小説 | ナノ

もう桜の花が落ち始め、木の根元が桃色へと染まり始める、三月の終わり。
実弥は一鬼殺隊隊士として、そして柱としての最後の隊務を先日、終えたばかりであった。

何をする、と言う事も浮かばず、ぼぅ、としては浮かんできそうになる己の弟妹や、道半ばで命を落としていった隊士たちの事。
そこから視線を逸らすには、毎日のようにやって来る名前と、性のない話しをしてみたりだとか、時折実弥の屋敷へと尋ねて来ていた町の親父たちに頼まれた手伝いをしたり。だとか言うのはどこかありがたくもあった。

何も考えず、裾の足りない股引をさらに引き上げ、土を耕す事等は造作もない。
更に言えば、何も考えず、ただただ無心で没頭できることでもあった。

そうこうし始めてから、そろそろ一週間が経ったろうか、と言う頃だ。

「よぉ、鬼狩り様よぉ、そろそろ、名前を教えてくれても良いんじゃねぇのかぃ」

実弥へと、そう声をかけてきたのは、後頭部から短く刈り上げた短い髪をわしわしと拭きあげながら、土がついた手を用水路でバシャバシャと洗い始めていた男だ。

いつか、実弥へと自身の名を「コウサク」と語った男であった。

「鬼狩り様ってぇのも、余所余所しいしなぁ」

うんうんと頷きながら里中の家のほど近くに住まいを構えている、荒木の親父が、適当な土嚢の上へと腰を下ろした。

実弥は土で汚れた自分の手のひらと、先ほどまで耕していた畑をそれぞれに見てから、二人の動きに倣うように適当な畑道の端へと腰を引っ掛けた。

そうして空を一つ仰ぎ見てから、ぼそり、と口を開く。
思っていたよりも、少しばかり声が擦れていたかもしれない。
けれど、それは確かに音となり、実弥の喉を通りすぎていった。

「……不死川」

顔を見合わせた親父二人は、途端にニヤ、と口元を歪めていき、実弥を見やる。

「どんな字ぃ書くんでぇ」
「そりゃあ、シナズ・・・ってんだから、"死なず"だろ」
「お前、そんなだからヤスさんに"ヌケサク"なんて呼ばれんだよぉ」
「なんで知ってんだよてめぇ」

軽快になされていくやり取りを眺め、実弥は目を窄めた。

「……」
「そりゃうちのが言うんだから、ヤスさんがそこいらで言ったんだろうよ?」
「っかー! やってらんねぇな!!」
「でぇ?」
「どうなんだい、シナズさんよぉ」

親父二人の顔がまた実弥を見やり、あぁだこうだと互いを罵り合っている。
この二人は、どうにもじゃれかたが子供のそれと変わらないものである。
であるから、実弥は二人の言い合いに割って入る気は微塵もなかった。
入ればたちまちに巻き込まれ、そのうち話題の中心へと引っ張り込まれると言う事を、この一週間で学んでいったから、かもしれない。

とはいえ、無視を決め込もうものなら好き勝手に決めつけられ、そのうちそれが本当・・であるかのように話しだされるのだから、たまったものではない。

だから実弥はただ、自分の名前を伝えることにした。
端的に。空で指をつつい、と動かしながら、それだけを言った。

「……死なず、の不死に三本の線の川」
「ほら見ろぉ! 俺ぁ馬鹿じゃねぇぞ!!」
「うるせぇなぁ」

荒木の親父の方へと小さな包みを投げ渡しながら、コウサクは「わかったわかった」と両腕を上げた。
降参、の意思表示ともとれる格好を、荒木の親父とその向こうへと腰掛けた実弥へと見せつける。

満足気な顔で、コウサクから寄越された包みの中から適当な握り飯を引っ掴んだ荒木の親父は、それを一つ頬張り、実弥へと包みを差し出した。

「いや、俺は要りま……」
「あぁ、そうか、じき名前ちゃんが持ってくるか」

また実弥へとにやにやとした顔を見せ、荒木の親父はそのまま包みをひっこめた。
そんなやり取りを頬杖を突いたままに眺めていたコウサクは、人差し指と親指で、しっかりと漬かっている様子の大根の漬物をつまんでは口へと放り込み、顎をしゃくる。

