小説 | ナノ

いつもの通り、実弥は日の出すぐに目が冷めた。

まだこんもりと膨らんだ隣の掛け物。
その中へと丸まっている名前の姿を想像し、実弥は静かに息を吐いた。

昨夜まではピッタリとくっついていた二組の敷布団が、指先程の隙間を開けていた。
それが、実弥にはどうしようもなく深い溝のように感じられた。

普段通りならば、名前の額のあたりを撫で付けながら、あどけない寝顔を見て、しょぼしょぼと目を開けるのも一苦労している名前を笑ってやる。
そうして朝を迎えるのだが、実弥はとうとう、名前に触れることが出来なかった。

布団を抜け出し、まだ朝も浅い中、庭で顔を洗っていれば、「はよぉ」と、どこかで緊張感を孕んだままの幼い声がした。

シュウスケだ。

適当な手ぬぐいで顔を拭いながら、シュウスケを見れば、バツの悪い顔を作り、また、シュウスケは話し始めた。

「名前……さんは、平気か……ですか」
「別に畏まらねぇで良ィ」

お前は。良く眠れたかィ、と、実弥は言葉を続けた。

「うん」
「昨夜は魘されちゃ居なかったみてぇだが、平気か」
「うん。大丈夫」

シュウスケは、実弥に倣い、素足で実弥の隣まで歩いて来ては、顔を濯いだ。


このシュウスケという少年を見ていると、実弥は己の弟妹の姿を思い出す。
というのも、シュウスケは似ている・・・・のだ。どことなく。
例えば、猫のような丸い目であるとか、小ぢんまりとした口元に、控えめな鼻。
例えば、生きていた・・・・・弟なのだ、と言われれば信じたくなるほどに、似ている。
きっと、笑ってみせられれば、息を詰めるかもしれない。実弥はそう思うほどに、"似ている"と思っていた。

であるから、件の草臥れかけた空き家から出てきた、この少年と童女を他人だ・・・と見捨て、捨て置くことなど毛頭できる気はしなかった。

名前も、どこかでそれを察知したのかも知れない。
実弥の表情を覗き込むように何度か見ては、考え込み「引き取ります」と。そう言った時に、口元を引き結ぶのに力がいった。
実弥は何度も「アイツらじゃねぇ」と、自身へ言い聞かせていた。

魘されるシュウスケを起こし、縁側で茶を飲みながら過ごす夜の時間を、面倒だと感じることなど、実弥には無かった。

そうして、日毎ぽつぽつと語られていくシュウスケの、今までにもそこかしこで聞き及んできた事を辿っていくかのような生い立ち。
それらをすべて鵜呑みにするわけではない。子供であるから、実際の物事よりもより感情に引っ張られた記憶となっていることもあるだろう。
けれど、それは実際に起きたこと・・・・・だ、ということは間違いなかった。



父と母を早くに亡くしていたシュウスケは、五つ上の兄に育てられたようなものだ、と語り始めた。

たった一人、兄はあちらこちらへと頭を下げては仕事をもらい、日銭を稼いできたのだとか。

その日、兄の帰りが遅かったそうだ。
どれほど遅くとも、夕餉は揃って食べていた。だが、その日は違った。
待てど暮らせど、帰らぬ兄に痺れを切らし、まだ幼かった妹が泣きつかれて眠った頃。
にわかに表が騒がしくなっていた。

夜も深まった頃だ。恐る恐る玄関扉を開けば、何か、太い肉の塊・・・・・のようなものを片手に、玄関前に立つがそこに居たという。
幸い、その後"鬼狩り"と名乗る人間が、を斬り伏せはしたものの、鬼の食い散らかした残骸・・が、そこかしこに散らばっていた。

後の事は、良くあることだ。
身の回りの世話の話を持ち出してくる、役場の者・・・・と言う者も居たが、親と過ごしていた家。兄の遺していった思い出。それらを捨てることも出来ず、少年はそこに住んでいたいと望んだ。
だが、見てしまっていた人間がいた。

「人殺しの弟」

そう、影で噂され始めるのにも、そう時間はかからなかった。
働かせてくれる人も居なくなり、蓄えなどない少年は、盗みを働いた。
それが悪かった。
住む場所も追われた。だが、家賃も満足に払えなかったろうから、それも時間の問題であったろう、と、少年は語る。

アイツさえ居なきゃ、皆……笑ってた!
兄貴アイツさえ、居なければ……!

そこまで言ったシュウスケの顔を、実弥は自身の胸へと押し付けた。
押し付け、実弥は言う。

「今日まで良くやった」
「兄ちゃん、が……っぅ、……くそ、」
「良い兄貴じゃねぇか。それまでお前らを守ってたんだろォ」

実弥はそう言って続けた。立派な兄ちゃんだ、と。

「でも、鬼んなった!」
「悪ィのは鬼だ。お前の兄貴じゃねぇ。
お前らの兄貴は、お前らをここまででっかく育ててくれた兄貴だ。そこは間違っちゃァいけねぇ」
「……みんな、俺たちのせいだって……兄貴が、悪ぃって! そう言って……」
「鬼ンなった兄貴は、お前の兄貴じゃねぇ。鬼だ。それ以上でもそれ以下でもねぇ。お前だけは間違えんな」
「うん」

そうして、未だ夜毎「兄ちゃん」と魘されるシュウスケの頭を実弥は撫で付けながら言った。

「もう大丈夫だ。怖かねぇよ」

***


顔を濯ぎ終えたシュウスケは、静かに実弥を見上げていた。

「……その、……ごめん、なさい」
「何に対して、だァ」

実弥は無言で見つめてくるシュウスケの言いたいことを、なんとなくだが理解していた。

つい、昨夜の話。
おそらく、それ以外には無かった。


正月に行うことになった、各呼吸の舞手が集う神楽。昨日はその打ち合わせを兼ねた集会であった。
丁度、生き残った隊士で都合のつく者も呼び寄せ、風と水の呼吸を誰に継ぐのかだの、そんな話もしていたかも知れない。

ともかく、そんな話も程々に演舞の練習やら、段取りの確認やらが行われ、全てが終える頃にはすっかり日も暮れていた。

実弥は件の、引き取った兄妹が心配であった。
妹の方は、良い。
まだ幼いことが救いであったのか、誰にでも懐き、にこにこと笑い、時には不安気な顔も見せるが、そういう時は決まって名前へと引っ付きに行く。

だから、問題はシュウスケの方であった。
名前にはあまり懐いていない、というよりも、どう接すれば良いのか、良くわかっていないのかも知れない。
目で追っている姿はちらちらと見かけていた。だが、名前に辛く当たる姿を、実弥は見ていたし、それも一過性のもの、とは思ってもいたが、未だ良くなる兆しは無かったのだ。

とっとと帰ってやらねぇと。
その一心で、実弥は足を動かしていた。



集落の坂を登り切り、竹垣も見えてきた。
じき家につく。
そう思ったが、その時点で実弥は違和感を覚えた。

もう夜だ。
夕暮れ、ではない。
夜であるというのに、屋敷に人の気配がない。
直ぐ側を飛ぶ、未だ実弥から離れない鎹鴉の爽籟へと実弥は目配せをやり、「行け」と指示を飛ばした。
「アイワカッタ」と告げるよりも早く。爽籟はその黒々とした羽を夜へと溶かしていった。

門の前では、屋敷にいる人間のうち、一番幼いチエミがひときわ大きな声を上げ、泣いている。
実弥は膝を付き、虱を退治するため、短く刈り上げ、ショリショリとする、おおよそ童女とは思えない風体のチエミの頭を撫でた。
そうしてできる限り静かに問うた。

「どうしたァ。兄ちゃんは」
「うぅ! ……う゛ぇ、……うぇえん……ひっく、」
「ほら、泣いてちゃァわかんねぇだろ」
「名前ちゃん、いないの!」
「わかった。兄ちゃんはァ」
「お兄ちゃん、探しに行ってるの……!」
「……まだ、どっちも帰ってねぇんだな」
「チエ、一人なの!」

頷くチエミの言葉は断片的ではあったが、事態を飲み込むのには十分であった。

チエミを抱きかかえ、竹垣に囲われた通りを歩いていけば、顔を膨らませ、不服を前面へと押し出したシュウスケが帰ってきた。

「オイ、名前は」
「……知らねぇ」

ひっくひっくと泣いているチエミを見たためか、「おい」とシュウスケは実弥へと突っかかり始めた。

「俺の妹泣かせたのかよ!」
「怒るくれぇならほっぽってこんな時間までほっつき歩いてんじゃねぇ!!」

ンな事より、名前に会ってねぇのか! と、実弥が吠えるように問えば、またシュウスケは怒鳴るように「知らねぇ!」と叫んだ。

「だいたい! あんたら、他人のくせに──」
「先に戻ってろォ」
「ちょっと待てよ! アイツがなんだってんだよ!」
「中入って大人しくしてろ。飯まだなら適当に食ってろォ」

シュウスケの言葉も聞かず、とうとう実弥は走り始めた。

そうすると、すぐさま爽籟は実弥の隣へと滑り降りてきた。

「実弥! コッチダ!!」

***

肝が冷えた。
万が一。
例えば、あと五分遅かったら。
例えば、あと少し、シュウスケと話し込んでしまっていたら。
例えば、宇髄の誘いに乗り、食って帰る事にしていたら。
チエミを宥めすかしてしまっていたら。
爽籟が、まだ見つけていなければ。


気が付けば、実弥の目の前には頬を赤く染め、腹を抱えたまま怯える名前の姿がある。
右手は僅かに、じンとした痺れがあった。

「おい、名前……」
「ご、めんなさい! ごめ、なさい……!!」
「悪かった」
「ごめんなさ、……おねが…………」

ぎゅ、と作った拳が、未だ震えている。
実弥はそれを感じていた。
また・・うしなってしまう、と思った。
それが何よりも恐ろしかった。
吐き出した息は震えを伴い、心臓が潰れそうなほどに脈を打っていた。
良かった。
生きている。
良かった。
良かった。

未だ怯えてしまっている名前へと声をかけるために、膝を付けば、急速に体の力が抜けていくのを、実弥は実感した。膝が笑っていたらしい。

「……ハ、……クソッ」

それから漸く、実弥は怯える名前の姿に泣きたくなった。
──これじゃァ、クソ親父・・・・と一緒じゃねぇか。
──クソ野郎だ。


手を差し出しただけでも体をびくッとさせた名前へと触れることは、実弥には出来なかった。



屋敷の前まで辿り着くと、ランプへと火を灯した直ぐ側。
座り込み、実弥たちの帰りを待つ兄妹の姿があった。

「来た!」
「………………わるか、……っわ!」

名前はシュウスケへと飛びつくように、その細腕をシュウスケの顔へと這わせ、そのうちぎゅうぎゅうと抱き寄せた。
そんな名前の脇で、腕を彷徨わせていたシュウスケは、シュウスケの顔を、もう一度覗き込んだ名前の顔を見てから、実弥へと、その丸々とした猫のような目を向けていた。

「……ぶったのかよ」

実弥は言い訳をする気にも、弁明をする気にもならなかった。

「あァ」
アンタは・・・・そんなこと、すんじゃねぇよ! 奥さんにだけは、手出しちゃいけねぇだろ!!」
「あァ」
「はぐらかすんじゃねぇ!」
「シュウスケさん!」

シュウスケを咎めようとする名前は、いつの間にか、シュウスケを抱きしめるのではなく、シュウスケの体を抑えるためのものとなっていた。
実弥は少しばかり目を細め、良い。問題ねぇ。と、名前へと告げる。


その日の夕餉は──と言うには夜も深まりすぎているが、──皆無言であった。

実弥が茶碗を受け取る際に、少しばかり名前の指先が触れていた。
ちら、と目線を名前の顔へと向ければ、唇を引き結んだまま、おずおず、と言うのがピッタリとくる程の及び腰のまま、名前も実弥へと視線を合わせてくる。
名前が何かを言う前に、表情を変える前に。実弥は視線をそらした。




布団をくっつけるのだと、実弥の顔もまともに見ないままに、名前は意地を張り、布団をぴた、とひっつけた。

実弥はそれにも、もう言及しなかった。

直向きな名前の態度を見るほどに、クソ親父・・・・と、いつかのの顔が脳裏を横切っていったのだ。

名前の背中は、実弥の母親よりも少しばかり大きなものかも知れない。
だが、重なった。
恐ろしい形相のままに、馬鹿ほど大きな図体。鞭のようにしなり、その背中やら、頭へと打ち込まれる手。
それを反吐が出るほどに嫌悪していたはずなのだ。

──同じ事、やってらァ。

実弥は未だ小さく震える己の手を、名前の顔へと当てた。

「…………悪かったァ」
「い、いえ! ……私こそ、後先考えず…………実弥、さん?」
「んなわけねぇ。考えてたんだろォ」
「……さ、実弥さん、」
「アイツらのこと、考えてくれてたんだろォ」
「……ごめん、なさい……わ、わたし……」
「悪かった」
名前は顔へと当てられた実弥の手に、それよりも小さな手を重ねていた。
これではどちらが震えているのかもわからない。

実弥は静かに、できる限り細く息を吐き出した。

「……実弥さんは、悪く無いんですよぅ……! わ、私ちゃんと、わかってます……び、びっくりしただけだから、すぐに、震えも、とまります、よぅ……!」
「……ッ、すまねぇ」

もう、二度としねぇ。実弥は静かに言った。

「……は、はい」
「もう二度としねぇから」
「……はい」
「お前は、……絶対死んでくれるな」
「は、い」
「二度と、あんなマネすんな」
「はい」
「俺を……アイツらを、……遺して逝こうとすんじゃねぇ」
「はい」
「悪かった」
「いいえ」

私こそ、ごめんなさい。名前はそう言った。
──違う。そうじゃねぇ。
謝って欲しい訳ではない。罪悪感を感じてほしい訳でも、辛く思ってほしいわけでもない。
そんなものを感じるのは自分だけで良い。
悪いことをしたのは自分だ。と、そんな事は、実弥も痛感していたし、名前へは一塵も求めちゃいない。
ただ、ただひたすらに生きていてほしい。
それだけなのだ。
いつだって。
誰にだって。
実弥はまた、静かに息を吐き出した。

「実弥さん」

返事をできない実弥へ向け、名前がまた、実弥さん、と。実弥を呼んでいた。
震えているのではないか。そう思っていた名前の指先。そして、その先にある実弥の手は、間違いなく、どちらともが震えていた。

***

何に対して・・・・・だ。

そう、尋ねていた実弥の言葉に、シュウスケは唇を突き出し、呟くように「勝手ばっかりして」と答えた。

「今は別にそれで良ィ。もうちょい落ち着いたら、妹のこと、ちゃんと考えてやれなァ」

実弥の顔を見据えたままシュウスケは頷き、暫く考える素振りを見せてから、また口を開く。

「今日、ついて行って良いか……すか」
「……おゥ」

シュウスケの頭を撫でやった実弥の鼻腔へと、朝餉の香りが届き始めている。
魚の焼ける、香ばしい香りであった。

次へ
戻る
目次

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -