古びた紙の匂い。
ツンとした消毒液の匂いが、私の鼻の奥を刺激していた。
ブルブルと震え始めた手を、私は反対の手で抑え込もうとしたけれど、そちらも震えているからであろう。ちっとも収まりそうにはない。
先生は、そんな私の手を柔く包み込み、そろそろと撫で付けられた。
「大事にしてもらえてるんだね」などと、仰られていたかもしれない。
先生があまりにも柔らかなお顔をなさり、「安心して良い」と仰って下さったものだから、とうとう私の口からうめき声のような音が漏れた。そのせいで、私にはその他の殆どの音が届かなかった。おかげで、先生のその後話してくださる声も聞こえないのだから、大変なことだ。
いけない。
きちんと聞かなくちゃ。先生の言う事を、ちゃんと聞かなくちゃ。
そう何度も何度も自分に言い聞かせども、震える手が、体中が。ちっとも言うことをきかなかった。
先生の助手をされていた年若い女性が私の手をひき、背を摩りながら立ち上がらせて下さった。
木製の椅子が、小さな音を立てている。カァテンの軽やかな音が、申し訳程度に響いていた。
女性に案内され、通して頂けたのは、先程とは違う控室のような洋室であった。
木目の床に、ベッドがいくつか。
今は使われていないのか、シーツもかかっていない。
女性は、少しばかり薄暗い部屋に取り付けられている雨戸を開けて下さった。
眩い光が、わッと室内を明るく照らす。
そして紡がれる女性の柔い声を響かせていく。
「さ、どうぞここで休んで行ってくださいね」
「ご、ごめんなさ、」
「いいんですよ」
気になさらないで。ゆっくりしてちょうだい。
そう言い残して女性は部屋を後にした。
どうすればいいのか、私はもうわからなくなっていた。
──「月のものは、最後にいつありましたか」
「ず、ずっと、来ていません」
──「いつからかな」
「……その、昨年の、いつからか……」
──「ふむ、……あぁ、これが、三月。……なるほど。止まっていたのかな。
うん、今はちゃんと食べられているんですね」
「え、えと、……はい」
──「吐き気やら眠気はどうですか」
「ね、眠い事が、少し多いくらいで……け、けどそれは、夫の帰りを待っているのと、朝が早いからで……」
「うんうん、では、──」
─────
「恐らく、妊娠してますね。
ここの筋をまっすぐ行って、右に三軒目。長濱のお婆さんが、取り上げを手伝ってくれるだろうから、落ち着いたらで良いからね。今度、先に一言挨拶をしておくと良い」
そう仰り、私を見て笑った先生の声が、未だ頭の中を埋め尽くしている。
実弥さんに、言わなくちゃ。
実弥さんへ伝えて、奥様にお話してそれから、ヤス子さんに、それと、セツさんにも言わなきゃ。あぁ、違う。須磨ちゃんに……いいえ、もしももしも、違ったらいけない──そこまで考えてから、私はわからなくなっていた。
実弥さんのお子を、授かることができた。かも、知れない。
どうしょうもなく嬉しいというのに、私の胸は不安でいっぱいだった。
今にも、わぁわぁと叫びあげて泣いてしまいたい、助けてと、喚いてしまいたかった。
近い将来、実弥さんは私を遺して逝ってしまう。
そんな事は、わかっていた。だから私は漠然と考えていた。
その後は、きっと、実弥さんがいつか迎えに来てくださるのを待ちながら、畑のお手伝いやら、奥様のお手伝いをして、そのうち、タケちゃんのお嫁さんを迎えるお手伝いだとか、コウちゃんとお嫁さんを迎えるお手伝いとか。
セツさんの子守を手伝ってみたり。
なんとなく、そんな毎日をぼんやりと過ごしていくのかもしれない。
クニ子さんに、手習いを教わって、お手伝いするのも良いのかもしれない。
そうしたら、そのうちおばあさんになって、ひっそりと、思い出のたくさん詰まっているのであろう、あの屋敷で眠りたい。
漠然と。
漠然とそう考えていたのだから、自分以外の存在と隣あって歩いていく姿なんて、思い描いてなど来なかった。
そんな事が起こりうる、だなんて、理解していなかった。
私ひとりで、育てていけるのだろうか。
なにより、実弥さんは「できた」と聞いてどう思うのだろう。
私は実弥さんへ、子供が欲しくないのか、と尋ねたことは然程ない。
実弥さんが結婚してほしいと、言ってくださったあのとき。
それから、結婚するほんの少し前。
本当に私でいいのですか、と。そう尋ねた日。
しつこいと思われるのも嫌だったし、何よりも「要る、欲しい」そう言われたら、どうすれば良いのかわからなかった。
「要らない」そう言われたら、だから私だったのかな。なんて、どうにも、しようのないことを考えかねなかった。
だから聞きたくも無かった。
あんまりにも失礼な考えだと思う。
そもそも、そんな疑問を抱くこと自体が間違っている。
実弥さんが下さったものを、無下にするようなものだ。
わかっていた。そんなことは。
実弥さんが一等優しい人であることも、私を大切にしてくださっていることも知っている。わかっている。
実弥さんが「名前サンが良い」と言ってくださった。その実弥さんの真摯な気持ちと言葉を、私は大切にしたい。
けれど、今度ばかりはわからなかった。
どうすれば良いのか、何を言えば良いのかも。
「調子はどうですか」
にこ、と笑みの形を作る先程の女性が、私に声をかけてくださった。
そこで初めて、先生方のお邪魔になっているのではなかろうか、と思い至り、私は慌てて頭を下げた。
「す、すみません! すぐに出ますっ!」
「あぁ、良いのよ、……顔が真っ青じゃない。どうしたの」
「ほ、本当に、大丈夫です」
私は手の震えるままにお金を渡し、そのままの足で診察所を出る。
早く帰らなくちゃ。
じきに実弥さんが帰ってきてしまう。
それまでに、何もなかったように振る舞えるようにしなくちゃ。
今は隠さなくちゃ。
そうしたら、いつ言えば良いのだろう。言ってもいいのだろうか。むしろこのまま黙って、どこかに行ってしまおうか。
何故? そうしたら実弥さんのお食事はどうするの。ご自分で出来る筈だ。私がここへ帰ってすぐ、実弥さんが作ってくださった卵粥を食べたもの。
だからって居なくなるの? 言わないの? あんまりにも失礼じゃない?
実弥さんはきっと、喜んでくださる。きっと、笑ってくださる。
本当に? 実弥さんに、背負わせるものを増やしてしまっただけなんじゃない?
実弥さんは本当に、望んでくださる? 喜んでくださる?
育てていける? 一人になってしまうのに? また、奥様に頼り切りにならない?
はち切れそうな頭を抱えたまんまに歩き始めれば、集落まではアッと言う間に着いてしまう。
もう、目の前の坂を登れば、着いてしまう。
──あぁ、どうしよう。
まるで津波か何かのように、ささくれ立つ心が押し寄せるばかりで、引いてはくれない。
──あぁ、苦しい。
口元を引き結び、なんとか涙を堪えていた。
ざりッと、砂を踏む音がした。
たったそれだけのことで、無理矢理にでも動かしていた私の足は、釘をうたれたかのように動かなくなった。
誰かにここの村にいた事が知れれば、確実に実弥さんへと伝わる、と思う。
ここは、それほどの田舎である。
──なんと誤魔化そう。村へ来る用事は、何か無かったろうか。
あぁ、先生に、本当に私が石女であるのかを確かめていただいたとでも言おうか。それとも、腹が痛かったとでも言えばいいだろうか。
頭の中で、たくさんの言い訳を考えながら顔をあげようとしたけれど、それは相手の動きによって阻まれた。
実弥さんであったからだ。
実弥さんの手が、私の両方の頬を引っ掴んでいたのだ。
「ッわ! さ、実弥さんっ!」
「どうしたァ」「何があった」「どっか悪ィのか」そう言いながら、実弥さんは私の顔を右へ左へと傾けては、あちらこちらを見て、確認していく。
怪我なんてしてません、何もありません。どこも悪くありません。
早く伝えなくてはいけないというのに、実弥さんが、いま目の前にいる。ただそれだけのことなのに、鼻の奥がツンと痛くなった。
なんだかひどくホッとして、気が抜けてしまった。
何も状況は変わっていない。
それどころか、実弥さんには隠しておこうか、なんて考えていたくせに。それを鑑みれば、悪化しているというのに。
だというのに、実弥さんの姿を見た途端。「あぁ、もう大丈夫だ」だなんて、力が抜けていってしまった。
「わた、私……まだ、戸惑っていて、喜んで良いのか、困った方が良いのか、その、わかっていなくて……ッ」
─────────
──────
──
実弥さんは何も言わなかった。
何も言わず、病院へと担ぎ込もうとしていたのか、咄嗟に抱え上げていた私を下ろしてくださった。
そうして何度か瞬いた後、「帰ろうぜぇ」とだけ。
道中で会ったタケちゃんには、「何でもなかった」とだけ告げておられた。
どうやら、既に集落の中で私が診療所へ行っていたことは周知であったようだ。
私は小さく息を吐き捨てた。
行きしなは一つであった足音が、今度は二つ。ざりざり、ざりり、と響いていく。
道中、「名前ちゃんどうだったぁ?」「あ、居るじゃねぇか」「名前ちゃん、大事になぁ!」と、口々に声をかけてくれた荒木のおじさんたちへと、私は頭を少しだけ下げたけれど、実弥さんはただ、真っ直ぐに前を歩いていた。
実弥さんは振り返ってすらくださらず、何も言わず。真っ直ぐに屋敷の中へと入っていった。
「さ、実弥さん……」
私の呼びかけも聞こえなかったのか、実弥さんはバタバタと奥間へと引っ込み、何やら大きな風呂敷を抱え戻って来られたかと思えば、きゅ、と口を引き締めてから仰った。
「ちぃと、出てくる」
「っえ?!」
実弥さんは、たったその一言を残して屋敷の外へと出られたのだ。
お屋敷の門の外で、ほんの少し立ち止まった後、実弥さんはようやっと私を振り返り、何度か口を開いては閉じる。
そんな動作を繰り返し、後ろ頭をがりがりと引っ掻いておられた。
なにやら言いた気にしておられるのだが、言わない。
もしかすると、言葉を選んでおられるのかもしれない。私が泣き虫だから、また泣き出さないように、と気を使って下さっているのやも。
良いように考えようとしたけれど、どうにも上手くいかなかった。
そんなつもりは無かった。と、思っておられるのかも知れない。
出来ないんじゃ無かったのか。だとか。そう思われても仕方がない。
実弥さんはお優しいのだから、それすら言えないどころか、そんな風に考えてしまったことで、ご自身を攻めておられる事なんかも、あるかも知れない。
そう思ってしまう。
段々と、胸がぎしぎしと悲鳴を上げていった。
矢張り実弥さんの心のご負担を、ただただ増やしてしまったのだ。きっと。
「すぐに戻る」
「は、はい」
「飯は先に食っててくれ」
「はい……」
「しっかり体を休めろなァ」
「は、い……」
「何かあったら、すぐに爽籟に伝えろォ」
「……はい、」
「爽籟! 爽籟!!」
実弥さんはカラスを呼び付け、何言かを言いながら、文字通り、目にも留まらぬ速さで駆けていった。行ってしまった。
「……え、?」
私は何が何やらわからなかった。
ぽかンと開いた口もそのままに、今朝片付けたきりの屋敷の中をぐる、と見渡すが、いつものお勝手と框。その向こうへと広がる座敷間。囲炉裏に土間。いつもの風景だけがそこにはあった。
「…………お、お夕飯…………しなきゃ」
その夜、実弥さんは帰って来なかった。
***
結局、一睡もできずにぼやぼやとした頭のまま、私は表を掃いていた。
朝ぼらけの、まだ薄明かりの空のもと、私は一心不乱に竹箒を右へ左へと押しやっていく。
「名前」
少しばかり離れたところから聞こえた声に、私が振り返るよりもずっと早く。
竹箒を取り落としてしまった私の目の前は、真っ黒になっていた。
そのうちすごくすごく近くで声がしたものだから、そこで初めて、実弥さんが私を抱き寄せてくださっていることを理解した。
ぎゅう、と抱きしめてくださる実弥さんの腕の中、漸く落ち着き始めていた心が、またにわかにざわめき立っていく。
決して口を開けてはいけない。
今にも泣いてしまう。
泣いてはいけない。
一人でやっていける。きちんとやっていける。
「名前なら大丈夫だ」実弥さんがそう思えるほどに、確りとしなくては。
実弥さんが、安心できるように、立派な母にならなくては。
実弥さんが、私なら一人でもやっていける。一人でも母をできる。そう思えるくらいに確りとしなくちゃ。
私は唇をぎゅうぎゅうと噛みしめる。
両方の頬が少しばかり膨れていた。
「悪ィ、待たせたァ」
「…………っ、……ぅ」
「悪ィ、まだ、何も言えてねぇ」
実弥さんの声に包まれながら、私はただただ首を横へと降った。
「気になさらないでください。動揺されて当然です」本当はそう伝えたかった。
けれど、きっと口を開けば今にも嗚咽が漏れだし、泣いてしまう。だから何も言えなかった。
一歩下がった実弥さんは、私の両頬を手で包む。
「目、開けろォ」
優しい声に、全身からぶわッと汗が出た。
駄目だ。
泣く。
下唇を噛みながら、私はまた首を左右へとやった。
「なァ、こっち、見ろよ」
「……い、ぃやです」
「悪かった」
「ないですッ」
「すまねぇ、順番、違ったァ」
情けなく震える声を、もう聞きたくも聞かせたくも無かった。
目を開けたら、きっと、泣いてしまう。
実弥さんの手が、私の頬から、確かめていくように首筋を通り、肩を掴んでいく。
そうして下りきった手は、私の指先と絡んでいった。
「なァ」
柔くまろい声が響く。
私は実弥さんのこの声に、一等弱い。
──あぁ。
目を開けたら、もう駄目だった。
ぐちゃぐちゃだ。
夢か現かもわからなかった。分け隔てられているはずのものが、渾然と混ざりあっているかのような景色であったのだ。
ぶるぶると、情けなくも自分の体が震えているのだ、と私は思っていた。
本当は取り繕おうとも、どこかで「実弥さんはお子は要らなかったのだ」と納得してしまっていた。
けれど、全てが違った。
震えていたのは、実弥さんであった。
実弥さんは、震える手をそのままに私の手を握っておられるのだ。
「なァ」と、私を呼ぶ実弥さんは、「名前」と、私の名前を囁き、その長いまつ毛の隙間からほろほろと涙を溢しながら言う。
「すげぇ嬉しい」
「…………まだ、お、恐らく、と……先生は」
「おゥ」
実弥さんは頷いた。
頷き、空を仰ぎ見て、顔を隠された。
「でも、すげぇ嬉しィ」
「私も…………私も、本当にそうだったら、良いなと、思います」
どこからか、金木犀の香りも深まり始める、秋。
私は産まれて初めて、男性が歓喜に打ち震え、涙する姿を見た。
実弥さんが、とても深く喜んでくださっていることを、知った。
「私も、……嬉しい、です」
私は、はじめて自分が少しばかり、誇らしくなった。
本当に、腹に、小さな命が宿っていれば良いのに、と、深く深く願っていた。
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