あの日、鬼狩り様が連れて来てくださったお医者様の、診療所。
そこの定期健診で、お医者様に診ていただいたことによって、体中の傷やら何やらを、私は改めて見る事となった。
「ここと、この辺りは……まぁ、もう元には戻らんでしょうな」
「……そう……ですか」
「あと、ここ。歪なままについてしまっている。一度折れていたんでしょうね」
「さぁ……そんなところは、身に覚えも……あぁ、あるかも、しれない……」
「まぁ、次は無いように、用心しなさって」
「はい」
別室で待ってくださっている奥様へは何と伝えればいいのだろうか。
そんな事を考えていたように思う。
どれくらいぶりにか、また里中の家へと戻った時に見た、かつて私へと宛がわれていたお部屋。そこはまるで昨日まで私が住んでいたかのようにそのまま。
殆どのものは里中の家のものであったから、持って出た物が少なかったとは言え、ブラシやら何やらも、すべてが購入し直されているのか、また置いてあった。
それを見たときに、私は奥様のお顔を覗き込もうとして、やめた。
「戻ってくるなら、もっと早くに戻りなさい! まったく! こんなに怪我を拵えて!」
と、奥様はぷりぷりと怒って見せてはいたが、あの日、鬼狩り様のお屋敷へと来て下さった奥様の泣きすさぶ声は、鬼狩り様の屋敷の寝所まで響いていた。
あんまりにも奥様が夫の事を「憎い」と泣かれていたものだから、私まで夫が酷く憎く思え、あんまりにも醜くなっている体中を何かで塗りつぶしてしまいたくなる。
今もそうだ。
病院へと経過を診て頂くために村へと下りて来たが、警戒でもなさっているのか、奥様は病室の中以外では片時も私の傍から離れる事はない。
「奥様、私、迷惑をかけてしまって……」
「そう思うなら、早く治しなさい」
「……はい、奥様」
私は片方の足を上げたまま、松葉杖で地をえぐった。
坂もなんとか上り終え、奥様と別れた私は、そのまま神社へと向かう事にした。
この地へと帰ってきてしまったことを、ご報告に行った方が良いと思ったのだ。
またご厄介になります、と。
けれど本当はそれは建前で、私は奥様と共にいるのが辛かった。
奥様へと心配をかけてしまっているだけでなく、「私のせいで」と奥様が夜毎泣かれているのを私は知ってしまっていた。
何も言うことが出来ず、ただただ布団の中へと潜り、その音を遮ることしか私には出来ないでいる。
辛いのか、申し訳ないのか。
もうわかりはしないが、息がずっと、し辛いのだ。
松葉杖で、ざりざりと音を立てながら坂道を登っていく。
時折ぐらつくのをなんとか堪え、蟻の行進ほどの速度で着実に上っていった。
三つ又に分かれる道を目の前に、息を切らしながらも杖をついていくと、目の前に、暗色の足袋がやってくる。
私のものよりもずっと大きなその足には、覚えがあった。
「鬼狩り様、」
呟くように言った私の言葉に、鬼狩り様の擦れた声が「おゥ」と静かに返ってくる。
「こんにちは、こんな時間に起きておられる鬼狩り様は、なんだか、新鮮だったのに、……なんだか、感慨深いですねぇ……ふぅ、」
「そうかィ」
「お医者様に、きちんと診てもらえましたか?」
「お前はァ?」
日も高く高くにある真昼時よりも、少し前。
腹回りへと真っ白で清潔そうな包帯を巻いた鬼狩り様の姿に、なんだか私はホッとしていた。
きっと、いつか鬼狩り様が言っていたように「稀血だから」なんて気を使わずに、治療を受けることが出来るようになった、その象徴かなにかのようにも思えたからだ。
ただ、それは同時に私の役目が一つ、無くなっていることを指し示していること、他ならない。
どうにも、そこだけは喜びきれそうにはなかった。
とは言うものの、この集落へと帰ってからというもの、鬼狩り様のお屋敷へとほとんど毎日通いはしているが、それを鬼狩り様が快く思っていないということを知っている。
果たして、そんな感情を持つことが正解であるのか、不相応なのか。
それは解りきっていた。
「私が先に聞いたんですよぅ」なんて、口を尖らせてしまったけれど、まだまだ胸の中には靄が渦巻いている。
「まだ、暫くかかるそうです」
「痛みは」
「だいぶ良くなりました。鬼狩り様のおかげですねぇ、……ありがとうございます」
「なにもしてねぇだろ、俺は」
「鬼狩り様は直ぐにそうやって謙遜なさるんです。もっとご自身を褒めて下さいよぅ」
立ち止まったままであった姿勢から、杖を一歩前へと押し出すと、鬼狩り様はそうすることが「当然」とでも言うように私の右隣へと身を避けた。
「…………褒められたもんじゃねぇだろォ」
「あんまり言うと、怒りますからね! 鬼狩り様は私の恩人です! あんまりご自身をけなさないでくださいねッ!!」
「……ふは、……その恩人にも、容赦ねぇなァ」
鬼狩り様は変わらずご自身にとても厳しく、それはいっそ自罰的にも見える。
鬼狩り様はいつだって難しいことを考えなさって、私を置いていく。
確かに私はあまりに難しいことなんてさっぱりであるし、きっと鬼狩り様とてそれもわかっておられる。
それでも、だ。
隠の方がいつか言っていたように、鬼狩り様はどこか、ご自身を「人ではないもの」かのように、「他とは違う」とでも言いた気に扱うのだ。
きっと鬼狩り様と同じように頑張った方が居られたら、鬼狩り様は褒めるんだろうに。
ただただ何もできず、夫の怒りやら憤りやらを受け止めるだけだった私には、「よく生きてた」なんて褒めるくせに、鬼狩り様はご自身が生きていた事を褒めてもくださらない。
「今のお話は、なんだか、……嫌ですよぉ」
「そうかィ」
苦言を言う私を、目をすぼめて少しだけ笑い、優しく見守りなさる鬼狩り様は、私の一言を意にも介さないらしい。
いつか鬼狩り様を見上げた、藤棚に覆われる道をゆっくりと進む。
「鬼狩り様が頑張っておられたことを、私は知ってます」
「そうかィ」
「鬼狩り様が、苦しんでおられた事も、見ておりました」
「ん」
「例え、何があったとしてもそれは褒められる事ですし、変わりませんよぅ。尊い……ものなん、ですよぉ……」
「……いちいち泣いてんじゃねぇよ」
鬼狩り様のカサついた指先が、私の涙を払っていく。
たくさん頑張ってきた人の手、そのものじゃないか。
私がそう思おうと、鬼狩り様がそれをお認めになられないのが、なんだかとても、もどかしい。
「鬼狩り様」
「ア?」
「私は、どんくさいですし、グズで泣き虫ですし、お役に立てることなんて思いも付きません。そ、それに……こうしてお手を煩わせますし、」
「おい」
鬼狩り様が、私を咎めようとする声が聞こえる。
いつの間にか、神社の目の前で足を止めている鬼狩り様に、私はぷぅ、と口を膨らませた。
「鬼狩り様、」
「……」
「そんな私じゃ、力不足だからですか」
「ア?」
「鬼狩り様は、ずっと、何も話してくださいませんよねぇ。何も、言って下さいません。迷惑だとも、辛かったとも、良かっただとも、なんとも」
鬼狩り様の眉間にぎゅうぎゅうと皺が深く深く刻まれる。
そんな鬼狩り様のお顔を見ながら私は、もしかすると、もう戻らなくなるんじゃないだろうか。そんなまるで阿呆のような事をぼぅ、と考えていた。
「お前に何を話せるんだよ」
「た、……例えば、何か……あの隠の方のことだとか! ……あの、あの日の女性の、あぁ、え、と、胡蝶様の事だとか! ……それから、……た、例えば! 私に来てほしくない、だとか……その、……とにかくッ!!
鬼狩り様が、なにか、……話したいと、思うような事です……!」
「そうだなァ」とだけ言った鬼狩り様は、また歩みを進め、そのうち境内へと入っていく。
寂れて見えるほどに人のいない境内では、鬼狩り様の姿だけが、なんだか浮き世離れして見えた。
いつもの黒詰め襟に白の羽織物のその出で立ちのせいだろうか。
拝殿の前の階段へと腰を下ろし、ぽん、と横を叩きなさった。
私はそこへ、大人しく腰を下ろす。
「お前はァ?」
「……」
「結局ほとんど何も話さねぇのはお前もだろォ」
「……それは、……そんなこと無い、と思うんですけど、……そうですかねぇ、」
鬼狩り様は、ご自身のことをやはり話しては下さらないらしい。
すぐ視界の横で、忙しく組み替えられる指の少ない手を見てから、私は一段上へと腰を掛けておられる、鬼狩り様のお顔を盗み見た。
いやにしかめつらしい顔をしておられる。
何かを考えているのだろうか。
そう思うと、勝手に私の口は、動き始めていた。
「あのひと……」
「ア?」
「夫は、……何も、言ってこないんです。……どう、しているんでしょう」
「さぁなァ」
鬼狩り様の、静かな声が、しんとした肌寒い境内の中で響いていく。
「……あのひと、ただただ悪い人、と言うわけでは、無かったんですよ、……その、……確か、お父様が無くなられてから、若い身空で、その、従事するたくさんの人たちを背負って、……その、私にはわかりませんが。
ずっと難しい事でも悩んでおられたし、なんというか、本当は、責任感の強い真面目な人で、……」
「それを俺に聞かせてどうすんだァ」
鬼狩り様は、ため息とともに吐き捨てる。
「……そう、……そうですよねぇ、あの、え、と……ごめんなさい」
どうするのか、そんなことはわからない。
わかりはしないが、鬼狩り様の考えが纏まるまでの間だけ、なんだか少しだけ、聞いてほしかったのかも知れない。
もしかすると、鬼狩り様のお優しい言葉が欲しかったのかも。
もしかすると、例えば、それでもアイツが悪い、だとか。
もしかすると、アイツも大変だ、とか。
わからないけれど。
ただ、鬼狩り様のすぐお側に腰を下ろしたのは失敗であった、と思った。
鬼狩り様の表情どころか、仕草をすら窺い知ることが難しいのだから。
ぐずな私には、鬼狩り様の表情を見ずには、話すべきこととやめるべきことの区別も難しい。
そうして、鬼狩り様は無言で階段を降りたと思えば、押し黙った私の顔を、下から覗き込まれた。
「ここは」
鬼狩り様の指の少ない手が、私の腕を取った。
「……まだ、少し」
「痕になるかァ?」
「わ、わかりません」
「そうかィ」
静かに目を伏せるままの鬼狩り様は、静かに、けれど優しく、私の腕をその親指の腹で撫でていく。
「アイツの、……その話だけは悪ィが聞けねぇ」
「はい……すみません」
「戻りてぇのかァ」
「……戻りたくは無い、んです。多分。でも、その、……」
鬼狩り様は静かに私の顔を見ていた。
真っ直ぐな目を見ていると、安心するような、緊張するような。
息が詰まるような。吐き出せるような。
「ここに……」
そこで言葉を止めた私に、鬼狩り様は何も言わなかった。
そのうち、きゃあきゃあと子供の声が響き、ぱたぱたとした足音とともにやってくる。
「あー!! 鬼狩りさま!!!」
「鬼狩り様だぁ!!!」
「こんにちはぁ!」
無邪気に笑う皆の声に、鬼狩り様の手が離れていく。
「おぅ」
立ち上がり、童たちへと顔を向けた実弥さんの横顔には、うっすらと笑みが形作られていた。
「こども、お好きなんですか」
「…………そういうわけじゃねぇ」
「いつか、鬼狩り様も、あれくらいのご自身のお子さんを抱かれるんでしょうかねぇ」
じ、と鬼狩り様を見上げていると、鬼狩り様は私の顔を見下ろし、静かに「ねぇだろうなァ」なんて仰る。
「無いんですか?」
「そこまで生きるとは思わねぇ」
「鬼狩り様、そんなに長い間お一人で居られるご予定と言う事ですか……?」
「……もう良い」
「えぇ! ちょ、待ってください! じゃあどういう意味ですか!」
私は思わず立ち上がろうとしたけれど、杖を取り落とし、あたふたと鬼狩り様を見上げた。
鬼狩り様は「しくじった」とでも言いた気に後頭をがしがしと引っ掻き、松葉杖を私の傍らへと立てかけ、「別になんでもねぇよ」などという。
「だって! だってそしたら…………」
「……なんだァ」
「そしたら、……それって、」
「……しゃべり過ぎたァ」
「や、やですよぅ! 誤魔化さないでください!」
「お前にはつい、……喋りすぎちまう」
鬼狩り様は、視線を右へ左へとやった後、ふい、と顔ごと外方を向く。
「過ぎるって、……お、鬼狩り様、」
なおも取り縋ろうとするが、子供たちの「なぁなぁ! こっち来て!!」なんて言う無邪気なお願いに、鬼狩り様は足を向けて行ってしまった。
「あー!! いっくん駄目だよ! ちゃんと"けいい"を払わないといけないんだよ!」
「"けいい"ってなんだよ!」
「別にンなモン要らねぇよ」と、鬼狩り様は順番に子供たちの頭を撫でてやり、「どうしたァ」なんて言いながら、腰を屈め、そのうち笑っていった。
「だってお母さんが言ってたよ!」
「ありがとなァ」
「えー、へへ」
「これ! 俺が作ったんだぜ!」
「上手いじゃねぇかァ……ここ、もうちょっと削ってみなァ」
「これ以上削ったら折れちまうだろ!」
竹とんぼを手にした子供の後ろから、鬼狩り様は手を添え、子供の相手をなさっている。
「折れねぇよ。ここに力ァ入れて」
「こう?」
「そうだ。上手だ」
「こうか?」
「そうしたら、こっちもなァ」
「うん」
鬼狩り様は静かにその様子を見守り、そのうち立ち上がっては数歩、後ろへと下がった。
なんとなく、腹の底へと靄がかかった。
「いっくん頑張れぇ!」
「出来た!」
「飛ばしてみなァ」
「わ!!」
「すっげぇ……」
「俺がやったんだぜ!!!」
「いっくんすげぇ!」
「すごいのは鬼狩り様だよぅ!」
「なぁ、俺のも見て!!」
「私も!!」
子供たちに慕われ、今までに私でも見たことのないほどの笑みを浮かべた鬼狩り様が、そこにはいた。
屈託のない、というのは、こういうことなのだろうか。
鬼狩り様は、この地で、皆に慕われて、今なおここに居てくださる。
とても嬉しいことだ。
出来ることならここで羽を休め、きたるべき時まで、例えば、妻子が出来るまで。
もしかすると、それよりもっと先も。
こうしてここへ居てくださると良い。
そう思うのだが、先の鬼狩り様の言葉が、頭をぐうるぐうると回る。
「帰ろう。奥様のお手伝いしなきゃ。」
私は鬼狩り様から視線もそらさずに、手だけで松葉杖を探し、のそのそと立ち上がる。
ゆっくり体を預けて一歩を踏み出した。
「わ、」
階段の下へと降りた瞬間、思った以上の衝撃が左足から走り抜け、思わず片方の杖を取り落とした。
「ほら、危ねぇ」
いつの間にか、また私の直ぐ側へとやってこられた鬼狩り様は、私の前で体を折り、また杖を私へと差し出して下さった。
なぜかは、ちっともわからない。
ただ、もやもやとする。
「ほ、放っておいて下さって結構ですので……」
「なに拗ねてんだァ」
「す、……拗ねてませんよぅ。今日は、その、……もうこのまま帰ります」
「怒ってんだろォ」
「怒ってませんよぉ!」
それは本当だった。
どちらかと言えば、恐らく困惑。だと思うのだ。
言いたいことはたくさんあるのだ。
けれど、それがどうにも言葉には出来ずに、今自分がどんな気持ちと戦っているのかも理解できずにいるのだ。
言葉に出来るのなら、してしまいたい。
「言いたい事があんなら言えェ」
「……言わないのは鬼狩り様じゃないですか」
「……ァ?」
「すぐにそうやって!! ……しゃべりすぎるって何ですか!」
鬼狩り様の眉間に皺が寄っていく。
そりゃあそうだろう。
戻ってきて、親切にしてくださっただけの鬼狩り様が、どうしてこんなにも怒られなくてはならないのか。
まるで、これでは八つ当たりではないか。
「そんなふうに言うなら、はじめっから言わないでくださいよぅ!」
「だから"喋り過ぎた"つってんだろォが」
「も、……もうッ!! もう良いですッ!!」
鬼狩り様から受け取ろうとしたけれど、鬼狩り様の手の離れていかない松葉杖を見捨て、一歩、踏み出したところで、向こうでひそひそとやっているのが聞こえてきた。
鬼狩り様も、それは同じだったらしく、私と同じように子供たちの方へと、視線をやった。
「いこ、喧嘩だよ」
「喧嘩してんのか?」
「父ちゃんと母ちゃんみたい」
なんだかその言葉にも、もやもやとしていく。
きっと、私が悪い。
きっと、幼いのだ。私は。
「け、喧嘩じゃないですッ!! 鬼狩り様は、私と喧嘩するほども腹を割ってなんてくれないですよぅ!」
「そ……う言う事を言ってんじゃねぇだろ」
私の言葉へとすぐさま反論した鬼狩り様の言葉に、余計に喉が詰まったように痛んだ。
どういう事も言ってないじゃない。
それが、全部じゃない。
そこでやっと理解した。
私は、どんな状況にあるとは言え、夫の存在があるというのにも拘らず、下らなくも子供たちにすら嫉妬していたのだ。
頭を抱えたくなる。
恥ずかしい。
愚かしいことだ。
けれど、子供たちのやり取りで、私の頭は途端に真っ白になった。
「ほら、喧嘩だよ、いこ」
「俺知ってんぞ、ちわげんか ってやつだ」
「母ちゃんがさ、鬼狩り様と名前ちゃんが二人でいたら邪魔しちゃ駄目って言ってた!」
「もっと早く言えよぉ!」
「だってぇ!」
「なんで邪魔しちゃだめなの?」
「知らね。仲良くするんだとぉ」
「喧嘩してるのにね」
「いいじゃん、行こう」
「けいいは??」
「わかんなーい!」
そんなことを言いながら、やりながら、ばたばたと走っては境内を去っていく背中を、何故か私と鬼狩り様は無言で見送っていた。
「ちわ……ッ!!! ち、ちがッ!! お、鬼狩り様ぁ!!」
思わず、すぐそばにあった鬼狩り様のお袖へと縋ると、そのまま羽織物のお袖がずるッとずり落ち、がっしりとした腕があらわになっていった。
「ぎゃッ!!」
破廉恥だッ!
なんて顔を隠したくなったが、両手が塞がっている。
挙げ句に、鬼狩り様は、その立派に筋肉のもりもりとついた腕を隠そうともしてくださらない。
寒いのに!!
私はなんとかかんとか、鬼狩り様の羽織物を引き上げようと試みたが、一向に上手くいかない。
「お、鬼狩り様ぁッ……!?」
「こっち、見んじゃねぇ」
思わず、私は呟くようにまた、鬼狩り様、と呼んだ。
真っ赤に染まった頬は、杖を持つのと反対の鬼狩り様の大きな手でも隠れはしなかったようで、指の隙間から、垂れた髪の隙間から。
これでもかと見えておられた。
真っ赤だ。
耳まで。
全部が真っ赤。
「……なんでもねぇ」
鬼狩り様は、尚もそう呟いた。
「あの、……つ、杖を……」
杖から鬼狩り様の手が、そろそろと離れていく。
「あ、あの、……ありがとうございます……」
鬼狩り様は、押し黙ったまま、うんともすんとも仰らなくなってしまった。
「お、鬼狩り様?」
「黙ってろォ」
鬼狩り様は、私よりも数歩前を歩き始めた。
「わ、私! 帰りますねぇ!」
少しだけ声を張り上げると、まだ赤さの残る頬をこちらへと向けた鬼狩り様は、引き結んでいた口を、少しだけ、開く。
「……送るっつってんだろ」
「言っ、てませんよぅ」
「…………今言ったァ」
また、ゆったりとした速度で歩き始めた鬼狩り様の後に、私は続いた。
あんまりにも、鬼狩り様がゆっくりと歩かれるものだから、そのうち私は追いついて、鬼狩り様のすぐ隣。
半歩だけ後ろで、杖の足を地につけた。
「あのぅ、……また、…………また、……前みたいに、一緒に、ご飯を食べて、下さったりとか、したり、」
「……しねぇ」
「絶対ですか?」
「……ねェ」
「絶対に?」
「しつけぇな」
「だめですか……」
鬼狩り様の顔が、僅かに私の方へと傾いては、また前へと戻る。
どうやら駄目らしい。
あんまりしつこいのもいけない。
どうせなら、もうひとつ前でやめれば良かった。
やっぱり私は愚図だなぁ、なんて思うと、また唇が、前へとぴん、と飛び出してしまった。
「駄目ですよねぇ、……すみませ、」
「……だけ」
「え?」
「一遍だけェ」
思わず。
私は目を見開いて、下唇を噛んでいた。
「……お、美味しい餡子! 拵えておきます!!」
「餡子は飯じゃねぇだろォ」
「えー? ねぇ、鬼狩り様!!」
「なんだァ」
「楽しみですねぇ!」
私がそう言ったら、鬼狩り様はいつかみたいに「ハッ」なんて少しだけ笑って、「バァカ」と私へと目の窄まった、優しい顔なんかを向けられる。
私は本当に馬鹿なのかも知れない。
鬼狩り様の、とびきりお優しい顔に見えたのだから。
これは、もしかしなくとも、弟妹だとか、少しばかり親しい友人なんぞに向ける顔であろう。きっとそうだ。
そう、自分に言い聞かせようとしているのにも拘らず。
とても、とてもとても優しいお顔なのだ。
なんだか、愛おしい人なんかに、向けるような。
そんな。
「やっぱり、私、バカですかねぇ」
「間抜けだなァ」
「そ、……そうですかねぇ」
鬼狩り様の言葉を飲み込もうとした私に、鬼狩り様は少しばかりため息を吐き、「おィ」と私を呼びつけた。
「え! ……な、なんでしょう!」
「……別に、馬鹿じゃねぇ」
足を止めた鬼狩り様は、私を見下ろし、それから、また視線をそらせていく。
「んなこと、鵜呑みにすんじゃねぇ」
「は、はぁ……」
「馬鹿でも、グズでもねェ」
「え、……と、…………はい」
まだまだ寒い、二月の夕暮れ。
家路につく、道中で。
鬼狩り様はやっぱり、優しいお顔を作られた。
どうしたって、やっぱり私は馬鹿だと思う。
「ちィと、間抜けだがなァ」
ふ、と笑ってくださった鬼狩り様が、私はどうしようもなく愛おしかった。
「じゃあなァ」
いつの間にか辿り着いてしまっていた、里中の家。
私の頭へと、ぽんッと手を乗せた鬼狩り様は、くしゃッとひとつ。
私の頭を撫で付け、去っていった。
私はじぃ、とそのお背中を眺めたまんま。
ただ、頬の熱が冷めていくのをそこで待った。
「……駄目だなぁ……」
なんて呟き、自分の頬を抓りながら。
熱が冷めるのを、ただただ待っていた。
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