「んでぇ? シナズガワの何さんか、……な? 今日こそ良いだろぉ?」
「……実弥」

実弥は、呟くように言ってから、そんな二人から視線を逸らした。

今まで名前を尋ねられた事が無かった、と言うわけでは無い。
ただ、ああして、いつ死ぬともしれない日々を走っていると、いつからか名を名乗らなくなっていくのだ。

「先輩」だとか「おい」だとか「お前」で事足りてしまうのだから、それでいい、と思っていた。
名前を呼び合うことすら、どこか珍しいものであったのだ。

勿論、例外は居る。
同じ柱が相手だと、まず柱合会議の際にお館様から名前が伝えられる。
馬鹿でもない限りは、必然的に名前を覚えるというもの。
ただ、そういったことが全て、とは勿論ならない。

例えば、同じ隊士と三度任務がかち合った時。
例えば、その一人の隊士と任務が一週間続くようになったとき。
常であれば、名乗るような場面はいくつもあった。

けれど、その三度目を終えた時には、続く任務から帰る頃には、実弥は一人で立っていた。
名乗る為の相手など、そこにはもう居ない。
結局、名乗る必要が無いのだと、そのうち思い知るのだ。

いつの間にか「風柱」と呼ばれるようになったころには、実弥は名を名乗る必要性はもはやなくなっていたし、隊士の名前をほとんど自分から進んで聞くことも無かった。

きっとこれは、鬼殺をしていると、あの隊に属していると、そのうち「そういうものなのだろう」と思う日が来る。
そういうものだ。実弥も、そう思っていた。

ただ、同胞の死の際。
その時だけは違った。

まだ息があれば、実弥は必ず尋ねていた。「お前、名は」と。
最期にその隊士が見るのが自分だと言うのは、思う所はあった。それでも、実弥は必ず約束を交わした。

「良いか、これを覚えて死んでいけェ。俺の名前は 不死川だ。不死川実弥だァ、──、俺が、必ずお前の無念を晴らしてやる。忘れるんじゃねぇぞ」

そうして、死の瀬戸際の隊士たちは、皆そんな実弥を歯を食いしばり、最後の力を振り絞り、見ていた。

力強く頷いた後に絶命していく同胞を見送ったのは、一体どれほどあったか。
その同胞たちの名前は、既に思い出せなくなっているものもある。
けれど、同胞たちが言っていた最後の言葉を、実弥は覚えている。

『頼みます』

最期を看取るために、名乗る事だけは何度もあった。

だからこうして、いくら死までの期限があるだなんだと言えども、これからもともに歩んでいく人間へと名を名乗る事など、実弥にはそうある事では無かったのだ。

気恥ずかしさがやってきてしまったらしく、実弥の頭には、少しばかり熱がこもった。
それを振り払うために、実弥は頭へと手ぬぐいを引っ掛けた。

「俺の名前覚えてっかぁ?」
「…………コウサク、サンだろ」
「おう」

実弥はじ、と自身の足元を見据え、手ぬぐいで頭を掻き回す。
さほど汗をかいていなかったはずだが、気が付くと、ぱりっと乾いていたはずの手ぬぐいは、どこか先程よりも生地が柔らかくなっている気がした。

そうこうしていると、下の方からぱたぱたと、軽やかな足音が響く。
そのうち、実弥はここ最近でまた「見慣れた」とでも評したくなる顔を見つけた。

「不死川さぁん!」

名前であった。

「……おぅ」
「へへ、……にぎり飯! 拵えましたよぅ」

実弥は、思わず親父たちを見やる。
親父たちはサッと顔を背け、何を話すでもなく黙々と飯を食い始めている。

実弥はまた頭をがしがしとやり、そのうち、頭へと乗せていた手ぬぐいを隣へと敷いた。

「……手ぬぐいが、汚れちゃいますよぅ」
「汚れるモンだろォ」

遠慮がちに実弥の隣、手ぬぐいの上へと腰を下ろした名前は、嬉しそうにへら、と笑う。

「あのぅ、……へへ、ありがとうございます。……これ、どうぞ」
「……」
「どうされましたか? あ、お腹いっぱいでしたか? 大丈夫ですよ!
私、食べられるので、持って帰りま……」
「食う」
「へへ、……あの、…その、ありがとうございます」

実弥はそれには答えないまま、差し出された経木の包を受け取った。
麻紐で結ばれた経木の包からは、どこかまだ木の匂いがしている。
心做しか、紫蘇の匂いも漂っている。きっと、梅干しが入っているのだろう。

ちら、と名前を見れば、受け取ろうと手を伸ばしている、実弥の土くれのついた手を、嬉しそうに見ている。
そんな姿を見ていると、自然と実弥の口は動いていた。

「いつも、悪ィな」
「い、いえ! その、……も、もうッ! そんな改まらないでくださいよぉ!」
「別にそんなんじゃねぇよ」
「ならいつもみたいに『ありがとう』だけで十分過ぎますし、その、」

焦っていることが、誰が見ても伝わるほどに名前はわたわたと手を振り、頭を振り、そのうち頬を手で隠す。
膝の上に置かれた風呂敷包みが、そのたびにぱふぱふと鳴いていた。

「それ、」と、口を開いた実弥の背中側。
丁度、親父たちの居る方だ。
言い換えよう。
親父たちだ。
何やらひそひそとしていることに、実弥は気が付いた。

別に、後ろ指を指されることには慣れている。
恐ろしいだなんだと、忌避されることにも、慣れている。

だが、こうして生暖かい目を向けられるのだけは、どうにもむず痒く、背筋を嫌なものが走る。
つまるところ、実弥は照れた。
それは盛大に照れ、顔を真っ赤に染め上げたまま、唸るように名前へと「帰れ」とだけ。

「あ、……その、……え、えと、はい! これ……お屋敷の玄関の方へ、置いておきますね……その、」
「……とっとと帰れェ」
「は、はい」

ごめんなさい、と、どこかしゅんとした背中のままに、名前は立ち上がり、ひょこひょこと、まだ片足を庇うように歩いて去っていく。

そんな背中を見送りながら、実弥は小さく舌を打った。
名前の下へと敷いていた手ぬぐいを引っ掴み、田圃の中へと水を引くための水路で絞り上げ、そのまま何度も実弥は顔を拭った。
それでも、どこか頬は熱を持つまま。
実弥はとうとう屈み込んだ。

「まぁまぁ、不死川さんも、そう照れずになぁ」

などと、実弥の肩へと、腕を回したままに、荒木の親父は笑う。


「名前ちゃんも一緒に食うか」などと、空気も読まず、叫ぶように名前を呼んだコウサクへ、勘弁してくれと、実弥は喚いてしまいたかった。

「あ!! 私、前に不死川さんの洗濯物を持って帰ってたっきりだから! 持っていこうと思って!!」
「帰れェ。……取りに行くからよォ」
「良いですよぅ!! 皆で仲良くしててくださいよぅ」

どうにもこうにも、今日は実弥の言うことを誰も聞いてはくれないらしい。
んへへ、と嬉しそうに笑った名前は、手を振り、またひょこひょこと歩き始めていた。





「それはそうと、名前ちゃんはどうだ?」

実弥のすぐ横で、顔を覗き込むように言う荒木の親父から距離を取り、実弥はまた先程まで腰を下ろしていた畑道まで戻った。

「まだ足には違和感が有るらしいが──……」
「ああ、違う違う」

実弥の言葉に、首を横へと振り、荒木の親父は「ぐふ」と汚い笑みをもらす。

「お前、まぁた……ハッキリ言えってんだ」
「まぁ、あれだよ、ほら、毎日通ってんだからよぉ……ほら、そのだなぁ、オメコ──」
「あ゛ァ?」
「脅かすんじゃねぇよ! おっかねぇ!」
「っだぁー!! 助平めッ!!」

おそらく。
おそらく、だ。
コウサクが荒木の親父の頭をこうして引っ叩いて居なければ、実弥が渾身の一撃を脳天へと見舞っていた。

ようやく引っ込もうとしていた熱が、また実弥の脳天までサッと付き上がり、何かを噴き出してしまいそうであった。

「お前だって昨日不死川さん帰ったあと言ってたろうがぁ!!」
「あーん? てめぇが言い始めたんだろ! ヌケサクがッ!」

また、あぁだこぅだとやり始めた二人を視界から追い出し、実弥は無心で米を貪った。
「これ、三年前に漬けてたんですよぅ。奥様がね、出してきてくださって……」と嬉しそうに先日話していた梅干しの味など、もうわからない。
ただ、今はそれどころではなかった。

何年前のことだか。
確か、去年だか、一昨年か。その前か。どうだっていいが、とにかく。
名前を暴いた事を、夢に見た。
あの日の矢鱈めったらに生々しかった感触やらが、指先や、唇へと戻って来そうであったのだ。

それを米で、何度も何度もかき消した。
そうして絞り出すように言ったのだ。

「どうだっていいが、滅多な事言わねぇでく……ださい」

勘弁してくれ、と。

「お?」
「ん?」
「……名前、サンが、……困んでしょう……」
「なんだい、シナズガワさん、アンタ……」
「応援すんぜぇ、」

荒木の親父とコウサクそれぞれが実弥の両側から、実弥の背をぱんッと叩いた。

「名前ちゃんは、多分かなり鈍感だからよぉ」
「名前ちゃんは融通の効かねぇとこもあるしなぁ」
あんな傷・・・・があっちゃあなぁ……どうなんだろうなぁ」
「こんなにちいせぇ時から見てきたが、……良い子なのになぁ」
「信じられねぇなぁ、あんなになるまで手ぇ上げやがって」
「まぁ、そんでも……ちぃと見ない間に色っぽくなってなぁ」
「お前、ヤスさんに言いつけんぞぉ」
「いや、だってよぉ、なぁ……? シナズガワさん、」

苦々しく呟いた実弥の言葉は、どうやら無かった事にされてしまった。
いや、言い直そう。
きっと、この親父たちは何を言おうとも聞いてもくれなければそういう・・・・話しに持っていくのだろう。

実弥はもうどこか、諦めにも似た境地であった。

駄目なのだ。名前は。
実弥は口を引き結んだ。

しっかりしているように見せかけ、その実、間も抜けているし、どんくさい。
なにが、どこがと聞かれるとわからないが、ともかく。構いたくなる。
下から掬い取るように見てくるところも、褒めてくれとでも言うように頬を一々染めているのも。
一口に言ってしまえば、あの人懐っこさが可愛らしいのだ。
弟妹へとできなかった分も、可愛がりたくなってしまうのだ。

どうしようもなく可愛いのだ。と、実弥は思う。

「別にそんなに怪我のあとは重要な事でもねぇ、……でしょう」

実弥が言った言葉は紛れもなく本心であった。が、親父たちは顔を見合わせ、小さく、それぞれに首を振った。

「いやぁ、そんなに甘かねぇぜ? 世の中はなぁ」
「うちの倅がもうちぃと大きけりゃあなぁ」

コウサクが耳をほじりながら言う。

「名前ちゃん、良い子なのによ」
「勿体ねぇ」
「……」
「……色っぽくも、なったのになぁ」

そうして顔を見合わせあい、また実弥をじ、と見る。

「…………こっち見んじゃねぇよォ……」

もう、年配者であるだとか、なんだの、辛うじてあった何某は、実弥の中からすっぽ抜けていった。


「どうだい、名前ちゃん」

コウサクが言う。

「良い子だぜ? 名前ちゃん。なにより、あいらしいだろぉ?」

荒木の親父が頷いた。

「……」

それに答えない実弥へと、更に二人は畳み掛ける。

「別嬪さんだろ? 名前ちゃん」
「奥様仕込みだ。料理も上手ぇだろう」
「……」
ソレ・・も"愛"が籠もってんぜ?」

荒木の親父は、実弥の手の中にある、米粒の一つとして残っていない経木の包みを指さした。

「不死川サンも、満更じゃあ、ねぇんだろ?」
「……ッ、うるせぇ!!」

憤死する。
と、実弥は思った。
しないことはわかっている。わかっているが、血管があちらこちらとぶち切れてしまいそうであった。

「俺も! ちぃとは、考えてらァッ!!!!!」

「そうかい」
「めでてぇなぁ」

にこやかに笑う二人を尻目に、実弥は直ぐ側へと立て掛けてあった鋤を引っ掴み、ブンッと振り上げる。
そうしてひと思いに振り下ろした。
土がこんもりと盛り返されていく。

「ッんな話しは! して、ねぇだろォがァ!!」

実弥とて、ずっと考えていた。
名前を迎えに行く道すがら。
必死に木々の合間を、夜の街を走り抜けながら。

会ってどうするのだ。
何を言う。
癪だが、冨岡の言葉が、ずっと頭の中を巡っていた。
何をどうすれば、「半端」でなくなるのか。

そんなことは、もうわからない。
わからないし、どうだって良かった。

ただ、名前が母親と同じように、どうしようもないクズのような男から暴力を受けている。
ただそれが耐えられなかった。

助け出した後はどうする。
助けて、連れ帰って。
その後、名前はどう身を振ればいいのだろうか。
それを全く考えなかったわけでは無い。

そんなことなら、自分が大切にする。
そう、考えなかったといえば嘘だ。

ただ、あの晩。
名前の姿を見たとき。
あそこまでぼろぼろになった名前を見たとき。
あの男を殺さなかった事を、心底後悔した。

名前がされているのと同じように、せめて脚でも折ってやればよかった。顔の形がわからぬほどに、殴ってやればよかった。
笑っているつもりなのか、口の端をひくひくとさせるだけの名前と同じように、二度と笑えないようにしてしまえばよかった。

あの夜以来、実弥は何度だって思った。
名前があの男を夫と呼ぶ度に。
名前が、フッと寂し気な顔を覗かせるたびに。
言ってやりたくなった。
「俺なら、お前をもっと大事にする」

そうして、毎日やって来る名前を、「嫌だ」とも「来るな」とも拒めずにいる。

何故か。

それは、こたえを出せなかった。
出したくなかった。
だから、そんなことを間違っても口走らないように、名前が落ち着いたら、ここを──この集落を出よう。
実弥はそう決めていた。
そう、決めていたのだ。

この集落へと帰ってすぐ。
名前は熱に浮かされながら「奥様に、合わせる顔がない」だのと呻き、今度は「夫に叱られる」と泣いた。
里中の家へと帰っても、外から男の声が聞こえても、それにビクつき、情けないと自分を責めたそうだ。

今でこそ、こうして毎日実弥の家へと笑って通うようになったが、はじめからそうであったわけではない。

捨てられた子犬かなにかのような。
親に見捨てられそうな子供のような。
そんな目で、必死であることを隠そうと取り繕い、「お手伝いさせてください」などという名前を、実弥は追い返すことなど、出来そうにはなかったのだ。

そんな名前が、せめて、心の整理がつくまで。
例えば、笑えるようになるまで。
足がせめて、治るまで。

そうしてずるずると、実弥は未だ、集落ここへいた。

名前が、「夫と離れられて良かった」と言い出しても、名前が、実弥の背中へと顔を埋め、笑えるようになっても。
もしかすると、名前がまた、どこかへ嫁ぐ事に、なるだとか。

「ちぃとは、……考えてらァ」

実弥が小さく呟いた音は、鋤が土へと埋めていった。


──────────
──────
──

日が随分と長くまで空へと残るようになっている。
それでも、夕刻の五時も過ぎれば空は暗みだす。
群青に染まった空が、そろそろやって来ようか、という頃。

風柱邸の前に、ぽつねんと屈み込む姿があった。
実弥は思わず立ち止まる。

未だ実弥が来ていることにも気が付かないらしいその女は──名前は、いつかのようにそこで風呂敷を抱え、時折顔を埋めては、きょろきょろと辺りを見渡していた。
今のその姿を誰かに見られてやしないかと、警戒しているのかも知れない。
が、実弥の姿を視界へと入れてしまったらしく、ぴょんと跳ねるように立ち上がり、風呂敷やら包みやらを、ぼとぼとと地面へと落としていった。

「し、しなず、がわ、さん……あ、ぁえっ、と、あの、」

これでもか、と顔を染めた名前へと、実弥は落ちた風呂敷やら包みを、土汚れを叩き落とし、渡そうとした。

渡そうとはしたのだが、名前がまた、実弥を下から掬い上げるように見やり、まだ真っ赤に染めた頬のままで「お帰りなさい」などと言うから、叶わなかった。

呆けたようにそんな名前を見る実弥の手から、風呂敷やら包みやらを名前は受け取った。
そうしてまた、実弥を伺い見る。
未だ呆けている実弥の顔を見た名前は、嬉しそうに笑う。

「……」
「あのぅ、そ、それで、……お夕飯は、もう用意して置いてあります、ので。お湯! お湯、は、お水は張ってますが、帰りがわからなくて……まだ沸かしてなくて……それから、お洗濯は終わってます!
えっと、それから、その、……下手くそかも、知れませんが、……でも、その、一生懸命に、縫ってみたんです……へへ、」

実弥の手に、紫の風呂敷がぽす、と乗った。

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