小説 | ナノ

どこか朧気な意識のままに、実弥は匂いを辿った。
既に殆どが開け放たれた外廊下の障子戸やら襖。
そこかしこから入る明かりのせいで、酷く眩しい。

実弥は目をすぼめ、明る過ぎる居間から、明る過ぎるせいで眩む目をそのままに、ぼんやりと厨の方へと視線を向けた。

引っ詰めた髪が、動作に合わせて動いていた。
実弥よりも、ちんまりとした体が、忙しく鍋をかき混ぜている。

匂いのもとはこれであった。

実弥は静かに歩を進め、素足のままに、框からも足をおろした。
ひんやりとした土間の冷たさが、足の裏を一気に伝い、目が冴えていく。

名前であった。

実弥は一瞬、夢かとあたりを見渡していた。
名前のちいさな背中が、母親に見えていたからだ。
まさかな、馬鹿馬鹿しい。くだらねぇ。女々しい野郎だ。
少しばかり鼻を鳴らし、一歩、また一歩と、実弥は足を前へと進めていった。

「あ! おはようございます!
茹でこぼしまでしかまだ終わってないんですよぅ」

実弥へと振り返り、きゅッと口角を上げた名前は、また鍋へと向かいあい始める。
その後ろ姿が、どうやっても母親守りたかったものと重なった。

「悪ィなァ、一人でやらせちまって。手間だったろォ」
「いいえ!」

実弥の言葉に、慌てたように首を横へと振った名前は、下唇へと歯を立てながら、ほんの少し垂れた横髪を耳へと引っ掛けた。

「昨夜も、結局私、……さ、実弥さんのこと、……待っていられませんでしたねぇ」
「寝てて良いって、言ってたろォ」
「そうはいきませんよぅ、って言いたいんですけれど、結局毎晩寝て、わッ!」

いつの間にか実弥が名前の直ぐ隣へと立ち、名前のつむじを眺めていた事を、漸く知ったらしい名前の手から、木べらが滑り落ちる。

「危ね」と、すかさず木べらを掴んだ実弥へと、名前の視線が絡みついた。
ぽかン、とした間の抜けた名前の表情がそこには在り、「帰って来た」のか。だのと、実弥は漸く実感していた。

別段、どこかへと遠出をしていた訳でもない。
死地へと赴いていたのはずっと前だ。
だが、何故か今。「俺は、帰って来た」と、すとン、と、胸へと落ちてきたのだ。

「ほ、本当ですよぅ!」

実弥から木べらを受け取りながら、名前は何度も何度も横髪を耳へと引っ掛ける。

そのうち消え入りそうな声で、「近いですよぅ」などと言う。
きっと、名前の肩がぴったりとくっつくほどの今の距離でなければ聞こえていなかった。
それほどの声量であった。

「んは、悪ィ」実弥は少しばかり、そう笑ってから実弥は続きを促した。

「んでぇ?」
「そ、それで、起こすのも、……悪いと思ったので、お握りをそこに……」
「あァ、もらわァ」
「そ、そっちが、梅です」
「コッチはァ?」
「か、カツオのお出汁を取ったあとの……その、カツオ、です」
「あれか。美味ぇよなァ」

左の腕を名前へとくっつけたままに、腕を伸ばした右手の三本の指のみで皿へとかぶせてある濡れ手ぬぐいを簡単に避け、そのうちの一つへと、実弥はかぶりつく。

塩味と酸味の凝縮されたものが、口いっぱいに広がり、実弥は何度も唾と一緒に飯を飲み込んだ。
そうして、物言いた気に実弥を見上げる名前へと、一言だけ、「美味ぇ」と告げた。

「そっちで腰かけて召し上がったら良いのに」
「見ときてぇんだよ」
「……なにも、変わったことはしませんよぅ?」

残った握り飯を口へと頬張り、指へと残った米粒を、実弥はぺろッとやってから、「わかってらァ」と呟いた。


恐らくこの屋敷に置いてある、一番深手の大振りな鍋へと煮立った小豆。名前はそこへ、ざらざらと音をさせながら砂糖を入れていく。
実弥はその姿を矢張り、じ、と見ていた。

「全部すんのかァ?」
「そのつもりです」
「わかったァ」

実弥は鍋の奥。
木蓋の乗ったままの羽釜を開いた。もわッとした湯気が上がり、あたりへと一気に充満していく。
中に被せられていた濡れ布巾を持ち上げ、炊きあがった餅米を大ぶりの鉢へと移し入れた。

「あ! 休んでて下さいよぅ!」
「してぇんだよ」
「そうですか?」
「コレ使やァ良いのか?」
「そこに出してあるすりこぎで……それです!」
「ん」

ぺた、ごちン、ごりッ
すりこぎと鉢のぶつかる音やら、餅米が潰れる音が響いていく。
実弥が名前の姿を流し見れば、名前も実弥を見ていたらしい。
しっかりと視線がぶつかり、そのうち名前から視線を逸していく。

かと思えば、顔を真っ赤にし、どこか憂いを帯びた表情を作った名前は、「甘さは控えめにします?」だのと、実弥の顔をまた、正面から見ていた。

「……ア? 甘ェ方が美味ぇだろォ」

そう返す間も、実弥は名前から視線を逸らさなかった。
何度も口を開いては閉じる名前は、結局何かを言うことを諦めたらしい。
実弥から、静かに視線を逸らし、砂糖を少し注ぎ足しては、木べらで小豆を混ぜていた。

「お砂糖無くなっちゃいますねぇ」
「…………明日以降のは、……また買ってくる」

実弥はどこか気落ちした様子の名前へ、何かあったのか、とでも尋ねてやりたくもなったが、あえてそれをしなかった。

毎日のように自身の腹を見下ろす名前の姿を見ていたからだ。
また、しょうのねぇことで悩んでやがる。
下手に声をかければ、また以前の二の舞いだ。と踏んだためであった。

それなら、名前が自分からなにか言い出すまでは何も言うまい。
実弥はいっそ、そう割り切り始めていたのだ。

「これくらいです?」

名前の手から小皿を受け取り、餡の味を見る。
名前の作る餡は、大きめの粒が残り、ふかふかとしている。独特の食感があった。
母親の作るものとも、そこいらで売っているものとも違う。これが名前の作るもんなのか。そう思うと、自然と口角が持ち上がっていった。

「どうですか?」
「もっかいィ」
「えッ、わかりませんでした?」
「いや」
「ど、どうでしたか?」
「美味ぇ」
「そ、れなら、……良かったです……無くなっちゃうから、もうあげませんよぅ」
「もっと甘くても良いぜぇ?」
「それは駄目ですよぅ」
「ハッ、そうかィ」
「そうですッ」
「こんなモンかァ?」
「ありがとうございます!」

気が付けば、名前の口角も上がっている。
こうして、このまま穏やかな日々が続けば良い。
実弥はそう思った。

「美味しく出来ると良いですねぇ」
「美味くねぇわけがねぇだろォ」
「そうですか?」
「あんこが美味ェからなァ」

実弥の一言で一喜一憂し、時にはぷりぷりと怒りはじめ、名前を呼べば、間の抜けた顔で振り返る。
そんな名前を見ていられるのが喜ばしいものであった。
なにも、こんな特別な日々ばかりでなくとも良い。

例えば、少し前のように、あんまりにも俺の帰りが遅い、と心配だったらしく、「遅くなるなら言ってほしい」と名前は怒っていた。
例えば、ついこの間。普段なら屋敷に居る時分に帰っていなかった名前を探し歩き、見つけた時には「出てるなら書き置きでもしろ」と、叱り飛ばした事もあった。

そんなしようもない事で、それなりに静かな夜もあった。
それでも、そんな毎日が良かった。
何気ない日が、そこはかとなく愛おしかった。
それをくれる名前が、心底大事だと、実弥は思う。

「後で屋台回るかィ」
「一緒に、ですか」
「じゃなきゃ誘ってねぇよ」
「はい!」

外から聞こえてきた親父らの実弥を呼ぶ声に返事をしながら、実弥は名前の頭を撫で付けた。


***


祭りも佳境に差し掛かると、漢共の声が集落から村へとやってくる。
御輿を担ぎ、褌一枚に法被の姿で集落から下の村まで唄を口ずさみやってくる。
それを村の神社が迎え入れ、神輿が社の前へと降ろされる。

それを合図とするように、分社に当たるこの神社で、早くもお囃子の笛や太鼓が響き始めていた。
神輿がやってきたと同時に鳴り始めたお囃子の音に合わせ、実弥は神楽殿へと登った。


一歩、大きく足を落とせば、床が鳴く。
左手で掴んだ神楽鈴を、一度。鋭く振れば、凛と囀る。
頼りのない右手には、共に戦禍を越えた日輪刀を構え、実弥はそれを正面へと据えた。

側で炊き上げられている松明が、ばちばちと火の粉を上げる。

金糸や銀糸を中心とした色とりどりの刺繍が散りばめられた、ずっしりと重い狩衣は、袖を振れば、そこへ縫い留められ、火に炙られる鬼の顔やら髑髏やらが宙を舞う。

顔にかかる『風』と一文字だけが入る布。
その下には、まるで般若のような顔をした鬼の面。
上括りにした指貫袴。
全部が豪華な造りで、重い。足元ですら、鈴がついてうっとおしい。

