小説 | ナノ

がしゃッ、と、ひときわ大きな音を立てたのは、目の前に転がる醤油さしであった。

「……わりィ」
「い、いえ! すッ、すぐに替えのお醤油お持ちしますねっ!!」

私と殆ど同時に立ち上がった実弥さんよりも早く、私はお勝手へと走り込んだ。

真っ赤になった頬を仰ぐ。
けれど、ちっとも熱は冷めてくれなかった。

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──────
──

昨夜、別段何もなかった。

一昨日の夕方頃から夜半頃まで、あんなこと・・・・・があったのだから、昨夜「今日もあるのかな」と、勝手な想像を膨らませていたのだけれど、私よりもずっと先に、実弥さんは布団へと潜ってしまっていた。

だから、強いて言うのであれば、布団へと転がり、私に背を向けた実弥さんの背中を見ていた。
同じように布団へと包まり、月の明かりが僅かに入る室内で、向こうを向いている実弥さんの肩のあたりが上下するのを、ただ、見ていた。

なんとも言えない気持ちであった。
本当は、あの、汗を沢山かいた実弥さんが髪をかき上げる姿をまた見られるのではないか、と思っていたし、また、あの少し掠れた声で「名前」と呼んでもらえるのでは無いだろうか。そう考えては、心の臓を高鳴らせていたのだ。

いっとき、毎夜誘ってくださっていたものだから、今回もそうだ、と思っていたというのも本当であった。

実弥さんの掛け物から覗く真っ白な頭に、どこか肩透かしを食らったような気持ちで、私は自分の口元まで、かけ物を引き上げ、顔を隠すことにした。

そうやって、実弥さんの背中を暫く見ていると、うとうととしてきたものだから、今度は高い梁の向こう側へと視線をやり、きちんと仰向けに体を転ばせた。
うつらうつらと、夢と現の狭間を行き来していれば、そのうち首がぐりッと横へ向いてしまう。
私の癖であった。

何度も上を向こうとするのに、気が付けば右へと顔を傾け、それに合わせ、体も横へと向けてしまう。

寝相など、本当はなんだって良かったのだけれど、幼い頃。隣で一緒に眠って下さった奥様の寝姿が、あんまりにも綺麗だ。と、思っていた事を覚えている。
真っ直ぐに上を向き、少しばかり顎を上げていたかもしれない。
朝起きると、寝衣には乱れ一つない。
綺麗って、こういうものを言うのではないだろうか。と、稚ながらに感動したものだ。
であるから、大人になった今、私は奥様のような凛とした女性になりたいと言う強い願望も手伝い、こうして上を向いているというのに、一向に体は真っ直ぐを向いてくれない。

かくンと首を傾けては、戻す。
傾けては、戻す。

そんな事を、夢現のままに続けていた矢先。自分が何を考えていたのか、は覚えていない。
もしかすると、喉でも乾いたのか、はたまたいっそ起きてやる。とでも拗ね始めたのか。
実弥さんを見るつもりであったのか。
覚えていないけれど、フっと、目を開けた。

目の前には、腕で枕を押し上げ、私のそんな稚拙なさまを見ておられた実弥さんが居た。
仄かに入る月明かりだけだというのに、暗色に慣れ始めていた私の目は、実弥さんの表情までもを、見てしまった。

すぐに表情をしかめつらしいものへと変えた実弥さんは、そのうちきゅ、と口を引き結んではまた私から背を向けてしまった。けれど、私は実弥さんが目を殆ど無くなるほどに細めて、柔らかなお顔で私を見ておられたのを見てしまったのだ。

それが、あの夜・・・の実弥さんのようで、なんだかどきどきとしていた。

「ぁ……のぅ……」
「もう寝たァ」
「はい……おやすみなさい」

罰が悪かったのか、実弥さんはそれに応えて下さらなくなった。
最中・・でも何でも無いのに、私の心臓は痛いくらいに「きゅうん」と鳴った。




朝。
目を覚ますと、蚊帳の裾が見えていた。
また体を横へと向けているらしい、と気がつく。
次に、お腹のあたりが重い。それから、足の周りが窮屈で、熱い。
それから、なま温かいものが、時折首筋を撫ぜている。

