小説 | ナノ

鬼狩り様は、あれ以来たいそう忙しくなさっておいでらしい。
姿を見る度に、真っ白の包帯を見せびらかすかのように前を寛げ、黒の詰襟に身を包んでは、あっちへこっちへ。
まるきり一週間近く、姿を見ない事もあった。

一体全体今は何をなさっておいでなんだろう。
そんな事を考えてはみるものの、私にはさっぱり。

聞いてみたいと思ったことはあったけれど、終ぞそのような時は未だ訪れていない。

私がここに来るようになってからと言うもの。ヤス子さんもセツさんも、そのうちめっきりこの屋敷へはやって来なくなっていた。
ただ、飯時になると、「良ければ」と言いなさって拵えてきた夕餉のおかずやらを持って来てくださる。

それを受け取れば、私はここを出る時間になる頃合いだということだ。
もちろん、鬼狩り様が居られる日もあった。例えばこの間。鬼狩り様は、屋敷へと帰って来られると、ガサガサと音を立て、そのうち庭で火を炊き始める。
なにか、整理をしておいでのようだった。

そうこうしていると、忙しそうになさる鬼狩り様の邪魔をするわけにも行かず、やはり私はいつものように「帰りますね」と言うしかなくなっていくのだった。




いつかのように、煤けた煙の匂いがどこからともなくやってくる。

私は腕一つで抱えられる手桶に水を汲み、洗濯桶へと水を貯めている。そんな頃であった。

「おい」

と、庭の方から鬼狩り様のお声がかかり、私は「はぁい」と、間延びした声で応えた。

手桶をその辺りへと置いてから庭へと足を向けると、鬼狩り様は何やら餅を焼いておられるようだった。

「食うかァ?」
「く、くう……食べたいです」
「ん」
「お茶を煎れますか?」
「煎れて来てる」

鬼狩り様は決してこちらを向きはしなかったが、親指でご自身の背中の方を指差された。
その指の先には、外廊下へと茶器が行儀よく、黒塗りの盆の上へと二揃え。並んでいた。

私がそれを視認してすぐ。
鬼狩り様は仰られた。

「大島屋の串もちだァ」

私は思わず口もとを抑え、息を吸った。

「お、大島屋……!!!」
「美味ぇだろうなァ」
「そ、それも……串もち……!!」
「折角だからなァ。七輪で、とも思ったが、丁度良いだろォ」
「串もち……その下は何を、串…………燃やしておいでなんですか」

そんな私の様子を見やってから、鬼狩り様は「ハッ」と鼻で息を吐き出す。
鬼狩り様は笑われるけれど、なんと言ってもあの・・大島屋だ。
かの有名な大島屋だ。
こんな辺鄙なところにまでその名を轟かせる大島屋は、何を隠そう、その「串もち」を看板商品とした老舗である。

先代が隠居して質が落ちるかと思いきや、新作のお餅やらお団子。羊羹やらを山と出し始め、みるみる間に「先代以上」とその偉業を讃えられている、というのは情報通のセツさんの話しである。

私も食べてみたいですねぇなどと言っていたのはついこの間のこと。
それがここで食べられるとなると、涎も出てくると言うものではないだろうか。

鬼狩り様をちら、と見ると、肩を震わせ、私を見ては鼻でお笑いになるではないか。

「食いた過ぎだろォ」
「だ、だって、大島屋ですよぅ!!」

私は思わず口を膨らませる。
そうだ。
大島屋だ。 
なんと言っても大島屋なのだから、これを逃せば食べられる日が来るのかも定かではないのだ。
食べない、などというわけにはいかない。
違う。そうではなくて、鬼狩り様が『私にくださる』という、大島屋だ。

「大島屋だなァ」
「さては鬼狩り様、……甘味好きですね」
「……どうだろうなァ」
「きっとお好きなんでしょうね!」
「聞く意味ィ」

私が鼻息荒く頷くと、鬼狩り様は少しばかり肩を揺らし、何やらを燃やしている上で餅をくるくると回し炙っていく。

香ばしい、少し焦げ始めた味噌の匂いが、辺りを満たしていく。

「焦げ目ッ、焦げ目が……! わ、わ!」
「なァ、お前、……ずっとそうしてろなァ」

ぱちぱちと火花の爆ぜる音に、鬼狩り様の声が交じる。
私は、そのほんの少し後ろで、外廊下の縁へと腰を下ろしたまま、鬼狩り様のお背中を、ぼぅ、と眺めた。

「……今は、……今は鬼狩り様が『笑ってろ』って仰られた意味を、ちゃんと理解できている、と、……思います」
「そうかィ」
「……大変です」
「ア?」
「美味しそうです……!」
「だなァ」
「あッ、」
「あ?」
「お、お洗濯が……」
「後でやっとく」
「でも、それでは私がここに居る意味が、」
「なら後でにしろォ」
「は、はい……!」
「ちゃんと洗えんのかァ?」
「あ、コツを掴みまして! これを両脇に挟みましたら、こうやって……」

脇へと置いた杖を使い、体を浮かせながらけんけんの要領で動いてみせると、鬼狩り様は「器用なモンだなァ」なんて仰られる。

本当に器用なのは、こちらを見ながらも火から寸分も違わずにくるくると串を回し続けられる鬼狩り様だと思う。
ということは、言おうか迷ったが、やめた。

なんだか「言葉を素直に受け取らないやつだ」だのと思われるのも嫌だったし、折角鬼狩り様が褒めてくださったのだ。
そのままに受け取って、大切にしておきたかった。

「ご馳走になったら、その分もきちんと働きますねぇ、」
「なァ、」
「はい!」

鬼狩り様は、私を見たままに、少しばかり目を窄められた。

とても、優しいお顔のままに私を視界へと収めてから、視線を逸らすことなく、ゆっくりと息を吐いておられる。
「……お、鬼狩り様……?」と、殆ど無意識のうちに、私は鬼狩り様を呼んでいた。

鬼狩り様は、うんともすんとも返しはしなかったが、最後には「やっぱ良い」と、だけ。

何を言いたかったのか、それは私にはさっぱり解りはしない。
「あ、あの、」だとか「えっと」だのと口から出ていくのは無意味な音ばかりなのに、鬼狩り様はそれすらも「聞いてる」などと言いた気に、小さく頷かれる。

頬がぎゅっと窄まっていくような感覚を覚えた。

熱がまわり、なぜだかに途端に自分が恥ずかしいもののように思えてくる。
私は堪らず目を伏せた。

どうしよう。
胸の中で、そんな言葉ばかりが渦を作っていく。

駄目だ。
こんなちっぽけな人間が、鬼狩り様へこんな想いを抱くのはきっと違う。間違っている。

それに、きっと、いけないことだ。
だって私には夫があって、それに、本当は尾上の家へと帰らなければならない立場である……はずで。

鬼狩り様があそこから連れ出してくださって、だから、そうすると、帰らなくとも問題はない。のかも知れない。
けれど、私には夫が、有るのだ。

本当はこうしてここに通うことすら、良くない事……ではないだろうか。
相手が鬼狩り様・・・・であるから、と、良くわからない方便で鬼狩り様へこうして甘えきってここに居る。

けれどそれは、鬼狩り様のご迷惑になってやしないだろうか。
お心の、とはいえ、ご負担になっていやしないだろうか。
とても狡いことでは無いだろうか。

そろ、と、鬼狩り様を伺い見ると、鬼狩り様は私を見たままに、小さく口を開かれた。

あぁ、いっそ、鬼狩り様のものとして吐かれる言葉すらも、羨ましい。
もしも私が、鬼狩り様のいちぶであったなら、良かったのに。

自分の浅ましさすら隠したくて、私は両方の頬を手で隠していく。
そうしたら、鬼狩り様のお言葉が吐き出される前に、ぼとッとか、がさッとか、そんな音がして、──落ちた。

お餅が、落ちた。

「わ、わぁんッ! お、お餅っ! お餅がぁッ!!!」
「ア」
「あぁっ!!」

鬼狩り様は、サッと、手をくりっとやって、湯気の立つ、無事であった方の串を私へと差し向けた。

「こっち食ぇ。もう出来てんぞォ」
「でも一つ減ってしまいますよぅ……鬼狩り様のぶん」
「三つも四つも買ってきてっから、気にすんなァ」
「あ、あのぅ、それでは、……甘えちゃいますよぅ?」
「大島屋だからなァ」
「はい、その、……大島屋なので……」

私の返事に満足なさったのか、「ハ」と、また肩を揺らされる。

「冷めねぇうちに食いなァ」そう仰られた鬼狩り様の表情おかおは、もう先までのなにか・・・を孕んだものではなくなっていた。

残念なような、ほっとしたような。
私にはもうハッキリとわかりはしないけれど、串を受け取る際に触れた指先が、いやに熱かった。

それが全部であった。

「い、頂きます……」
「おう」
「あ、あふ!」

じゅわっとした食感やら、お味噌の芳ばしさに餅米の甘みや苦味。
全部が口の中で弾けていく。
まろいものが、口の中で広がっては凝縮されて、そのうち舌の上に纏まっていった。


これで全部全部、飲み下してしまえ。
無かったことにしてしまえ。
鬼狩り様への、こんな性のない何某など抱かなかったと。
それで良い。
それが良い。
そうしてしまえ。
私は無心に、いま一度歯を立てた。

鬼狩り様がお餅を口へと含むのを確認してから、私は言った。

「んんっ、おいひいでふねぇ……」
「うめぇ」

「鬼狩り様と食べると、何を食べても一等美味しく思います」「本当は、そこまで味わって食べられなかったから、いつかまた、もう一度一緒に召し上がって下さいませんか」だのと。

おいそれと口には出来そうに無いものが、きゅんきゅんと胸の中で育っていってしまうのを、私は確かに感じていた。

───────────
──────
──

餅も食べ終え、裏庭の水汲みのポンプの直ぐ側で、私はお洗濯をやっていた。
大きな汚れは踏み洗いして、こびり着いたものは、手でがしがしと擦って。と、そうしていたら、「おい」などと背中側から声がかかったものだから、思わず手を離してしまった。

べちん、にほど近い音を立てて、鬼狩り様のお召し物が水の中へと潜っていった。

「は、はい……!」

屈む、という事が出来ずであったので、お尻をぺたんと地につけていたのが駄目だった。

「だから、何やってんだァ」
「き……着物が! 濡れますので……!!」

慌てて尻っぱしょりした裾を正そうとするが、お尻の近くで纏まっている布は、おりてこない。
もとよりそのためにしているのだし、更には座り込んでいるのだから、当然と言えば当然であるのだが、私の頭の中が、一気に真っ赤に染まっていく。

「てめぇやっぱりなんンッも理解してねぇじゃねぇかァ!!!」
「え! と! そ、その、……で、でも! だ、だって皆……だって、濡れてしまう、から……!」
「少なくともなァ! ンな格好は他所でやれっつってんだァ!」
「よ、他所で……そんなはしたないことッ! で、出来ませんよぅ!!」
「ならここでもしてんじゃねェよ!!」
「え、え!? だって、洗濯……! も、もうッ! ……わかりませんよぅッ」

ぎゃん、と吠える鬼狩り様と、いつぞやを思い起こすようなやり取りをしてしまった。

そうすると、なんだかわからなくなってしまった。
何があれば、あんなにも清々しい気持ちのままに「お洗濯のためです!」などと言い切れたのか。

同じような言葉を返しはするけれど、もう、今は羞恥でいっぱいであった。

腰回りの布は、今度は固定具をつけたままに放り出した足へとひっかかり、内腿の殆どを晒してしまっているままだ。

恥ずかしい。
大それた色気も無ければ、いつかのような小麦の色でもない。
生っ白く、頼りのない脚だ。

見られてしまった! そう思うと、頭のてっぺんから火を噴きそうだった。

鬼狩り様はなおも唸り、真っ黒の詰め襟の前をおっ広げたままに仰った。

「俺がァ、お前襲っても文句言うんじゃねぇぞォ!!」
「おそ、……われて、しまうんですか?!」
「馬鹿じゃねぇんだから、理解しろォ! 言葉の綾だァ!!!」
「襲……」

はくはくとやってから、私は口を引き結ぶ。
それからサッと手で顔を隠した。
手が濡れている、だとかはもう構わなかった。

今にも漏れ出てしまいそうな言葉を隠すことに、それを如実に語ってしまっておりそうな顔を隠すことに、私は精一杯であった。

「……早く仕舞えよォ」

指の隙間からこっそりと覗いた鬼狩り様は、がしがしと、首の裏を掻きながら踵を返し、向こうの厠へと入っていかれた。

きっと、私の頭は呆けてしまったのだ。
きっとそうだ。

何がどうして、「嬉しい」だとか「喜ばしい」事だとか。
私の頭は、きっと、おかしくなっている。

早急に治してしまわなければ。
何度もそう考えを巡らせようとするのに、私が思い起こすのは、たった一度の、それも、鬼狩り様すら覚えてもいないあの日・・・のことであった。

そろそろと、もう跡の一つとして残っていやしなさそうな首の裏を、濡れたままの手で隠した。


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