「面倒と思われましたか」
名前がおずおずと、──否。どこか不機嫌を懸命に隠そうとしているような声音で言った。
丁度、実弥がその日、夜の鍛錬も終えたため、シュウスケと二言三言、話し終えた後に寝室へ入ってすぐのことである。
シュウスケへとチエミを託し終えた名前は、その後鏡台の前で、すっかりと滑らかになった髪へと、未だ櫛を通し続けていたのだ。
実弥は戸を開けた手もそのままに、目を瞬き、暫し立ち尽くした。
何を言われているのか、今一つ理解が及ばなかった。
「そりゃァ、どういうことだ」
名前は実弥の顔をちらッと見てから、口を少しばかり膨らませる。
「気付いて無いと思われているかも知れませんが、実弥さんが私を避けていること、知っていますよぅ」
「何のことだァ」
「きゃぁきゃあ大袈裟に騒いだからですか」
「だから、何のことだァ」
実弥が鏡台の側へとドスんと音を立て腰を下ろせば、実弥の座ったのと反対へと顔を背けながら名前は「触ってくれません」だのと言う。
「そ、りゃァ……そんな事ァ、ねぇだろ。
布団もお前が敷いた通りにぴっちりくっつけたまんまだろォが」
「……今日も、鍛錬を終えられてから寝室へ来られるまでも、随分かかっておいでじゃないですか。」
ぷぅ、と頬を膨らませているのが、髪の隙間から見え隠れする名前の横顔に、かけるべき声が実弥には見つけられない。
図星であったからだ。
「本当は、私が眠りにつくのを待っておられたんですか」
名前の背中で、髪がはらはらと踊る。
次第に俯いていく名前の視線の先を辿りながら、実弥は口を引き結んだ。
──どの口が言えようか。
例えば、お前に触れたい。だが、あの日。頬を打った手の感触が未だに蘇る。だのと。
抱きしめたい。けれど、また痛い思いをさせたらどうするのか。
手を伸ばしたあのときの、体をびくつかせ、怯えを称えたお前の目が、本当は恐ろしい。だのと。
一体全体、どの口が言えるのか。
そんな事をつらつらと考えるくせに、実弥は、そんなことはねぇ、考えすぎだ。と告げる。
「……ンなつもりは無かったァ。明日も早ぇんだから、とっとと寝ちまえ。
待たせて悪かった」
「……嘘つき」
「嘘じゃねぇよ」
「私が眠った後、実弥さん、寝室を出ていかれているのも知ってますよぅ」
言葉に詰まった実弥を振り返りながら、名前はさらに続けた。
「シュウスケさんの夜泣きでもなんでもなく、わざわざお外へ出られているの、私、知ってます」
「……狸寝入りしてたのかよ」
「すぐ隣で眠ってるんだから、わかります」
「小便わざわざ知らせてから行けってかァ?!」
「嘘です! お手洗いに一時間も一刻もかかりますかっ!」
「ならクソだよ糞ォ! てめぇ面倒くせぇなァ!!」
名前の、開いていた口が閉じるのを、実弥はどこか遠くの物を見るような、自分事では無い心地で見ていた。
──また、やってしまった。
首の裏を引っ掻きながら、息を吐き出す。
違う。
そうじゃない。
決して面倒だなどと、思ってはいない。
名前は良く、言いたいことを言え、という。
実弥が言い渋るのをひどく嫌う。
それには「言いたいことも伝えられずに会えなくなってしまった人が居る」そんな名前の古い記憶が関係していることを聞き及んではいるが、そんなことは実弥の矜持が許さなかった。
ただ、それだけだ。
「ちぃと、出てくる」
「こ、こんな時間に、ですか……!」
名前の言葉には答えず、実弥は寝室を後にした。
***
名前は、里中の家へ奉公に来た際、歳の近い里中の一人息子の相手を言い渡されていたそうだ。
ただ、それだけではあまりにもかわいそうだ、等と、荒木の親父やらの進言がもとで、手習い所に通うことになったらしい。
だが、それが悲しい出来事の発端となってしまった。
そもそも、里中の一人息子は、体が弱かった。
走ると喘鳴の末、高熱を出し、はしゃげば発作の咳が止まらなくなる。
であるから、名前はただ、ぢっと里中の家の縁側で、息子と読めもしない本を開いては閉じ、開いては閉じ。
それを日がな一日繰り返すだけの毎日を送っていたのだ。
それを見ていたヤス子が不憫に思い、夫である、荒木の親父へ相談したそうだ。
名前は手習いへと通うこととなった。
縁側に一人残された息子は、本を開いては閉じ、開いては閉じ。名前の帰りを待っていた。
帰ってきた名前を迎え、「今日は何があった?」そう尋ねるのが、次第に、一人息子の日課となっていった。
「今日、ユウくんが、算術を教えてくれたよ」
「ミキコちゃんが、手習い教えてくれたよ」
「手紙を書けるようになったよ」
「かけっこをしたよ」
「木登りをしたの! 見てて!」
次第に、名前の出来ることは増えて行き、とうとう、事は起きた。
手習い所で教わった算術を、里中の息子へと披露したときであった。
「僕もやってみる」
「はい」
「ここが、……うん、……どうだったろう……」
考え込んだ里中の息子の文字の上へと指を滑らせながら、名前は自慢気に言った。
「兄坊さま、ここは、こうすると解けるそうですよ!
名前は兄坊さまに早くお伝えしようと覚えました!!」
「……もう良い」
「兄坊さま? お疲れですか? なら、名前はお手玉やりますよぅ! 今日アキコちゃんに教わりました」
「要らない」
「兄坊さま?」
「出ていけ」
「名前は悪いことをしましたか?」
ごめんなさい、と名前は何度も頭を下げた。
けれど、里中の息子はそれすらも気に食わなかった。
名前を蔵へと閉じ込め、走って母屋へと戻ったそうだ。
名前は蔵の扉の隙間から外を覗き、何度も「止まって、走らないで」と叫ぶも、里中の息子は聞いてはくれなかったらしい。
そうして不幸にも、それからしばらく。
ご子息は高熱を出し、三日三晩苦しみ抜いた末に、名前が妬ましい、と言葉を残し、亡くなってしまったそうだ。
そこまでを実弥へと告げた名前は、奥様に申し訳が立たないんです。
兄坊さまを、悲しいままにしてしまった。
何度もそう呟き、今にして思えば、兄坊さまの気持ちが、ほんの少しだけわかるかも知れない。
名前はそう言って、眉を下げ、実弥へと今にも泣き出してしまいそうなほどの、笑顔を向けた。
実弥には、里中の息子の気持ちが、痛いほどにわかってしまった。
なんてことはない。
悔しかったのだろう。
いつまでも、自分がものを教えていってやれる。そう思った相手が、いつの間にか自分より先へと立っているのが。
自由に駆け回っているのを見ることが。
追い抜かされていくのが。
置いていかれるのが。
実弥には、痛いほどにわかった。
いつかの夜。
シュウスケの告げた言葉が何度も頭の中を巡っていたからだ。
「聞いちまった。実弥サンには、もう時間がねぇって。
俺、ちゃんと恩は返すから。チエミも名前サンも、守れるようになる」
頼もしい言葉であった。
演舞の神楽も、日に日に上達してくる。
眩いばかりの可能性に、実弥は何度も目を窄めたほどであった。
だから、悔しかった。
──まだ、俺が守りてぇ。
まだまだ、俺が、守っていきてぇ。
ずっと。
宇髄のとこの産まれた坊を抱いて、頑張ったなァ、って祝に、何かやりてぇ。
次も産まれると言っていた。その顔を見てぇ。
竈門の兄妹やら、生き残った奴らに、まだ、伝えきれてねぇ事がある。
風の呼吸が半端な奴らばっかりだったから、徹底的に叩き込んでおきてぇ。でなきゃ、次なんて任せらんねぇ。
冨岡は、まァ、いい。
シュウスケが、きちんと舞うところを、見てぇ。
チエミが、字を書くところを見てぇ。
きっと、産まれてくるだろう我が子を抱き上げてぇ。
名前はまだ候補ばっかりだから、顔を見てから決めてぇ。
名前に、でかした、良くやった、ありがとうなァ。そう言ったら、どんな顔すんのか。
ちゃんと見てぇ。
夏は蛍でも見に、皆で行っても良いかも知れねぇ。
秋は、団子でも食いながら赤ん坊特有の、団子みてぇなもちもちの手を眺めてるんだろう。
冬場は、寒ィから、皆で一つの部屋にまとまって寝ても良いかも知れねぇ。
また春が芽吹く頃。
山菜でも摘みに行こうか。
食えるモンと、食えねぇモンを、教えてやりてぇ。
夏前になったら、あのキンと冷えた、アイスクリンのたっぷりのクリィムソォダ。あれでも飲みに連れて行ってやろうか。
シュウスケとチエミの驚く顔が、目に浮かぶ。
きっと、名前はそれを嬉しそうに見てんだろう。
玄弥たちに、報告をしてやりてぇ。
名前と、ちゃんと仲直りがしてぇ。
そうだ。
時間が無いのだ。
残された時間が幾ばくか。実弥にもそれはわからない。
唯一つ。
確実にわかっていることは、今の自分の体力の衰えだ。
通しで何度神楽を舞おうとも、息など切れることは殆ど無かった。去年だ。たった一年前のことだ。
それが、どうだ。
たったの、三度。
三度で息が上がる。
額にぐっしょりと汗を掻く。
走る速度が落ちた。
眠れない日が増えた。
食は以前の半分ほどになった。