まるで、昨日の朝と全く同じような格好で、実弥さんと絡まっているのだ。

「ーーッ! ………っーーー!!」

声を上げそうになるのを咄嗟に飲み込み、私は蕎麦殻の枕へと顔を埋めた。
そうすると、途端に足は自由になり、腹まわりの重みは失せ、首筋はいっそひんやりとした。
恐る恐る振り返れば、布団の上へと胡座をかき、頭をぼりぼりとやっている、実弥さんの赤い耳と後ろ姿があった。
もしかすると起こしてしまったのであろうが、それどころでは無かった。

何度か息を吐き、心を落ち着けようと躍起になるが、頬の熱は一向に下がらない。

「お、……はよぅ……ございます……す、すぐに、朝餉を、持ちますね……」
「おゥ」

埓があかないから、と諦め、掠れた声でそんな寝起きのやり取りをしたのが、今朝のこと。

ぎこちない朝の支度の時間を過ごしたことを、覚えている。

「お帰りなさい」と、実弥さんを出迎えたのは、少し前。
汗をかいただろうから、と、先に湯の用意をしていたから、「どうぞ」と促した。

素直に湯浴みへと向かった実弥さんを見送り、お勝手へと戻ったのだが、すこしすると、実弥さんが後ろから声をかけてきた。

「おィ」

と。
私を呼ぶ声がしたものだから、振り返ろうとしたのだけれど、ぬッ、と伸びてきた腕が、私をお勝手台のそこへと閉じ込めていく。
そうしたら、振り返ることも出来なくなった私の肩口へと、乾ききらない頭を擦りつけた実弥さんは、「今晩、良いかァ」とだけ仰った。

いくら私でも、その意味くらいはわかる。
「こんばんは」でもなければ、「今晩飯食うか?」でもない。
「今晩」「する」と、言うことだ。

私が何を言うよりも頷くよりも、ずっと先に離れていった実弥さんの手のあった台へと、私は額を押し付けた。
しゃがみ込み、沸き立つ頭を冷ましたくて、ぐりぐり、ぐりぐりり、と、押し付けた。

それからだ。
実弥さんの夕餉の支度をなんとか終え、膳を持ち運び始めたあたりで、廊下の向こう側から歩いてくる、着流し姿の実弥さんを見た。
途端に腕の力が全部抜け落ち、実弥さんが助けてくださらなければ、お膳はきっと床へと転がり落ちていた。

「いただきます」

そう手を合わせた実弥さんの手やら指先。
小さく動く唇やらから私は目を離せなかったし、きっと私はだらしなく口を開けっ放しにもしていただろう。
一口、二口と、口へと放り込まれる魚やら芋やらを、箸に摘まれたあたりから、じぃ、と眺めていれば、そのうち実弥さんのお口へと辿り着くのだ。
私はぼとぼとと、箸を取り落とした。

浅漬へと箸を進めた実弥さんは、きょろ、と辺りを見渡したものだから、膳の脇へと置いてある、硝子細工の醤油さしを実弥さんへと差し出す。

「悪ィ」

なんて言いながら受け取ろうと、伸ばされた実弥さんの指先が、私の指先と、ちょんッと、ぶつかった。

畳の上で、ごろンと転がった醤油さしを、ぼぅッとした頭で眺めたのは、遥かに短い時間であった、と思う。

そうして、──今、だ。




私は飛び上がり、お勝手へと急いだのであった。

頭の中が、爆発してしまいそうであったからだ。
最初は「美味しいかな」「好みにあったかな」と実弥さんを見ていただけであったというのに、そのうち、箸を引き抜いたあとの唇やら、時折上げられる実弥さんの目と、視線が絡むやらで、段々と心の臓がどきどきバクバクと暴れ始めるのだ。

そうして終いには、あの目が、今夜私を見るのかな。
全身がごつごつぼこぼこと堅いのに、そこだけが柔らかな、あのお口でまた食べられてしまうかもしれない。
いやに器用な左手で、また体をなぞられていくのだろうか。
そうしたら、全身が熱くて熱くて、たまらなくなるというのに。
また、あの優しい声で、わたしの名前を囁いてくださるのだろうか。

そんな事が、まるで決まっている事かのように浮かんでくるのだ。
実弥さんがどういった風に私へと触れるのか、なんて本当は知りはしない。
だって、前回は殆どの時間で、ああ・・だったのだし、その前は正直、性急であったから、まともに覚えていない。

