宇髄の必要のない、──と言えば過ぎた言葉かもしれないが、──節介もあり、実弥は名前を、一晩屋敷へと泊めることとなった。
気を利かせようとしたのか保身のためか。
とっとと帰っていった宇髄の真意もわからず、実弥は小さく息を吐き捨てた。
手の中。ぐい呑みへと僅か残った酒を煽り、視線を少しばかり右へとずらせば、そこにはうつらうつらと船を漕ぎはじめた名前の姿がある。
雨の音すら無い室内には、名前の立て始めた寝息が、ときたま途切れ、「んぅ」やら「ぅッ」やらと、苦しそうな音を上げている。
酒気を帯びているせいだろうか。
そう考えるほどには、やたらと熱の入っている手で、実弥は名前へとおもむろに手を伸ばした。
「なァにが、…………」
名前が船を漕ぐのに応じてぱらぱらと落ちる横髪を、実弥は指の揃った方の手で、名前の耳へと引っ掛けた。
きっちりと引っ詰められたと思っていた髪は、ところどころから毛先が出て、縺れている。
項のあたりには、詰め損じた髪が、一房たれていた。
ほら、抜けてんじゃねぇか。と、実弥は少しばかり名前を笑う。
なにも、馬鹿にしたわけではない。出来るはずが無いのだ。馬鹿なのは己自身だ。と、実弥は強く理解していたのだから。
行灯のもたらす頼りのない明かりの中、眠りこける名前へと、実弥は多少なりとも戸惑いやら、困惑やら。とにかく、揺れていた。
冨岡だ。
冨岡が、あんなことを言うからだ。そう、心の奥で今はここに居ない男を責めた。
勿論、そうではない事等、実弥とてわかっている。
「半端な事」とは何か。そんな事を考える暇など、あの日あの瞬間、選択肢として残されてなどいなかった。
本当であれば、名前をあの尾上の家から連れ出す前に答えを出しておくべきであったのかも知れないことではあるのだが、目の前に転がった、己の弟妹のように可愛がっていた人間を目にした途端に、夫だ、他人だ。責任だの、今後、だの。全てがどうでもよくなってしまった。
こうして連れ帰ってしまっても、未だ、正しい事をしたのか否か。そんなことすらわからない。
だが、ただ一つ言える事があるのだとすれば、己の目が黒いうちは、あの男との関係を名前が持つことを許してはいけない。
ただ、その一心であった。
実弥は未だ寝こける名前の頬を指の背ですりすりと撫でつける。
酷く指通りの良い肌であった。
いつかの弟たちは、こんな肌をしていただろうか。実弥はそんな事をにわかに考えた。
生きていれば、今頃就也はいくつだろうか。まだ頬を撫でさせてくれる歳であったろうか。
玄弥は誰かに淡い思いを抱くことなどはあったであろうか。
己がここでこうしていたように、誰かと共に温かい飯を食い、時には悩み、泣き、笑う事はあったであろうか。もう少し、悲鳴嶼サンに話を聞いておけばよかった。
何度考えても、終着地点はそこであった。
己のしてきたことには、後悔の一つもない。
戻る事が出来たとしても、恐らく何度だって同じことをする。今度は、もう少しうまく。次は、もう少しだけ上手く。
例えば、玄弥は藤の花の家紋の家にでも捻じ込んでしまおうか。
例えば、名前がここへと世話を焼きに来ることを禁じてしまおう。
この柔さを知る前に。
例えば、お袋があんな夜半に一人で歩かずに済むようにしようか。
そんなことを考えながら、名前の頬へと実弥はもう一度、する、と指を滑らせる。
そうすれば、知る事は無かったのだ。
誰かと食べる、飯の美味さも。
あたたかな飯のもたらす、心安らぐ瞬間を。
そうすれば、出会わなかったのだ。
何一つ守る事が出来なかった己を、暖かく受け入れ「頑張った」「ありがとう」と背を叩いてくる人間に。
「不死川の兄ちゃん、来年は一緒に胡瓜を植えてぇ」などと、鼻の下を擦っていたタケ、だとか呼ばれる、弘と歳も変わらないのであろう、ここの集落の子供に。
「不死川のお兄ちゃんはなんでもできるねぇ」「お兄ちゃんが来てから、ここのお野菜美味しくなったよ」だとか。
実弥は、今日の出来事にまで思いを馳せた。
そろそろと名前の頬から手を放す。
「……てめぇの、せいだァ」
己の口から洩れる音。
名前の緩やかな寝息。
この二人だけの空間に響くのはそればかりだ。
実弥は静かに、だが確実に、強く拳を握りしめる。
「てめぇのせいだ、……」
名前が居なくなってからも、変わらず。
必ず食事は用意されており、ここで暮らしてさえいれば、実弥は腹を空かす事等なかった。一度たりとて。
世話を焼きに来る人間が、必ず居た。鬱陶しく思った事すらあった。そう、態度にすら、何度も出していた。
それでも、子供が笑いかけて来ていた。
夜鬼を斬った手で、朝には子供の摘んだ綿毛を掴んでいた。
食事時には必ず誰かが近くにいて、必ず暖かな湯があった。
それは、ずっと変わらなかった。
今でも。だ。
はしゃいで走り回る近所の子供が、「兄ちゃんが作ったんだろ!」と、畑で採れた胡瓜を取り合ってかぶりつく。
「見てぇ!」と、書けるようになった字を、実弥へと自慢気に見せつけに来る。
「次は、算術出来るようになってくるから!」だとか「もうすぐ西瓜が収穫出来るから、よろしく頼むなぁ」だとか。
「じきに産まれそうなんです。撫でてやってはくれませんか」だとか。「俺、兄ちゃんになるんだぜ。なれっかな」だとか。
実弥がそこに居るのを当然と思っているように話すのだ。ここのものは、皆。
「今回は見送っちゃいましたけど、次の花卸しは、一緒に出ましょうねぇ。絶対にあんなに綺麗で楽しい事は、ここには他に無いですよぅ」
名前は、実弥がずっとここに居る事を当たり前、と言うように話すのだ。
実弥の口から吐息が零れた。
長く、僅かに震えるものであった。
ただ、それだけではなかった。
「……………………たくねぇ、」
この期に及んで、と己をなじってやりたかった。
実弥はぐつぐつと、沸騰したように熱くなる頭を、いっそ誰かに冷やしてしまって欲しかった。
寿美は、泣いていないだろうか。寂しがりであったから、一人でなければいいのに。
ことは弟たちをいじめてやしないだろうか。
一際乱暴であったから、玄弥が見てくれていれれば、なんとでもなるのかも知れないが。
玄弥は、あれから痛い思いをしてはいないだろうか。苦しんではいないだろうか。
そんな事を考えている癖に、「雛鶴が、おめでたでよぉ」と、報告した宇髄のところの子供を「見たい」と心底思ってしまっている。
実弥はまた、震える息を吐き出した。
死にたくねぇと、思ってしまっている。
今更だ。
今更だろォが。と何度も何度も言い聞かせている。
情けねぇ、と実弥は思う。
後悔の一つもしてすらいない、というのに、ただただ、これからを望んでしまっている。
実弥はまた、ぎりぎりと擦れる歯の隙間から、息を吐き出す。
「もう寝ろォ!!」と叫ぶ実弥の声に、頷き、「そうそう。グーッスリ寝て、明日不死川に可愛がってもらえなぁ」だのと笑う宇髄の言葉に動揺した名前が、縋るように実弥を見ていた。
「か、……かわッ!! かわ……ッ!!!」だのと、訳の分からない鳴き声のようなものを漏らし、酔いやら何やらもないまぜにして、実弥を見ていた。
「……寝ろ」
「だ、……かわッ!!」
「ねぇよ」
「無いんですか……」
「ぶっは!!」
「も、寝ろォ……」
頭を抱えるなどしたが、可愛くないと、思ったことなんてない。
実弥は、こんな日々を、どこかで愛おしいと思ってしまっていた。
こんな日常が、毎日が、続くことをどこかで期待してしまっている自身が居る。
実弥はそれを理解してしまっていた。
「死にたく、ねぇ……!」
「…………しな、……がわ、さん」
実弥の声のせいか、はたまた偶然か。目がさめたらしい名前が、のろのろとからだを起こした。かと思うと、顔を拭う実弥の手をとった名前は、実弥の顔をそろそろと、撫でていく。
そうして、名前の指先が目元を何度も拭っていったことで、己が涙をこぼしていたことを、実弥は理解した。
「ろ、……ど、……しましたか」
呂律も回っていない、酔っ払い独特の喋り方で名前は実弥の頬を撫でていく。
「……は、」
「どこか、お辛いれすか」
「クソ……」
「苦しいんれすか」
眉をこれでもかと下げる名前を見ていると、どうしようもなく、愛おしかった。
実弥は唸った。
「……アァッ! てめぇ、の、……」
「はい……」
「…………ッ、てめぇの、」
てめぇのせいだ。
名前が眠っている時は、何度だって言えたはずであった。
名前のせいなどではない。全て自分の心持ちが原因だ、だのと言うことは、初めからわかっている。
そもそも、こんなことを言わなくても良いように、動けたはずであった。
実弥は喉の奥が、痙攣すら起こすのを感じていた。
「なにか、お持ちします、…………か」
心底心配している、というように実弥の顔色を伺った名前を、実弥はその腕に閉じ込める。
小さな体だ。と思った。
実弥の心臓が、きゅうとしまった。
「──……悪ィ」
「不死川さんは、なにも悪くないれすよぅ」名前の手が、実弥の背に回る。
「悪ィ、」
「大丈夫れすよぅ」
ぽけぽけとした声で、実弥の背を、名前はそろそろと撫でた。
もう駄目だった。
実弥は、ぐずぐずになってしまった思考の片隅に「やめておけ」と喚く己自身を飼っているというのに、気が付けば、強く強く名前を抱きしめたく、たまらなくなっていた。
愛おしさに、おぼれてしまった。
「好きだ」
始めて名前の動きが止まるのを、実弥は名前の頭を押し付けた肩口で感じていた。
「……ぇ、……っ、と」
「お前を、好いてる」
「……え、っと!」
「なんにも、くれてやれるものなんざねェ」
「え、っ、……と!」
「それでも……一緒に、居てぇと、思っちまったァ」
「そ、」
そこまで言いのけてから力を抜けば、名前はもぞもぞと動きはじめ、どうしようもなく真っ赤な顔を下へと下げた。
「私…………ど、鈍くさいから……本気にしちゃいますよぅ」
「……あァ」
「私、お、おべっかとか、わからないから、……酔ってるから、と、取り消すなら、い、今だけ……ですよぅ!」
「……取り消したくねぇ」
名前の手が、実弥の崩れた着流しの襟もとへと引っかかっていた。
そのまま手を添えれば、おもむろに指が絡まっていく。
どこまでも遠い世界の出来事のようであるのに、指先から伝わる熱が、現実であると告げている。
実弥はまた、小さく息を吐いた。
「わ、わぁあん! ……わ、わたし、私ねッ、こ、こども、っうめ、ませんよぅ……!!」
「関係ねぇよ」
ぎゅうぎゅうと、実弥の手を握りしめた名前の指が、どこか震えているのを、実弥は確かに感じていた。
「ふ、……ぅ、…………うぅ、うぇ、ずっと、…………ふ、わた、私ね……ずっと、お慕いしてたんですよぉ、……ず、ずっと、…………ずっと、想ってたんです! ご、ごめんなさいぃ、」
「……謝んなァ」
「こ、断らなきゃ、いけないのにぃ……! ど、しよ……わ、わぁん! 嬉しいですよぅ……!!」
「悪ィ……俺は、……お前が良ィ」
「きっと、後悔、させちゃいます、よぅ!!」
「しねぇ。……一緒に、居てくれ」
「ごめんなさいぃ……! ……い、っしょに、居て…………良いれす、かぁ……!!」
「そう、言ってんだろがァ」
言いたい事も、言わなくてはならない事も、伝えたい事も、伝えておかなくてはならない事も。
しなくてはならない事も、山とある。
そもそも、こんなつもりではなかった。
実弥はいっそ、自分を殴り飛ばしてやりたかった。
そうしてどこかで、いつか匡近が言った言葉を思い出していた。
『恋とか愛とか、……わかんねぇよ。要らねぇ』
『実弥はオコサマだなぁ。要る、要らないじゃないんだよ。気が付いたら、どうしようもなく溺れて藻掻いてるんだよ』
『尚更、要らねぇ』
溺れている、と思った。
ぼろぼろと大粒の涙をそのころころと見開いた目からこぼし、子供の用にべそをかく女が、実弥はどうしようもなく、愛おしかった。
頬へと落ちる涙を右手の頼りのない指で掬ってやるも、次から次へと落ちてくる。
濡れた睫毛が大袈裟に動き、また、雫を落とす。
思わず、実弥はそれを今度は唇で掬い取った。
名前の指先が、その頼りのない実弥の右手に絡み始める頃。
柔い薄紅の膨らみへと、伝い流れ落ちる雫を追うように、実弥は静かに唇を寄せていた。
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