやってるうちに、スパァンと襖が開き、息を切らせた実弥さんが、産婆のおばぁさんを連れてきてくださったらしいのだが、私にはここからの記憶は殆ど無かった。

ただ、一つ言えることがあるとするのであれば、とてもとても、時間がかかり、何やら途轍もないことを口走り回っていたらしい、ということは、後々散々聞かされることになる。

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