時折、指先が震える。
畑仕事ができなくなる日も近いのかもしれない。
満足に舞えるのも、もう、次が最後なのかも知れない。
だからだ。
光を溜め込んだビイドロのような目で、「後は、俺が守る」そう言ってのけるシュウスケを、どこかで誇らしく思った。
そして、悔しかった。
まだ、俺が守っていきてぇ。
俺が、守りてぇ。
まだずっと。
──ここに、いてぇ。
真っ直ぐな目で、実弥を見据える目が、眩しすぎた。
そして、怖かった。
やってきたことには、何一つとして後悔などしていない。
間違いはあったことだろう。
きっと、玄弥の事も、もっとどうにか出来たはずだ。
あの日、お袋を探しに行くなら、皆で行きゃぁ良かったんだ。きっと。
覚悟が有ろうが無かろうが、弱ぇんだから、とっとと辞めろ。そう言って蹴散らして、辞めさせりゃァ良かった隊士達も居たろうに。
名前の結婚話すらも蹴っ飛ばしちまって、素直に「俺にしとけ」とでも言ってやりゃァ良かったんだ。
むしろ、もっと良い奴を、見繕ってやりゃァ良かったんだ。
シュウスケ達も、宇髄のとこか、あの隠の、後藤、とか言ったか。アイツにでも、託しちまっても、きっと、良かった。
なんなら、里中の家へ頭くらい、下げて頼み込んじまえば良かった。
だが、それでも。
後悔などしていない。
幸せなら、山とある。
就也が産まれた日。弘は兄となった。
弘のあのまろいふくふくの頬が、興奮で真っ赤になったことを、忘れることは無いだろう。
産まれたばかりの玄弥の手のひらへと、指を乗せた日の事を覚えている。
全身の毛が、総毛立つ程に緊張した。
小さな、自分の半分もない手に添えた指を、握ってくれた力強い玄弥の手。あの温もりは、恐らく死んでも忘れはしない。
「兄ちゃん」そう、呼んでくれる弟妹の声を、笑った顔を、刻んで持っていく。
親父が、たった一度。
一度だけ、渡してきた風車。
優しく、情に厚い兄弟子。
柔らかく、芯の強い柱だった、花の匂いのする女。
お館様と慕ったあの人の言葉。
玄弥の残したもの。
伊黒と行った、茶屋の団子。
宇髄と飲んだ酒。
集落の居心地も、悪かねぇ。
温かい白飯と、笑い声。
チエミが書く、歪な字と、シュウスケの拗ねた声。
名前の拗ねた顔。
腹を嬉しそうに撫でる姿。
「実弥さん」と、呼ぶ声。
己を形作る全部が、どうしょうもなく、愛おしい。
全てが幸せであった。
実弥はつらつらと思考するが、結局は、幸せの前で背中を曲げたくないのだ。
両の足で立つ背中を、最期まで「幸せだった」と云う背中を、ぴンと胸を張って見せていたいのだ。
強がりでも何でも良い。
今、下を向けば崩れ落ちてしまいそうなのだ。
「死にたくない」
そう、溢してしまいそうなのだ。
一度でも弱音を吐けば、そこから腐り、崩れ落ちてしまう気がするのだ。
そのあまりにも薄暗い、恐ろしいまでの不安感を、里中の一人息子の弱さを、実弥は痛いほどに理解してしまっていた。
それを知られたくなどない。
決して、誰にも。
ただ、それだけであった。
***
翌朝、実弥の手には大嶌屋の団子があった。
少しばかり大嶌屋の旦那に無理を聞いてもらい、手に入れた団子であった。
名前が起き出し、活動を始めるよりも早く。
屋敷へと帰り着いた実弥は、厨の棚の奥深くへと、包を隠した。
ここであれば名前も気が付くことはないだろう。そう納得してすぐ。朝の準備へと取り掛かった。
一日も終え、すっかりシュウスケやチエミも寝静まった頃。
実弥は縁側から外を眺めていた。
名前が出してくれていた茶はもうすっかり冷え、表面には埃が入り始めている。
とっとと飲んで、部屋にでも戻るか。
ぼぅ、としていた実弥が湯呑へと手をかけ、何度か傾けた時であった。
暫く背中へあった気配が、ようやっと動いた。ぐりぐりと何かを押し付けられる。
「ちぃと、待ってろ」
実弥はすぐさま立ち上がり、新しい湯呑の一つと、今朝方持ち帰っていた、大嶌屋の包みを、今度は柱へとすっかり体をひっつけている名前の膝もとまで差し出した。
むッと尖らせた口もとは、些か実弥の照れが隠せないためだ。
それくらい、許しやがれ。
と、その程度のつもりであった。
「……大嶌屋……」
「要らねぇなら、俺が食う」
「い、いります!!」
勢い良く頭を振る名前は、要る。と、もう一度呟いた。
「大嶌屋、だもんなァ」
「大嶌屋……ですもん」
「栗羊羹が出てるってよォ」
がさがさと包みを開けながら実弥が言えば、良いですね。食べたいですねぇ。と、柔い声がすぐ、そばでする。
「チエちゃんたちには、これは内緒ですねぇ」
「……もうちぃとだけなら、置いてらァ」
「じゃあ、これは私と実弥さんの……ですか……?」
それには答えず、実弥は一串つまみ上げ、自分の口へと放り込んだ。
「好きに食えェ」
実弥をじ、と見てから、いただきますと呟くように言う名前も、串を一本。右の手で摘み上げた。
「美味ひいでふ」
「ちぃと固くなっちまってんなァ」
「でも、甘ぁくって、んへへ、美味しい」
「茶ァ」
「頂きます。…………へへ、美味しい」
「ん、うめぇ」
串から団子を引き抜いた名前は、静かに実弥を見つめた。
それも、なんとなくの気配で感じ取っていた実弥は、適当に明後日の方向を向いた。
どうにも不格好な仲直りの仕方である、ということはわかっている。
なにより、その意図を名前が理解するかも怪しいところだ、と実弥は考える。
それでも、照れくさいものは照れくさいのだ。
「実弥さん」
名前の声に、何も返さずにいれば、蛞蝓が這ってくるかの如く、のろのろと指の付近で何かが蠢いているのに、実弥は気がつく。
そうして実弥は顔を必要外には動かさず、湯呑を傾けるついでとでも言うように、視線だけを名前へとやった。
ふ、と見えた名前の目が、きらきらとしていた。
これは、つい最近見たかもしれない。──実弥は思い出そうとしていた。
──あァ、シュウスケだ。
実弥は思い出した。
実弥の動きを一つとして取りこぼすまい、と目を見開いていたシュウスケを。
同じだ。と思った。
実弥の挙動を、じぃ、と見ているのだ。
ちょン、と、実弥の指先が、暖かいものへと、また、触れた。名前の、左手の指先だ。
すこし、震えているかもしれない。
名前を見ればやはり、そのきらきらとした瞳があった。そして、その視線と交じっていく。
朝、茶碗やらを受取るとき。
昼飯の時もそうだ。
それから、着替えやら、手ぬぐいを受け取るときだとか。
指先が触れる度に、名前は軽くびく、と体を揺らし、実弥の顔色を伺おうとしていた。
怯えを隠すような、気不味さを妊む仕草が、そこかしこに点在してあった。
実弥とて、それは変わらなかった。
名前が怯えを見せるたびに、静かに口元を引き結んでいたのだ。
だから、気が付いていた。
震えているのは、なにも名前の手ばかりではない。
実弥自身の指先とて、震えていたのだ。
「怖ぇか」
「……そ、んなことありませんよぅ……!」
「おィ、声でけぇ。アイツらァ、起きちまう」
「ご……ごめんなさい……」
名前の視線が、実弥の指先と触れている細っこい名前自身の手の方へと滑る。
少しずつ。少しずつ絡みが深くなっていくのを、実弥はぼぅ、と見ていた。
「悪かった」
そんなものを眺めているままに、──別に、面倒だなんて、思ってねぇ。と、実弥はそう続けた。
「怖がらせちまった。だから、どうすりゃァ良いか、わからねぇまんまだった」
「……こわ、くなんて……実弥さんを怖くなんて、無かったはずなんです。だから、ちがう……」
だって、と名前は言う。
「お、夫が、私に触れているだけなんですよぅ……実弥さんの、指先が触れているだけです……! 怖くなんて、ちっとも……!
ちっともありませんよぅ! だから……ッ、だから、これは……震え、は……! 気の所為です!」
「お前が怖くなくなるまで、どんだけでも待つ。
なァ、俺が悪ィ。……だから、そう気にすんなァ」
「違うんです……! 怖くないんですったらぁ!」
とうとう涙をぼろぼろとやり始めた、未だ指の一本すら絡みきっていない、震える名前の指先から手を遠ざければ、その細い指先はついてきた。
ついてきて、絡んでいった。
「なァ、また今度で俺ァ大丈夫だァ。
なんなら、別に今のままでも構わねぇから。……ほら、もぅ寝ちまえ」
「嫌です」
そのうち、先までよりもずっと深く絡んでいく、互いの指。
その付け根まで絡んだ手。
その震えが止まることなど無かった。
それがどちらから齎されているものかなど、もう、些事である。
名前が怖がっている。
だというのに、名前は指の少ない手と絡む己の手を、ひどくいとおし気に眺めている。
実弥は、自分が同じ顔をしていることに、気が付いている。
そして、どうしようもなく暖かいのだ。
実弥はほんの少しだけ、握り返した。
「……痛かねぇか」
「ないです。……ないですよぅ」
「怖ぇなら、いつでも解きゃ良ィ」
「怖くないんです、……すぐ、……すぐ、震えだって、止まります……」
ぽろぽろと、名前の目から落ちる涙が、隙間なく重なる指の縁へと滲みていく。
「無理して欲しいわけじゃねぇ」
「無理じゃ、ないんですよぅ……」
「そうかィ」
「……」
目の奥が、ツンと熱かった。
「ずっと、ずっとずっと、お慕い、しているんですよぅ」
名前が睫毛に乗った雫をそのままに瞬きを繰り返すから、互いの手が、しとどに濡れていく。
名前の指先に、きゅう、と力が入った。
「それだけ、なんです」
「ん」
腕に押し付けられるぬくもりが、実弥には、どうしようもなくいじらしく感じられた。
*
昼前。
一足先に休憩をしている親父らを後目に、実弥は雑草の処理やらをやっていたのだが、遠くから──ぱたぱた、と幼い足音が走ってきていた。
「お! チエちゃん、来やったぞ」
「おゥ」
「腹減ったぁ」
親父の言葉に実弥は頷きつつ、シュウスケのケツを叩いてやれば、シュウスケがぐぐ、と伸びをした。
「兄ちゃぁん! じき名前ちゃん来るよぉ! すっっごいんよぉ!!」
「なにニヤけてんだ。顔にアンコつけてよぉ…………アンコ?」
シュウスケの言葉に、チエミの顔へと視線をやれば、その幼子特有のふくふくとした頬へと、黒い固まりがぺっとりと張り付いている。
それを拭うシュウスケは、その手をペロッと舐めていた。
あ! ついてしもぅた! と、きゃあきゃあとはしゃぐチエミのそばまでやって来た名前は、シュウスケへと箱を持たせた。
「あれッ? 包みじゃねぇ」
「そ、その、……皆さんで……良かったら」
もごもごとやりながら言う名前の視線は、ちらちらと実弥の顔を覗いている。
それに気が付いたらしいシュウスケは、ケッ、と吐き捨てながら、実弥の方へと箱を押し付けた。
「あ、えッと……」
「そーいうのは犬も食わねぇよ!」
そうして、シュウスケはべぇー! と舌を出し、名前からいつもの包みを引っ手繰り、そのままチエミと仲良く握り飯を食べていく。
なんとも、むず痒かった。
実弥にはその一連の流れを、そうとしか表現が出来なかった。
「その、実弥さん、それは、……皆さんで……その、……ぜひ」
「……おゥ」
悪ィな、と幾らか戸惑いがちに受け取れば、「チエちゃん! 私、先に戻っちゃいますよぅ!」と、名前は急ぎ足でもと来た道を戻っていく。
後を追っていくチエミの背中を見ながら、箱の蓋を開いてやった。
なんのことはない。
ぎっしりとおはぎが詰まっている。
どうやら、"仲直りしたい"の意図は伝わっていたらしい上に、これが返事だということか。
合点がいったところで、誰へ渡すよりも先に、実弥はひょい、と一つを口へと放り込む。
今朝方から、慌て用意をしたのだろう。
まだ小豆の食感が、ところどころに残っている気がする。
それでも、名前に砂糖でしっかりと煮込まれたそれは、唾がたっぷりと出るほどには、甘く、うまかった。
「…………甘ェ」
実弥はその甘さを暫くは噛み締めていた。
次へ
戻る
目次