とんッと刀の刃先を神楽殿の床へとつければ、一気にお囃子の温度が上がっていく。

始まる。
実弥は静かに顔を持ち上げた。

──────────
─────
──

それらが、ついこの間の事だった。


あの夜、今にもまろび出そうな目を、これでもかと更に見開き、それこそ目を皿にした名前は実弥を見ていた。

なにか、一等凄いものでも見たかのような。
いつか資生堂の店で、初めてクリイムソォダを見たときのような、きらきらとしたものを見る名前の目が、実弥を捕らえて放さなかった。

そして、そんな名前の姿を実弥も見ていた。

アイツ、目、落ちんぞォ。だのと、そんなことを考えながら舞っていたかもしれない。

凛と鈴を鳴らせば動きに合わせ、袖が踊る。
そのたびに、名前の視線が全身に刺さるのを、実弥は感じていた。
五穀豊穣やら、鬼落としやらと、舞いに理由はつけられたが、実弥はそんなことはどうだって良い。
それらすべてが神に祈ることではない、と思っているからだ。
例えば、祈ったところで親父は真っ当にはならなかった。
例えば、願ったところでおふくろは死んでしまった。
例えば、お供えをしても、弟妹は居なくなってしまった。
例えば、手を合わせようと、友は皆先立った。
例えば、乞うても、玄弥すら連れて行ってしまった。

例えば、たった一人、幸せにやっていけるように、と願った女は、影で一人で泣いていた。

だから実弥は神を信じない。

だから、実弥は舞っていた。
神に祈るわけではない。捧げたい訳でもない。
ただ神へ、己へと誓うために舞っていた。

死ぬまで、全部でもって、名前を大切にする。と。
この身が朽ちようとも、心は全部、置いていく、と。
せめて名前が一人でなくなるまでは、夢枕にでも居座ってやる、と。

ただその一心で、実弥は舞った。





「いやぁー、この間は凄かったなぁ!」

はじめにそう、声を出したのは荒木の親父であった。

「あんな綺麗な舞は初めてだ!」良いモン見せてもらった! とコウサクの親父も言葉を続けた。

「……だァから、まだ練習が足りてねぇ」
「ッかァ! 真面目なこってぇ!」
「んにしたって、力強かったぜぇ? 迫力が、すげぇのなんのって」

既に何度目かわからないやり取りで有るというのに、やんやと盛り上がる親父らから少し距離を取り、後ろ頭をガシガシと引っ掻くことで、実弥は少しばかりの照れを誤魔化した。
そんなつもりで演じた訳では無いが、誰かの心へと、己の姿が残っていく。
それは何だか、心地よくも恥ずかしいものであった。
恥ずかしい、と言うのすらも照れくさく、実弥は無心で畑の土を耕した。

「……終わったァ」
「っしゃ! コッチはそろそろ良いな! 次はアッチの棟起こすか」
「そろそろ次の植えてかねぇとなぁ」
「あんたんとこ、何植えんでぃ」
「いや、なんーも考えてねぇよ」

親父らが軽快なやり取りをまた始めたころであった。
パタパタとした足音が響き、そのうち声変わりの始まりかかった、掠れたタケ坊の声が届いてくる。

「シナズの兄貴ー!!」
「お、タケ坊、どしたぁ」

実弥が「なんだァ」と短く返す頃。
タケ坊は漸く直ぐ側の土手まで辿り着き、はぁはぁと息を切らせていた。
何かあったのか? と、実弥は鋤を土へと差し込み、タケ坊の方へと足を向けた。

「名前ちゃん、どっか悪ぃのか?」
「なんでだァ」
「や、おっかぁが、名前ちゃん村へ降りたって言っててよぉ、クニ子婆は健診行ったら、あの医者の先生んとこで名前ちゃん見たってよぉ」
「……あァ?」

十月になったばかりの今日は、まだじっとりとした暑さが残っている。
どこかから、ツツツピ、と、甲高いシジュウカラの声が響いていた。
タケ坊の焦ったような表情が、どこか遠いもののように感じた。

「先生んとこかぃ」
「なんだ、具合でも悪いんか」

親父らが実弥を見たが、実弥は当惑するばかりである。
昨日まで、きらきらした目を実弥へ向け、夜には「あの舞、本当に素敵でした」とはにかんでいた。
「私の夫が、素敵過ぎて勿体ない」だなんだと愛らしいことを言うものだから、唇を合わせれば止まらなくなり、口を吸って、少し、汗をかくような時を暫く過ごしている。
別段、それまでとなんら変わりない日であったし、ただそれまでと同じ、日常の一幕であったはずだ。
その間、名前はなんら辛そうな素振りは見せていない。
実弥は、「いや……知らねぇ。」と「聞いてねぇ」と呟くように言ったが、そこでフッと思い出す。

名前はここ最近腹が出たことを気にしていた。
だが、腹以外はなんら肥えている、という様子もない。
子をなせないのだ、だのと名前は言っていた。
なら、何故腹ばかりが膨らんでいくのか。
名前の様子も見たが、飯の量が増えた、とも思わなかった。
それとも、全く別のことがあるのか?
あの頃の傷がまだ痛むのか?
どっか、悪いのか?
そんな疑問がにわかに湧き、実弥は親父らへと振り返る。

「おう、早く行ってやんなぁ」
「……悪ィ」
「名前ちゃんによろしく頼むなぁ!」

何を言わずとも、親父らは頷き、タケ坊は「こっち!」と走り始めた。

また、連れてかれんのか?
その言葉だけがぐるくると頭の中を渦巻き、実弥は眉間に力を入れた。
そんな事では何も起こりはしない。
それどころか、苛立ちが増すばかりであった。

どうして名前は何も言ってくれねぇ。
痛ぇ、とか辛ぇ、とか、何かあった、とか。
そんな事を考えながら走っていれば、丁度、集落の出入り口にもなっている坂道の下。向こうからやってくる人影がぽつンと見えた。

実弥は足を早めた。
気が付けば、タケ坊をとうに追い越していたらしい。
辺りには人影もない。
「あ」と、情けなく声を上げる名前のもの以外は。

実弥は足を緩めることなく、名前の直ぐ側まで寄り、そのうち名前の顔を両手ではさみあげた。

「どうしたァ」
「わ、わ! さ、実弥さんッ!」
「どっか、悪ィのか?」
「ま、待ってくださ……!」

名前のどこか潤み、見開かれた目の中には、いっそ情けないほどに動揺した顔があった。
それが自分の姿である。実弥は、そう気が付くと同時に舌打ちを落とした。

「あ、あの、」

名前の顔を掴んでいた両手を放し切るより少しばかり早く。
その実弥の手を、名前は掴んでいた。

「わた、私……まだ、戸惑っていて…………喜んで良いのか、困った方が良いのか、その、わかっていなくて」

実弥は、名前が何が言いたいのかまでは掴み取れず、ぎゅ、と目をすぼめていく。
ハッキリ言ってくれ。そう言ってやっても良かったのだが、当の名前本人も、未だ困惑しているらしい。
何か、病気だったんじゃねぇのか。
そう思い至ってしまうと、実弥はもう、どうにも出来なかった。

名前の腰元を引っ掴み、担ぎ上げると、目の前の坂を実弥の足は下り始めた。
それも、凄い速度で。

「ま! 待ってくださッ!! さ、ねみさんッ!」
「舌ァ噛むぞォ!」

医者に話を聞かなければ。
何なら蝶屋敷の人間の伝手が有るだろうか。
デカい街の病院にでも連れて行った方が良いかも知れねぇ。
それ自体も聞かねぇと!
実弥の頭の中は、もうそれだけでいっぱいであった。
医者に話を聞かなければ。
それだけを考えていたというのに、名前の張り上げられた声が耳に入った瞬間に、実弥は足を止めていた。

「こどもッ!」

実弥の首筋へと必死に捕まり、とうとうぼろぼろと泣き始めてしまった名前は、震える声でまた、言った。
今度ははっきりと、実弥へと聞かせるために、言った。

「もしかしたらッ、で、できた……かも、知れなくて……っ!」

実弥は言葉が出なかった。
カラカラに乾いた喉の奥がヒリヒリと痛み、バクバクと逸る心の臓が煩い。
そんな中で出せた音は、「……は、ァ?」と、ただそれだけであった。

「わ、わからないん、ですけどッ! こ、こどもッ…………や、やや子、っう、……さ、実弥さ、が……よ、喜ばれなかったら、ど、しよ、って…………ひ、一人で、か、隠すのも、上手く出来る、か、わ、わかんな、くて……ッ、ぅ、うわぁぁん!」

実弥の肩口へと顔を埋め、耳元でとうとうしゃくりあげ始めた名前を、どうすることも出来ずに実弥はただただ、名前を抱え直す。
落とさないように、と。
こぼさないように、と。

実弥は、ただただ名前の温かく、柔い体を、ひっしと抱き直した。
坂を下りきり、山となっているその斜面へと背を向け、抱え込んだ名前の肩越しに見える、目の前を通り過ぎていった豆腐売りの怪訝な顔も、実弥は見えていなかった。

なんと言えばいいのか、何を思えば良いのか、実弥はそれすらもわからなくなっていた。
ただ、名前の言葉ばかりが、頭の中をぐるぐると渦を巻いていた。

次へ
戻る
目次

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -