その日、実弥の屋敷へと荒木夫人と、それからセツがやってきた。
まだ朝も早く、常であれば実弥がそろそろ畑へと繰り出そうか、という頃合いだ。
名前が居なかった頃となんら変わらず、セツは傍らに子を連れてやってきている。
何かあったのか、と、実弥は目をパチクリとやった。
「……どうしました、」
「どうもこうも有りませんよ!」
「どうして言ってくださらないんですか!」
実弥の言葉へと被せるように二人は言い募り、実弥へとそのどこかニンマリとした顔を見せている。
手習い処が元気な声を上げはじめているようだ。
このぶんだと、じきここへ名前もやって来るだろう。
「は? なんの事だか、サッパリ──……」
「名前ちゃんとのことですよ」
セツはうんうんと頷きながら呟くように言う。
名前は、このセツだとか言う女を綺麗だなんだと褒めそやしていたが、実弥はそうは思わなかった。
見た目やら何やらにそうこだわりがあるわけでも、注視している訳でもないが、別段好みではない。
一口に言えばそんなものだ。
だからどう、だのと言うことはないし、言うつもりもなかったが、笑った時に、少しばかり吊った目がしなると狐のようだな、とは思う。
「……名前? あァ、名前サンなら、まだ来てねぇが……じきに、──」
「もう、とぼけなさって!」
パタパタと仰ぐように手を振る荒木夫人に、実弥はぎゅ、と眉根を寄せた。
思い当たる事が、ひとつふたつとあったからだ。
アイツだ。
と思った。
「何を聞いたのかは知らねぇ、が、……何もありませんよ」
「……」
「あら、」
「ありませんよ」
実弥の言葉に二人は顔を見合わせ、「ねぇ?」と、小首を傾げ合う。
とりわけ動きが早かったのは、荒木夫人であった。
「わかった!」とでも言うように、ぱんッと手を叩きあわせ、実弥へと頷くと、「ね、シナズガワ様」と話し始める。
「いやね、夫に、「あの二人はそろそろだ」なんて聞いたものだから、てっきりよ! それがそうなら、私達お手伝いさせてもらえやしないかって、それで来ましたの」
「はァ、」
「あなた、見る限りお一人でしょう? 祝言の時に祝いのお膳やらなんか、用意できそうに無いわよね、ってセツさんと話しててね。クニ子婆さんも手伝ってくれるって言うもんだから、ならそれでシナズガワ様を安心させてあげましょうかってなもんなのよ」
一息に話し始めた荒木夫人に、実弥は一先ず、相槌を打つ。
「名前ちゃん、あんなことのあった後でしょ?
まともに結婚のなんやらも、してもらっても無いんだから、あんな事は無かったことにして、次できちんと祝ってあげましょうねって、私達話し合っていて──ねぇ?」
「ええ。どうでしょう、って思ってたんですよ」
「まぁ、それだけなんだけど、──」
そこまで言った荒木夫人らは、頭一つは上にある実弥の顔をちろ、と見やり、また「ねぇ?」と二人で小首を傾げ合う。
「ありがてぇ申し出ではある、んですが、俺は──……」
実弥が言葉を切ったのには、理由があった。
眼の前の二人、もとい三人から視線を逸した先に、口もとを抑え、ただでさえくりくりとした目がまろび出そうな程、大きく開く名前の顔があったからだ。
二人は実弥の視線を辿り、「あッ」と声を上げた。
「な、……何を仰って、……」
わなわなと震えながら、顔を真っ赤に染め上げた名前へとぱたぱたと歩み寄り、背中を撫でるや肩を叩くやらでうふうふとやり始めた女達に、実弥はそろそろため息を吐き出しそうになっていた。
それとほとんど同時。
名前は真っ赤な顔もそのままに、ぶんぶんと首を振り回しては唸るように言う。
「や、やめてくださいよぅ!!」
「え、えぇ、……どうしたの、」
「不死川様にだって、選ぶ権利はあります!」
「名前ちゃん、」
気遣わし気なセツの手を、身を捩って避けた名前は、真っ赤に染まり上がった頬を、何かを拭い去るかのようにぐいぐいとやった。
実弥は、静かに口を引き結んだ。
つい先日のことだ。
庭先で、串もちをうまいうまいと食べていたのは。
外廊下へと腰を下ろし、少しずつ日の延びてきた空をぼぅ、と見上げながら、「餅がうまい」だの「足が良くなってきたと思う」だのと話していたのは。
つい、昨日の事だ。縫い目の不揃いな浴衣を渡されたのは。
その後に、不死川様だのと、また突き放した呼び方をされるような覚えは実弥には無かった。
「不死川様には!」
唸るように言った名前は、実弥へと一瞥をやることもなく、捻り出すように「私じゃなくて! 相応しい方が居ますよぅ」だのと言う。
