実弥は走っていた。
バクバクと唸る心の臓に目もくれず、ただただひた走っていた。
阿呆のようになった心の臓に迸る痛みや、息苦しさが、先程までの名前の長ったらしい言葉からやってきたものか、果ては今、こうして全力で走っているからか。実弥自身も、もうわからなくなっている。
「……ハ、……ッ」
時間も何もありはしなかった。
あちらこちらに寄ってきてしまったから、とうに夜半を過ぎてしまっている。
それはあたりの静けさと、あまりにも暗い空からわかっていた。
あんまりにも黒いくせに、星ばかりが喧しい。
実弥は目の前の門をどんどん、と殴りつけ、声を上げようとしてから、慌て手で顔を覆った。
ばちンと派手な音が鳴ったが、それでもまだ、ぶるぶると震え始める唇を噛み締め、何度も何度も息を吐く。
ぎしぎしと、頭の中が悲鳴を上げるほどの強さで、こめかみの当たりを押さえつけた。
──落ち着け。まだ産まれたわけじゃねぇ。
落ち着け。やることを先にやれ。
落ち着け。取り乱すなら、その後だ。
落ち着け、落ち着け。落ち着け。──
心の臓が脈打つのと同じ速さで出ていこうとする息を、無理矢理にでもねじ伏せ、実弥は出来る限り静かに息を吐いた。
──あァ、無理だァ。笑っちまう──
実弥の口角は、ずっと上へ上へと歩を進めようとしているらしい。
堪えるためにも、また、こめかみの当たりを掴んでいる手に、力を込めた。
がらがらと、奥で音が立っていた。
程なく出てきたのは、宇髄が実弥へ、いつか自慢気に「嫁だ」と言っていた女だ。
女は怪訝な顔をすぐさま作り変えた。
「はい……! 風柱様!」
「……夜分遅くに、申し訳ねぇ……宇髄、……亭主は在宅かィ」
「すぐに呼んできますね」
「いや、構わねぇ。ゆっくりでいい」
実弥はその軽く頭を下げる女の腹を見てから、目を細くした。
女の腹が大きかったからだ。
──「雛鶴がおめでたでよぉ」
だのと、言っていた気がする。
だが、三人の女のうち、誰が雛鶴だったか、は、覚えていない。覚えていないが、そんな事は些事であった。
──あァ、やべェ
と、実弥はまた、唇を噛む。
それからすぐに空気が揺れる気配がした。
宇髄だ。
「よぉ、お前、珍しいな。こんな時分に。何かあったか」
寝起きには見えない、すっきりとした顔の宇髄がそこには居た。
実弥は口を開こうとして、また噤んだ。
唇が震え、今のままだと音まで震えてしまいそうであったからだ。
何かを察したらしい宇髄は、「まぁ、入れよ」と顎をしゃくった。
──────────
──────
──
「遅くに、悪ィ。皆で食ってくれ」
「あぁ、悪ぃな。んな気ぃ使ってんじゃねぇよ」
「……まだ、産まれねぇのかィ」
通された八畳程の奥座敷は、がらンとしており、殆ど物がない。
宇髄へと手土産を突き出しながら、実弥は出来る限りゆっくりと息を吐きながら口を開いていく。
「いんや。雛鶴は先月産んだんだが、まぁ、難産でなぁ。
赤ん坊も暫くはわからねぇとまで言われてたモンで、そうなっちゃあ、報された側も寝覚めも悪ぃだろ。
しっかりし始めるまで、待とうぜってことになってたんだ。
まぁ、そろそろ皆に報せくらいは送るかって話てたとこだ」
酒を煽る宇髄の言葉に、するッと「良かった」と実弥の口から言葉が出ていった。
「おぅ」
「……今は。大事ねぇのかィ」
「ん。スヤスヤ寝てら」
「尚更、悪ィ事したなァ」
「いんや、気にすんな」
「だったら何かィ。二人目かァ?」
「あぁ、まきをの腹に、二人目だ」
「目出てぇなァ」
実弥は渡されていたぐい呑みを宇髄へと差し出す。
宇髄は笑みを濃くしてから、そこへ自身のぐい呑みを軽くぶつけた。
かちンと軽やかな音を立てたぐい呑みを、宇髄はくいッと軽く煽る。
「おぅ」
「今度は、祝いを持ってくらァ。二人分」
「待ってるわ」
実弥は軽く頷き、宇髄に倣って酒を一口煽った。
夜が深過ぎるせいか、然程煩くもない虫の声が、存外響いている。
「んでぇ? お前はどうした。ただ俺の顔を見に会いに来たわけじゃねぇんだろ?」
「ま、大体想像はつくけどなぁ」と笑った宇髄は「そういう家業だったからな。酔えねぇんだよ」だのと言っていた癖に、今夜ばかりは途切れることなく酒を飲んでいた。
酔えもしないから、量は要らねぇだのと、いつか鬼殺隊時代に宇髄が言っていた事を実弥は覚えていたし、だからこそ、罰が悪かった。
何故今日ばかりはこんなに飲むのか。
実弥は宇髄の言葉通り、何かしら察しているんだろう。と言うことを理解したからだ。
「大変な時に申し訳ねェ」
そう前置きをしたは良いが、実弥は少しばかり迷った。
自分の事でいっぱいになってしまったから先走りはしたが、なにもこんなに急いで今日、とはならなくても良かったのではないだろうか。
とも考えはしたが、そんな事は後の祭りだ。
宇髄が何を言うよりも早く、実弥は「借りだ」と告げた。
宇髄はきょとん、とした顔を作った後にまた、酒を煽った。
「良いな。貸してやるよ」
「今後の、話だァ」
「だろうな」
「コイツを、預かっちゃくれねぇか。…………お前に、頼みてぇ」実弥はもう一つ、抱えていた風呂敷を宇髄の方へと押しやった。
屋敷を出るときから、抱えていた風呂敷包みである。
「おう」宇髄は相槌を打つ。
「……毎月、決まった額、こっから渡してやって欲しい」
「おう」
「アイツが……何か、困ってたら、……悪ィが、相談に乗ってやってくれぇ」
「おう」
宇髄は静かに、けれど確かに頷いた。
いつの間にか、ぐい呑みは宇髄の手から離れている。
実弥も、静かに酒器を置いた。
「男手がそのうち、無くなっちまうから……いざと言うときは、助けてやって欲しい。すまねぇ」
「おう」
「一人で悩んじまうだろうから、たまに、……様子、見てやって欲しい。」
「おう」
「……悪ィ」
「不死川」
宇髄は静かに実弥を呼んだ。
実弥は聞こえなかった事にして、ただ、頭を下げた。
「不死川」
まるで、何かを言い聞かせるような宇髄の柔い声の呼びかけに、実弥はまた唇を噛み締めた。
噛み締めてから、深く息を吐いた。
いつの間にか滲んだ視界を閉じ、また、実弥は静かに息を吐く。
「お前、ちゃんと喜んだかぁ?」
「……」
「その格好。お前ちゃんと嫁と話してもねぇんじゃねぇの?」
「……」
「そういうのは、一番先に、ど派手に喜んじまえよ」
他のこたぁ全部その後だ。
宇髄はそう言いながら、実弥の下がったままの頭を掻き混ぜ、「おらッ」と背中を叩きあげる。
バシンッとど派手な音を鳴らした宇髄に今度ばかりは「兄貴面すんなァ」とは言えず、実弥はまた静かに唇を噛み、言葉を吐き出した。
宇髄の言葉通りだ。
まだ、名前に何も言っていない。
まだ、何も伝えられていない。
──はやく、帰ってやりてぇ。
実弥はまた、歯を食いしばった。
「できたァ」
あまりにも震え、不細工な音であったが、口にした途端。
足の先から毛の一本まで。
全身が総毛立ったと言わざるを得ないほどの、暴力的なまでの感覚が押し寄せた。
実弥は堪らず、顔を隠した。顔を指の少ない手で覆うことしか出来なかった上に、その感覚は一つとして逃げてはいかない。
「は、……ックソ、」
「おう! 目出てぇなぁ!」
「……っぐ、……」
「大事にしろよぉ!」
「とっくに、……してらァッ!」
静かに立ち上がる実弥に、宇髄は笑う。
「帰る」
鼻のあたりを拭った実弥へと軽く手を振り、宇髄はまた「おう」と頷いた。
「宇髄」
「あン?」
「……ありがとなァ」
実弥の言葉に宇髄は立ち上がったかと思えば、また頭をがさがさと掻き混ぜ、「おぅ」とだけ言う。
早く帰ってやりたい、と思えども、漸く受け入れることの出来た感覚が、そうはさせてくれなかった。
実弥の手足がぶるぶると、震えるほどに、全身で歓喜していた。体の細胞の一つも余すことなく、喜びに打ち震えていた。
「……っ、ハ……やべェ」
「ぶはッ」
けたけたと笑い始めた宇髄に、背中をまた、バシンッとやられながら、実弥は堅く、歯を食いしばる。
「……借りは、絶対ぇ返す」
「おう」
実弥は一歩、足を踏み出した。
まずは、名前になんと伝えよう。
何を伝えよう。
──それよりもまず、一遍抱きしめてぇ。
家路に着く実弥の鼓動は、また静かに早くなっていた。
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