だから、これは私が勝手に妄想・・しているのだ。そう思うと、尚の事、頭の中が弾け飛んでしまいそうであったのだ。

厭らしい! 恥ずかしい! 
そう思うからこそ、何度も何度もぶんぶんと頭を振り回せども、ずっとずっと頭の中を占めていっては出ていって下さらない実弥さんにため息が出た。

こんなにも鈍臭くては、そのうち愛想を尽かされてしまう。
そんな想像までしてしまい、いっそ泣きたくなってしまった。

「もうッ! …………し、しっかりしなきゃ……!!」

冷めきらない熱を振り払うように、新しい醤油さしの変わりのものを片手に、小走りで実弥さんのもとへと向かえば、実弥さんは雑巾で畳を拭って下さっていた。

「わ! や、やりますッ! ごめんなさい……!」

慌てて手を出せば、醤油染みのしっかりつき、折り畳まれた布の上。そこで、実弥さんの指と、私の指が小さく重なった。

そのうち実弥さんの指が動き、私の人差し指と中指が、実弥さんのそれと混ざっていく。

やっぱり、どきどきとする。
こんなことで大丈夫だろうか。
こんなで、まで保つだろうか。

不安になってきたものだから、思わず実弥さんを見ると、どこか悪戯に口角を上げていた。

私は、息を飲んだ。

ずるい、ずるいずるい!
ずっとずっと、意地悪してたんだ!
私の反応を見て、笑ってたんだ!

理解してしまった私は、手を振り上げた。
ぺちンと、高い音を立てた私の手のひらは、実弥さんの反対の手へと当たっている。
ただの一回では、全く気も紛れないのだから、何打も何度もぺしンぺちンと実弥さんをはたいた。

「ひ、……ひどいですよぅ……! ……わ、笑ってたんですねッ! ひ、酷いですぅ!! わた、私が焦って失敗するのを見て! 笑っておられたんですねッ!!」
「んは、……悪ィ……ッくく」
「わ、笑ってるじゃないですかぁッ!!」
「だって、お前……ンハっ、悪かったァ」
「もうッ! もうッ!!」


くくッと、笑いを殺そうと堪えているらしいが、音も揺れも、ちっとも抑えられていない実弥さんは、とうとう「観念した」とでも言いた気に腰を落とし、足を投げ出して笑った。

「凄ェ真っ赤じゃねェかァ…………んはッ」
「さ、実弥さんのせいですよぅ!!」
「……知ってらァ」
「実弥さんだって、お耳! ま、真っ赤にしてたくせにッ!」
「ア? お前より酷かねぇだろォ」
「そ、そんなの五十歩百歩ですよぅ! 実弥さんだって、同じなんですからねッ!」
「そりゃァ良いなァ」
「よ、良くないですよぅッ!!」

そうやって、私に意地悪ばっかりする実弥さんは、そのうち私の手をにぎにぎとやり、また、くくくと笑う。
白い歯が隙間から覗き、目なんて殆ど見えなくして、それはそれはもう、悪ガキみたいな顔をして笑う。

あの夜の色っぽかった実弥さんは、一体全体どこに行ったのか。
いっそ「どこですかぁ!」なんて言いながら探してやろうか! と、私の口は段々とむくれていく。

「そうやって、ずっと俺の事考えてたんだろォ?」
「ーーッ! そ、んなんじゃないですよぅ!」
「ふは! 顔が正直過ぎんなァ…………熱ィな」
「もぉぉぅッ! し、知りませんッ! 早く食べてくださいッ!」
「ん…………わかったァ」

わかったわかったと頷きながら、私の頬を撫で終えたらしい実弥さんは、お席へと戻り、「ずず」とお味噌汁を啜った。
啜ったが、すぐに「……ぶは」と、実弥さんはまた吹き出した。
堪えきれなかったらしい。

私だってわかっている。

だって頬の熱はちっとも引かないし、目元もずっと、熱い。
実弥さんの「今晩」の言葉のせいなのだから、私がいやらしい・・・・・想像ばっかりして、こんな・・・になってしまっているのは、一目瞭然だ。

「………………いやらしい、ですか?」
「そンくらいが良ィ」
「…………ッ! も、もうッ! な、なんなんですかぁッ!!」

おずおずと尋ねたことへの答が、これ・・だ。
どうしてこんな事が恥ずかし気もなく言えてしまうのか!

そうして私が唇を突き出しながらお味噌汁を啜れば、実弥さんが視線を上げた。

「ゆっくり食えェ」
「く、食ってますッ!!」
「んハッ」

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