実弥は苛立っていた。
何をどうすればこんなに卑屈になっていくのか。
思えば、ここへ連れ帰ると決めたときからそうだったと思い返す。
「グズだ」「バカだ」「鈍磨」だの。
自分を形容する際に頭へとつけるようになったのは、それだ。
ずっと言い続けられてきたのだろう。それを想像するに、堅くない。
それすらも、苛立ちの原因だった。
むしろ殆どがそれだった。
しょうのない男に染められやがって。と、なにが「相応しくない」だ。
どうやったってそれは「俺の台詞だ」と、実弥は言ってしまいたかった。
苛立ちをそのままに、実弥はつかつかと歩き始め、名前の手に納まる風呂敷を引っ手繰り、「こい」と顎で示す。
そのまま踵を返し、実弥はとっとと屋敷の中へと身をねじ込んだ。
「わ! え! ……し、不死川さ……!」
「ほら、行きな」
「不死川様ぁ! 夫に、今日は来ないだろうって伝えとくわねぇ!」
「や、ヤス子さんってばぁ!!」
表から聞こえる姦しい声には何も返さず、そこへとやってくるのであろう名前を、実弥は待った。
おずおずと門を潜った名前の腕をひっ掴み、実弥は奥間へと歩いていく。
色々と、考えようとしていた。
例えば、どうすれば名前はまた、いつかのようにただ屈託なく笑うのか。
どうすれば、己が、一体実弥自身へ何をもたらしたのか、を理解するだろうか、と。
「わわッ! ま、待ってください!! 不死川様ッ! 不死川さ、」
「てめぇ」
「……ま、」
「もっぺん言ってみろォ」
振り返り、実弥が名前を視界へと入れる頃には、どうしようもない程までに、見えるところすべてを赤に染め上げた名前が、たたらを踏んでいた。
日は差し込むが、朝方の弱い陽射しではまだまだ明るくなりきらぬ屋内の、仄暗い廊下。
そこに、確かに緊張が走っている。
それを一際感じているらしい名前は、自身の腕を見ていた。
そこから離れていく、実弥の手を見ていた。
「し、不死川、さ………………ま、」
「…………今日は帰れェ」
「……」
「帰れ」
実弥は冷たく吐き出した。
名前の手の中へと、実弥は風呂敷を押しやり、態度でも「帰れ」と告げる。
実弥は自分がわからなかった。
何がこんなにも苛立つのか。
ただ、名前が呼び方を変えただけだ。一線を引こうとしているのを垣間見たに過ぎない。
悪いことではない。
下手に依存的な関係にずぶずぶと嵌っていくのは、そもそも本意でもないのだ。
何故なら、ずっと側にいるだなんてことは出来ないとわかっているのだから。
名前は手の中の風呂敷を数度抱え直すようにやり、そのまま体を静かに折り曲げた。
実弥は言いたいことを一つとして言えていなければ、伝えたいことの一つとして名前に伝わっていないのであろうことはわかっていた。
実弥へと、つむじを見せつけるように頭を下げる名前へ、実弥はため息を幾度か吐き出してから、問うた。
「相応しいって、なんだァ」
名前は暫くしてから、口を開く。
「す、少なくとも、……不死川様の、お子を、……授かれる人です」
実弥は眉根を寄せた。
「要らねぇよ、ンなもん」
「……の、残すべきですよぅ! だ、だって、柱の、お子です。のこさなくちゃ……」
「終わったんだから、もう、そんなモン関係ねぇよ」
「でも貴方は! 頑張って来られたんだから!! 幸せになるべきなのは、私なんかじゃなくって! ……不死川様なんですよっ」
大きな声を出した事を気にしたのか、名前は「すみません」と、口を噤む。
途端に、ざぁざぁと音がやってきて、雨が振り始めたことを実弥は知った。
いつの間にか、おもての鳥のさえずりは失せ、変わりにとでも言うように、雨の音だけが響く。
名前がまた、口を開いた。
「わ、わかってるんです」
「ア?」
「そう、……わかってるんですよぅ」
やおら顔を上げた名前の顔を、実弥は真っ直ぐに見ていることが出来そうに無い。
実弥は何度でも思う。
いつの間に、こんな顔をするようになったのか、と。
「ハッキリ、──……」
そこまで言ってから口を止めた実弥の動きは早かった。
家の中に、誰かが居る。
すぐさま名前の腕を引っ掴み、自身の後ろへと隠すと、「良いか、」と声をかけ、後ろで名前がコクコクと頷くのを見てから足を踏み出した。
トトン
ととん
たとん
軽やかな、木に何かをうちつける音が響き始めた屋敷。
実弥は名前に「ここに居ろ」と言ったが、恐怖からか、名前は震えるように首を横へと振った。
「……なら、離れんじゃねェぞォ」
「は、はい……っ」
スタスタと歩き始める実弥の着流し。
その袖ぐりを掴んだ名前は、実弥の歩く速度に合わせ、小走りでついて行った。
妙な気配だ、と、実弥は思う。
勿論鬼でもなければ、物取りやら何やらの、荒々しい気配はない。
どちらかと言えば、小さなものだ。
──そう、たとえば。
土間へと繋がる障子戸をスパッと開けば、綺麗に切り揃えられた真っ黒のおかっぱ頭と、くりんとした愛らしい目が、こちらを覗いた。
「り、りっちゃん!!!」
実弥の後ろから、名前が「わッ」と声を上げた。
実弥も、その真っ赤な着物の柄には覚えがある。どうやら、先程まで居た、セツの側で小石を拾ったりなんやとしていた童女であった。
こてん、と首を傾げ、童女はまた、框へと足をとたとたと打ち付ける。
「母ちゃんはァ?」
実弥は屈み込み、童女と目線を合わせてやるが、まだまだ言葉を話せないのか、名前に「りっちゃん」と呼ばれた童女は、にぱ、とやっと生え揃ったかどうか、という頃合いの歯を見せつけて笑った。
実弥へと手を伸ばし、ころころとした石っころを渡すと、そのまま、のろのろとした幼子特有の動きで土間へと降り、おもての扉を開けようと扉へと手をかける。
それを実弥はすぐさま抱き上げ、サッと、玄関扉を開けてやった。
顔見知りの名前について来たは良いが、そろそろ母ちゃんに会いたくなったのだろうな、と思ったのだ。
けれど、外は生憎の雨で、視界も悪い。
こんな中でなくとも、まだ二つ三つの幼子を一人で外へとほっぽり出す事など、実弥には到底できることでは無かった。
「りっちゃん、お母さんのところへ帰ろう! きっと心配してますよぅ!」
「んー」
「送ってく」
「で、そ、そうですよね、……お願いしても、良いですか」
今回ばかりは、童女のことも考えて、であろうが、名前は引き下がることもなく、素直に頭をぺこ、とだけ下げていた。
実弥はそれを視界へと収めてから、玄関の脇へとずっと置いたままにしてある傘へと手を伸ばす。
「ずっと使って無かったが、……開くかねぇ」
「あ、私やりますよぅ! りっちゃん抱いておいでですし」
「なら頼まァ」
「はぁい」
頼りのない名前の細い指先が、傘をそろそろと開いていく。
そろそろと、だ。
長らく放置していたからであろうが、湿気やら何やらのせいか、ぺりぺり、と紙が剥がれる時独特の音が響く。
「……ッあ!」
「構わねぇ、いっちまえェ」
「い、いきますよぅ!」
ばりばりと、音が変わる。
心做しか、実弥に抱えられたままの童女も、息を呑んでいるようであった。
「う、!!」
「大丈夫だァ、やっちまえぇ」
「あんばえぇ!」
「は、はいッ!」
バリッと、一際大きな音を立てた傘は、見事に童女の腕がスッと通りそうな穴一つを開け、大きく開いた。
「わぁん! ごめんなさぁい! やっぱり穴が空いちゃいましたぁ!」
「こんだけで済んだんなら上出来だろォ」
「わぁー!」
先まで指を咥えていたはずの腕を上げ、きゃっきゃとはしゃぐ童女に、実弥は思わず目を窄めた。
「やったねぇ、これで帰れますよぅ!」
「ん!」
「ちいと待ってくれなァ」
「あ! 私、これ持ってます! りっちゃん、これ巻いちゃいますねぇ」
名前が持っていた風呂敷の中身を框へと置き、大きな紫の風呂敷を見せつけるように広げた。
名前はそれで童女の頭を包もうとするが、それも虚しく童女は「いやいや」と、すぐに引っ剥がし、風呂敷をポイッと投げ捨てる。
「り、りっちゃぁん、風邪をひいちゃいますよぅ!」
「濡れねぇようにしねぇとなァ」
ハ、と漏れる笑いも堪えることなく、実弥は小さな背中をとんとんと叩いた。
「穴、あいてるから、これだけじゃしのげませんよぅ」
「待ってろォ」
サッ、と、つい最近まで使っていた真っ白な羽織を、実弥は取った。
玄関そばへと引っ掛けていた羽織が失せると、無骨な釘が、顔を覗かせていた。
「悪ィが、今はこれしかねぇ。我慢しろなァ」
「殺」たった一文字が刻まれた羽織をひっくり返し、実弥は童女の、そのちんまりとした体だけを包み込む。
「きっと、お母さんが待ってますよぅ」
「はやく帰ってやんねぇとなァ」
こくこくと頷く童女を抱えたまま、実弥は玄関口を出た。
そうすると、傘を傾けた名前が、きゅっと頬を持ち上げ、すぐ隣へと立った。
穴のあいた傘ではどこまで凌げるかはわからないが、あまり濡れなければ良い、とだけ。
実弥は思った。
まだまだ雨は、止みそうにはなかった。
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