小説 | ナノ

蚊帳の向こうから、ギィーギィーりりりり、と、軽やかな虫の声。
暗い寝室の、汗ばんだ湿気が抜けきらないままに、私はごろッ、と寝返りを打つ。

丁度、息も落ち着いてきた頃だ。
実弥さんは、とうに落ち着いていたらしい。私と同じように転がったまま、そろそろと私へと手を差し伸ばし、そのうち私の髪を梳き始めて下さる。

「しんどかねぇか」

ほとんど真っ暗な暗がりの中。
それでも、私は実弥さんは笑っておられるのでは無いだろうか、と。
なんとなく思った。

「大丈夫ですよぅ」
「慣れたかィ」
「…………まだです」
「なら、慣れるまでは、しねぇとなァ」

くくく、と実弥さんの喉の鳴る音は、梁の高い部屋ではよく響いた。

「助平ですよぅ」
「ア? 今更だなァ」

「それに」と付け加えた実弥さんは、「お前も大して変わんねぇ」だなんて酷いことを言って笑う。
すくなくとも、私は最中に「もっと」だなんて言わないし、何より、実弥さんは、兎に角助平なのだ。
私がどうにかこうにか目を開くと、必ず実弥さんの目と、視線が絡む。
そうしたら、そのうち口角を上げ、私の顔をずっとずっと、見たまんまに攻め立ててくるのだ。
私の反応を見て、わざと、私が声を上げてしまうところばかりを探し始めるのだ。
そのうち、声を上げないように、と口元を抑えれば、まるでそうすることが「当然」とでも言うかのように、そぅ、と引き剥がし、そのさま・・をまじまじと見ておられる。
ほら、やっぱり実弥さんの方が、ずっとずっと助平じゃない。
私は口元をぷぅ、と膨らませた。

そんな私の表情が見えておられるのか、そのうち「ぶ、は」だなんて音を吐き出し、実弥さんはケタケタと笑う。
酷い話だと思う。

「もう! この話は終わりですッ!」
「へぇへぇ」

そう言いながら実弥さんに背を向ければ、布がこすれる音が響き、そのうち背中のあたりが熱くなる。

なんだかんだと言いながら、私はこうやって、下らないことを言いながら、実弥さんに髪を手で梳いてもらえる時が好きであった。
とても、甘やかされているようで、一等胸がこそばゆいのだ。

「ね、実弥さん」
「んー?」

やわい声を漏らし、実弥さんは私の髪を梳いてくださる。

「むかぁし、ですよぅ」
「おゥ」
「あるところに、おじいさんとお婆さんがいらして」
「あァ、昔話なァ」

実弥さんは、私のすぐ後ろでまたくく、と喉を鳴らす。

「おじいさんは、山へ…………茸でも採ってたんですかねぇ?
ともかく、お婆さんは一人で、川で洗濯をしてたんですよぅ。そこの。あの川ですよぅ。
実弥さんにお魚採ってきた時の。あそこです」
「随分と身近な話じゃねぇかァ」
「そうなんです。だから、ちゃんと聞いてくださいねぇ」
「へぇへぇ」
「そしたら、川の上流…………うーん…………兎に角、桃が流れてきたんですって」
「桃がねぇ。あそこでは、さぞかし流れねぇんだろォなァ」
「そうなんです。だから、ひたすらにゆっくりと。それはもう、のんびりのんびり、亀よりのんびりやってきたんですよぅ」
「へぇ」
「とりあえずお婆さんは桃を回収して、割って、出てきた赤ん坊を育てることにしたんですよぅ。
そのうち、大きく育った男の子は、桃太郎って呼ばれているんですが、」
「適当だなァ」
「んへへ、……そうなんです。でね、桃太郎さん、鬼退治に行くって、言うんですよぅ」
「あァ、そんなだったなァ」

実弥さんは私の足に、ご自身の足を絡めながらまた笑った。

「お婆さん、……毎夜毎夜、祈っていたんです。
言わなかったけど、桃太郎、行かないでって。
本当は行ってほしくなんて無いけど、お婆さんはお婆さんなりに、桃太郎さんの気持ちも大切にしたかったんですよぅ」
「……だろうなァ」
「時には、鍛錬をする桃太郎さんが、……怪我をして帰ってきていた事もあって、お婆さん心配しちゃって……いっそ、腕が、……使い物にならなくなってしまえ、って、……思うんです」
「へぇ」
「でも、頑張ってる桃太郎さんを見てきたのに、そんな風に思う自分が、情けなくて、……嫌で……」

実弥さんの手が、いつの間にか首筋を下り、肩を撫で、私の手へと絡む。
誤魔化すように「お婆さんの、話です」とだけ、私は言った。

「バァさんのなァ」
「はい。お婆さんです。
お婆さん、桃太郎さんへ『お供に渡しなさい』って持っていかせる為のきびだんごをね、拵えながら、本当は……行ってくれるなって、願っていたんですよ」
「……おゥ」
「それから、結果、桃太郎さんは鬼退治に行っちゃったんですけど、…………悲願を果たして……無事に、お婆さんのところへ帰ってくるんです。……帰って、来ちゃったんですよぅ。
お嫁さんもらって、子供を健やかに育む未来だってあっても良いのに、お婆さんのところへ帰って来ちゃったんです。
お婆さん、喜べばいいのか、申し訳なく思えばいいのか、とうとうわからなくなって……
最後まで桃太郎さんに聞けなかったんですって。『ちゃんと、今、本当に笑えてるか』って」

私はそろそろと、実弥さんの方へと顔を向けた。
未だ、柔らかな顔をしている実弥さんは、「で?」と、続きを促してこられる。

「本当は、そうやって、桃太郎さん自身の幸せのために、その、幸せにやっていって欲しいのに、桃太郎さんの残りの人生、自分が何も残させまいとしちゃってるんじゃないか、って……お婆さん、……悩んでいるんですって。……桃太郎さん、優しいから、……恩だなんだと考えて…………その、そういうのじゃないか、って、お婆さん、悩んでいるんだそうですよぅ」

実弥さんの顔を見たかったけれど、それはすぐさま、実弥さんのゴツゴツかさかさとした手で、私の目元を覆われてしまったものだから、叶わなかった。

けれど、実弥さんはとびきり、優しい声で話し始めた。


「俺の知ってる話とは違ぇなァ」
「違うんですか? でも、この集落に伝わるお話ですよぅ」
「……これは、コウサクの親父さんに聞いた話だから、信憑性高ェ」
「ふふ、本当にぃ??」
「荒木の親父でも良い」
「なぁに、それぇ、適当じゃないですかぁ!」
「まァ、聞けェ」
「ええー……怖くない話です?」
「さぁなァ」

冗談交じりの実弥さんの声が、すぐそこで響いている。
けれど、実弥さんは存外静かに話されたものだから、取りこぼさないように、私は出来るかぎり、耳をすませた。

「そうさな、婆さんには、実は一人娘が居たらしい」
「若いの? 奥様くらいのかた?」
「……いや、その娘のガキ……孫と一緒に住んでたァ」
「うんうん」
「桃太郎の世話をしたのは、なんでもそのだった、っつう話でなァ」
「赤ん坊が、赤ん坊を?」
「……ぶハッ」
「そんなんじゃ、おしめを変えるのも、すごい大変そうですよぅ」
「まぁ、そこはアレだァ」

くく、と笑った実弥さんは、「雰囲気ィ」と言いのけた。

「ま、兎に角、その可愛い娘っ子はたいそう桃太郎の世話を焼いたンだってよォ」
「んふ、可愛いんですかぁ?」
「どうだったろォな、コウサクの親父の主観だァ……続けんぞォ。桃太郎には、……守らなくちゃなんねぇモンが山とあって、……違ェな、……桃太郎は、……何よりもずっと、守りてぇ奴が居て……桃ん中で川に流されながら、修行なんぞをやりながら、ただソイツの無事と、健康だけを、……祈っててよ」
「うん」
「拾ってくれた婆さんの世話になりながら、……孫の手を煩わせながら、鬼退治に傾倒してた。
その、おと……守りてぇ奴以外には、何も要らねェだなんだと言いながらよォ、誰も近寄ってくんなって、周りを威嚇なんざ、してたそうでよ。
でもなァ、ふとした拍子に、……孫が、目につくようになっちまってたァ」
「孫……」
「その孫が曲者でよォ」
「そ、そうなの……?!」
「「いらねぇ」「やめろ」つってんのに、何一つ言うことは聞かねぇし、評判の良くねぇ桃太郎の庇い立てばっかしやがって、とんだお節介モンでいやがった。
桃太郎が出ていけって言われてんのも、放っときゃァ良いのに、わざわざ一軒一軒村の人間の家回って、桃太郎のために頭下げてんだってよォ。
全部終わって、……桃太郎が手ぶらで村に戻った事を『無事で良かった』って、喜ぶ奴しか居やしねぇから、桃太郎は、そのうちその村からも、出られなくなってんだァ」

実弥さんの手が、私の瞼から離れる頃。
実弥さんの言葉に、私の口はあんぐりと開いていく。

「……し、知ってたんですか……」
「ア? 桃太郎の話だァ」
「そ、ですか…………そう、ですね、」

決して納得など出来る事ではなかったが、実弥さんがこうして、お気持ちを話してくださるのだから、そちらの方がずっと大事!
そう思えど、胸がもやもやとする。
私は自分の下唇へと歯を当てた。

「おかげでよォ」

そんな私の唇へと指を這わせ、実弥さんはぐくいッと引張りなさった。
唇はすぐに、ぽろンと、歯の隙間から抜け出ていく。

「猿も、キジも犬も、……その大切な奴・・・・も、守れなかったが、……桃太郎の帰る場所・・・・だけはそうして残されてた。
その娘っ子が、ずっと庇い立てしてるせいでよォ、帰ってった桃太郎が、──違ぇな。
鬼退治以外、なんにも出来なかった桃太郎は、村で英雄扱いまでされちまった」
「…………う、うん」
「桃太郎は……本当は、帰る気なんざ、……そこに居着く気なんざ、サラサラ無かったんだァ」

そのまま、実弥さんの指は私の唇を撫でた。

「だってぇのに、その娘っ子はよォ、……最後に残ったたった一人の弟を守ることすらも出来なかった桃太郎に、何も思い残すことなんざねェ、と、思ってた桃太郎に、そうやってどんどん思い入れ・・・・ばっかり作りやがってよォ」
「は、はい……」
「今じゃ、村のガキどもに懐かれまくって「今度家に遊びに行くね」ってよォ。来んなァつっても、アイツら、来るんだろうよォ。
とくにタケ坊がしつけぇのなんのってなァ」
「……」
「誰かさんが……その娘っ子が、それ聞きゃァなんて言うんだろォなァ」
「多分、い、良いですね、って」
「だろォなァ」
「おやつ、拵えなくちゃ……」
「桃太郎は、そんな娘っ子に惚れてンだァ」
「……そ、」

私の唇を遊んでいた指で、実弥さんはそのまま、私の口を閉ざしてしまった。

そうして、「良いかァ」「よく聞けェ」なんて言う。

桃太郎は・・・・なァ、その娘っ子が、『嬉しい』つって笑ってる顔見れりゃァそんで満足してる」
「……でも、お孫さんは、もっと、桃太郎さんを労りたいよ。もっと、桃太郎さんが、何でも頼ってくれるような、そんな存在で居たいと、多分思ってます、よぅ」
「そもそも、惚れた娘っ子と一緒になれた桃太郎は、誰よりも果報者だァ。
それ以上なんざ、望んでねぇ。強いて言うなら、泣かせたくねぇ、って、そんだけだァ」
「でも、……」
「ただなァ」
「桃太郎じゃねぇ、これは、俺が思ってるだけだが」

そんなことを言いながら私の頬を撫でてくださる実弥さんの手は、嫌に優しい。
まるで、私の頬が飴の薄皮かなにかかと言うように、実弥さんは優しく撫ぜた。

「その桃太郎よォ、帰りゃァ可愛い娘っ子が待ってる家があって、真っ白な米と美味ぇ飯がある。
湯を浴びてサッパリした後にゃ、好いた女の寝顔を見れンだ。
そんな贅沢な事ァねぇよ」
「そ、」
「それ以上求めたら、流石にバチが当たらァ」
「あたる、のかなぁ」
アイツら・・・・ァ、祈りは叶えるのは下手くそでもよォ、取り立てばっかりは有能でなァ。なんでもかんでも持っていっちまうから、持ってかれねぇようにすんのに、精一杯だァ」

優しく柔く、私の頬を撫ぜてくださる手へと、私は指を絡めていく。
そうしたら、実弥さんの指が、くねくねと動き、そのうち、もっとずっと、複雑に絡んでいった。

「……持ってかれないように、しないとですねぇ」
「桃太郎の話だァ」
「うん」
「名前」
「はぁい」
「…………寝る」
「はぁい。実弥さん」
「ん」
「おやすみなさい」
「……おゥ」

私が実弥さんの妻でいいのか。
その答えは、やっぱり私には出せなかった。
けれど、私は実弥さんが大切で大切で。
実弥さんは「十分だ」と、仰られていて、贅沢だ。とまで言いなさる。

それでいいのか。それだけで、良いのか。私にはわからない。
けれど、実弥さんが「良い」と仰るのであれば、もうそれで良い。
そう思えてしまうのだから、実弥さんと同じように、私もそっと、目を閉じた。

今日、今なら、とても幸せな、幸せすぎるほどの夢を見られる気がしていた。

次へ
戻る
目次

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -