小説 | ナノ

実弥が名前を連れ帰ってすぐの頃であった。

医者を連れて屋敷へと戻ると、ふらふらと体を頼りなく揺らしながら名前は厨に立っていた。

「てめぇ……寝てろって言ったろうが!!」

実弥はすぐ傍へと医者がいるにもかかわらずに吐き捨てた。
どこかすっとぼけたような表情を作った名前は、勝手台へと体を半分預けながら頭を下げる。

「おかえりなさい。まだなぁんにも出来てないんです。本当にごめんなさい。お米だって今から焚くところなんですよぅ」

「私ったら本当にグズで」などと、自分を貶しながらさも当たり前のように折れているのであろう足を引き摺り歩こうとする。
実弥は名前の体を抱え上げ、早々に医者を中へと通した。

「寝所で良いですか」
「わッ!! お、鬼狩り様ッ! 下ろしてくださ、」
「黙ってろォ。……こっちです」
「お、……すみません」

二人のやり取りを眺めた医者は「失礼」と一礼した後、靴を脱ぐ。
実弥が肩へと担ぎ上げた名前は早々に黙り、それだけで屋敷の中は一気に静けさに包まれた。


布団の上へと下ろした名前は、口でも膨らませ、拗ねでもしているのだろうと踏んでいたが、その表情を見た瞬間、実弥からも思考が消え落ちる。
何かを誤魔化すように笑っているでも無し、拗ねているでもない。
怒ってもいなければ、泣きもしない。
ただ、無表情でそこに居た。

「見させていただきます」

医者がそう言うまで、実弥はそこから動けなくなった。

「……頼みます」
「はい」

実弥がそこから立ち上がろうとすると、ほんの僅かな抵抗がやってきた。
名前であった。
名前が実弥の袖を摘まむように、その震えを隠すことも出来ない指先でつかんでいた。

「どうしたァ」
「……い、行かないで……と、言ったら、……困りますか」

名前の消え入りそうな声に、実弥は眉を下げ、医者である老爺を見やった。
しわくちゃの手を鞄へと捻じ込んだ老爺は、「ならこのまましましょうな」と名前へと語り掛け、実弥へ向け、一度だけ軽く頷く。
それを合図とし、実弥は名前へと背を向けた。

出来るだけ体を動かさないように。名前のほそっこい指先から、袖口の布を引き抜かないように。


細い息遣いと衣擦れの音が、障子を閉め切った部屋の中に響いている。
名前の震えが、ほんのわずかに摘ままれた実弥の真っ白な羽織から伝わっていた。

「では、少し触れますよ」
「……はい」
「息を吸って」
「…………ん、」
「痛いですか」
「………………大丈夫です」
「我慢はしちゃいかんよ。痛いかな」

名前を諭すような、柔い声を出す医者の言葉が、耳へと届く。

実弥はため息すら出なかった。
名前は確かに、ドジであった。
グズとは言わないまでも、鈍くさかったし、どこか間の抜けた奴だった。

へらへらとした言動はこちらの気を抜く上に、怖いもの知らずのような物言いをすることもある。
かと思えば、肝も小さく、人の顔を見ては飛び上がり逃げていくような人間であった。

痛いときには人の耳元であろうとも「痛い」と泣きわめき、「奥様、奥様」と母を求める幼子のようなところもあった。

それがどうだ。

「痛い」
そのたった一言をさえ、今は言おうとしない。
痛いに決まっている。
足は確実に折れているし、下手をせずともあばらも折れているだろう。
だのに、厨なんぞに出向き、コイツは何をしようとしていた。

実弥は思わず、名前の方へと振り返った。
そんな実弥に、医者は静かに首を横へと振り、言外に「見てやるな」と伝えてくる。
けれどそれは無理な相談であった。
もう見てしまっていたからだ。

固まったままの実弥と、困った、とでも言いた気な医者を目の前に、「ははは」と口で笑っているかのような音だけを発した。
そうして能面のような表情で「帰ります」とだけ、名前は言う。

「どこに帰るのかな」と医者は尋ねる。
「……帰れる場所に」と名前は返した。

いつの間にか、実弥の袖口から名前の指先は離れ落ちている。
名前は静かに、着物を整え始めていた。

「診せちゃくれんか」
「……い、痛くないです。大丈夫、です」
「……………………ったろぉが」
「ほら、旦那、落ち着きなさって」

医者の宥めすかす音も、実弥の耳からすり抜けていく。
名前の目が、ゆっくりと実弥の方へとやってくる。
実弥の機嫌を伺おうとでもするかのようなその目に、いつかのような無邪気さは無かった。

ぷつん、とどこかが音をたてた。

「痛ェ痛ェって、てめぇ泣き叫んでたろぉがァ!!! 今更! 今更、怖気づいてんじゃねぇぞォ!!」
「やッ!! やだッ!!」
「てめェが! 何をされてきたのか! いっそちゃんと見やがれ!!」
「やめてくだ……!!」
「落ち着きなさい!」

名前を布団の上へと引き倒し、実弥は名前の着物の前を一気にねじ開けた。
未だ名前の襟首を掴んだままの実弥の手を、しわくちゃの老爺の指先が掴み、今度は静かに、「落ち着きましょう」と言う。
手が震えていた。

震えているのは老爺の手だ、と実弥は思っていた。
名前の体だと、思っていた。

そうではなかった。

震えていたのは、実弥の方であった。

「悪ィが、……席を、外させてくれ」

呟くように吐き出した実弥に老爺は頷き、名前へと囁くように言う。

「ほら、あなたをこんなに心配してくれる人がいるんだ。診せて下さい」
「……ふ、ぅ、う、……ぅ、うぇ、」
「大丈夫。もう、誰もあなたを傷つけません」
「う、うう、」
「よく頑張りました。早く元気になって、きちんと「大丈夫」と言ってあげましょうね」
「わ、わぁぁん!!」
「ほら、もう大丈夫」

大丈夫、大丈夫。
そう囁く老爺の声を遮るように、実弥は襖を閉めた。

そうして未だ震える指先で顔を覆っていった。
『大丈夫』だ。
もうこれからは見ていてやれる。
これからは俺が守っていけばいい。
名前が傷ついたりしないように。誰も名前を傷つけたりしないように。
いつまで。
いつまでだ。
いつまでなら守ってやれる。
どこまで。
どうやって。

匡近ならどうした。玄弥だったらなんて声をかける。胡蝶カナエアイツだったら。
伊黒は、どうしただろうか。

実弥は震える唇から、息を捻りだした。

いっそ、あの男・・・の首でも獲ってくるか。
そうすれば名前は怯えずに済むのか。

歯がぎしぎしと音を立て、肌がぞわ、と泡立っていく。
殺してやりたい。と思った。

幾度も幾度も抱いてきた感覚は、然程遠い過去のものではない。
実弥の中で芽生えていたそれは確かに、明確な殺意であった。



「ごめんください」

どれくらい経った頃であったろうか。
おもてからやってきた声は、里中の夫人のものであった。
実弥が医者を呼びに行く道すがら、ここへ名前を連れ帰ったと里中の家へと尋ねていたものであるから、やってきていたのだろう。

実弥は幾度も息を吐き捨て、玄関口へと足を向けた。

_________
______
__



そのまま名前を里中の家へと送り届けたが、その三日後。
名前は医者から借りた松葉杖を傍らに、実弥の屋敷の前で腰を下ろしていた。

「おかえりなさい」
「……何やってんだァ」

実弥が呟くように言った言葉をものともせず、名前は静かに立ち上がり、どこか拗ねたような口調で言う。

「戻ってきたから、……鬼狩り様のお屋敷のお世話を、また私がさせていただく、と言うのは……いけませんか」
「怪我も治ってねぇのに何言ってやがんだ。治してから言いやがれ」
「でも、そうしたら、ずぅっと私、…………お嫌、ですか」
「駄目だ」
「……そうですか」

「また来ます」そう言って、名前は実弥へと頭を下げ、里中の家の方へと帰っていった。


その三日後であった。
また、いつかと同じように名前は風呂敷片手に門の前へと腰を下ろし、実弥を待っていたらしかった。

実弥は少しばかり遠くの弔問からの帰りだったものだから、数日、家を空けていたのだが、まさか、と息を呑んで声を上げる。

「おい」

一間ほど向こうに腰を下ろした名前は、実弥の声に体を跳ねさせ、おもむろに立ち上がりながら実弥を見た。
まだ松葉杖にも慣れないのか、それは酷く緩やかな動作である。
それでも、実弥はそこから一歩も動かなかった。動けなかった。

「あ、お、おかえりなさい!」
「……おぅ」
「これ、拵えたんですよぅ。良かったら食べて下さいね、奥様の煮つけったら美味しいんですからねぇ」
「毎日来てンのか……?」
「……お嫌、ですか」

実弥を伺い見るような視線であった。
まるで親に叱られる直前の子供か何かのように名前は実弥を見あげ、おずおず、とでも言うように話す。

「嫌だとかどうじゃねぇ。治す気あんのか? てめぇ」
「あ、ありますよぅ」
「ならとっとと帰って大人しくしてやがれぇ!」
「だ、だって……! …………そ、そうですよねぇ、これ、お渡し、したら、帰るつもりでしたので、その、これだけ」

未だ一歩も動かない実弥へと、濃紫の風呂敷を差し出しながら、名前は口角だけを持ち上げた。

笑顔、と言うにはあまりにも歪であった。口角だけを持ち上げたところで、目も笑っていなければ、直ぐに口角は元の位置へと戻っていく。
実弥はそんな姿に、また一つ、小さく舌を打つ。

「笑うつもりもねぇなら、笑ってんじゃねぇ」
「……は、はい……」
「言いたい事があんなら言えェ」

実弥の言葉を少しずつ咀嚼するように「言いたい事」だのと繰り返した名前は、実弥の屋敷を囲う竹垣の向こうへと視線をやる。
竹垣に視界を覆われているはずだ。
何も見える事はないだろう。
であるにも関わらず、名前は集落の方へ視線をやったままに、口を開いては閉じた。

実弥は待った。
素直に言ってくれる、と言う事はもはや期待などしていなかった。だが、何も言わなければ何をすればいいのかもわからない。
何も言わなければ、何をしてやれるのかも実弥にはわからなかったのだ。

「……た、………………たすけて、くだ、さい」

空気と共に吐き出された名前の声は、擦れ、今にも擦り切れてしまいそうなものであった。

「入れ」

実弥は静かに言う。
名前は震える足で一歩、実弥の傍へと歩みより、そんな名前の背を、実弥は支えた。

あまりにも頼りのない声で「どうしよう」などと零す名前は、実弥の促すままに足を進めていく。

そのうち、実弥と名前の背を招き入れた門戸は音もなく静かに閉まっていった。

次へ
戻る
目次

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -