小説 | ナノ

実弥の母は、小さな女であった。
背も小さく、手も小さい。
実弥が今にして思えば、足も口も、全てに於いて小さかったと思いだす。

実弥は己が赤ん坊の頃の事も、幼少期の事も、碌に覚えちゃいない。
実際、家族の事を何かしら思い返そうとしても、瞼の裏に現れるのは、どうやったって助けられなかった弟妹の姿であった。
血に塗れ、「人殺し」と叫ぶ、玄弥の姿であった。

だからと言って、家族を憎いと思ったことも疎んだことも無い。

ひもじい思いをしたこともあった。
辛いと思うことも何度だってあった。
けれどいつだって笑っていた。
辛さを微塵も感じさせない程に、泣き、怒り、喧嘩をし、時には「兄ちゃん」と実弥を呼んだ。その小さな手で、実弥の手をきゅっと握りしめていた。
生えかけの歯を見せて笑う弟、抜けた歯を誇らしげに見せてきた妹。
そんな弟妹が、実弥は大切だった。
何よりも守りたいものであった。
ただの一度も、家族に居なくなってほしいと思ったことなど無かった。

だからこそ思い出す。
弟妹の無念な姿を。
母の悲しい姿を。

それくらい、実弥にとって"家族"と言うものは絶対であり、心やすまる場所であるはずのものであったのだ。

__________
_____
__

未だ寝息を立てる名前は、小さく寝返りを打った。

「……おい、出てんぞォ」

投げ出された右手。布団の中に入れてやろう、と実弥はその手を取った。
名前の手首には皮膚の引き攣れがある。
そこから視線を辿らせると、袖口へとぶつかった。だから、そろそろと袖口をまくった。
実弥の指のない、包帯の巻かれた手の影から、名前の腕があらわになっていく。
だんだんと、その全容が見えてしまった。

名前を抱えたとき、首筋へと感じた違和感は、かさかさとした感触はこれだったのだ。
それを理解した瞬間に、頭の中がカッと燃えるように熱くなり、実弥の心臓は、馬鹿みたいに脈を打った。

実弥はそのまま、名前の腕を布団の中へと潜らせた。

殺しておけばよかった。

名前と納戸の扉越しに話しをしたあの時。
実弥は覚悟をしていたつもりであった。

名前の夫だと言うあの男が、「あそこです」と納戸を指さした時に、察していたというのに。
『幸せにやれよ』と言った己の言葉が、ずっと頭を駆け巡っていく。

実弥は何度も息を吐き捨てた。
息を殺し、唇を噛み締め、目を覆った手のひらを濡らした。

__________
____
__

冨岡が帰ってからというもの、立ち尽くした実弥は、子供のきゃあきゃあと叫び始める声が聞こえるまで、動くことが出来なかった。

「……名前、」

冨岡の言葉が、「泣いていた」だのと言う言葉が、頭の中を駆け巡っていた。


──
────
─────────

宇髄に予め渡されていた案内書きの通りに進むと、その家はあった。
名前の話しから、銀座にあると思っていたが、違う。名前がいつか、「あの近くですね」と笑ってはいたが、ここまで女の足だと考えると、辿り着くのに二時間近くはかかったろう。

とにかく、そこに尾上の家はあった。
鉄の格子の門の向こう。
洋館とは言わないが、純日本家屋ともほど遠い。どちらともを混ぜ合わせたような外観であった。
角ばった格子の窓の向こうにかかった赤のカァテン。
その向こう側は暗んでいて見えそうにはない。
庭に咲く花は、見覚えのないものばかりだ。
ここの男は貿易を生業としているだのと、宇髄は言っていたろうか。どうだって良い事であったが、そのような事を考えていなければ、嫌な考えばかりが実弥の脳裏を埋め尽くしてしまいそうだった。

家の主へと声をかけようとしたところであった。
家のすぐ南に位置する納戸の扉が開き、肩で息をする男の姿が現れたのは。
男は手元を何やらがちゃがちゃとやり、最後に扉へ向け、足で砂をかけた。
その姿を見据えながら、実弥は口を開いた。

「……夜分遅くに申し訳ない」
「あ、あぁ、……その詰襟は、鬼狩り様でらっしゃいますね」

この度は、云々などと講釈をたれ、恭しく頭を垂れる男に実弥は「失礼を承知で尋ねたい」と、きっぱりと告げた。

「はぁ、一体どのような」
「ここに、嫁いできた女に会いたい」
「そうでしたか。申し訳ございませんが、妻とはどういった関係で?」

飄々と言う男に、実弥は舌を打ちそうになる。じれったい。

「里中の家には先まで随分と世話になった。その時の礼がしたい」
「さようでございますか」

御足労がどうの、疲れたでしょうに、この度は大儀で、だのと、また口を回す男に、実弥はまた「申し訳ないが」と言葉を切らせた。

「会わせてもらいたい」
「……妻は生憎、今は出ております」
「いつ戻る」
「さぁ、……明日か、その又明日か」

相手が冨岡であれば、実弥は恐らく、とうに胸倉の一つでも掴み上げ、これでもかと振り回していたに違いない。
実弥は苛立ちに頬がヒクつくのをすら感じていた。

「ならここで待たせてもらう」
「…………でしたらどうぞ、中で」
「結構だ」

頑として引かない実弥の態度にも、変わらず人を小馬鹿にしたような軽薄な笑みを浮かべるばかりであった、ひょろりと縦に長い男は、ふ、と視線を逸らした実弥の視線の先を辿った。
そうして初めて、その笑みを消した。

僅かな物音であった。
鬼殺に於いて五感を駆使し、ひた走ってきた人間でなければ、実弥でなければ聞き逃してしまう程のものであった。が、確かに実弥は聞いた。
硬いものがぶつかる音に、それにすらかき消されてしまいそうなほどの、小さな声。
うめき声だ。

「…………おィ」

実弥からサッと視線を逸らした男は、口早に「アイツ」と呟き、ため息を吐き捨てた。
男は「こうしましょう」だのと、前髪をかきあげた額へ汗を浮かべながら言う。
男は始めて、真面目な顔を作っていた。

「私はこれから起こる事に、何一つとして異議を申し立てしませんし、何事にも応じます。あれ・・を好きにしてもらっても構わない。勿論、連れ帰ろうとも、何か・・しようとも、私は何も言いません。」
「……てめぇ」
「だから、もう、二度とここに踏み入らないで頂きたい」
「それは外でお前を見かけたら殺しても構わねぇって、ことだなァ」
「……言い換えます、私たち家族・・には、一切手を出さないで頂きたい。それ以外は、すべて見なかった、聞かなかった、起こらなかったと思う事にしましょう」

早口で言い切った男はそのひょろ長い体を折り、実弥へと頭の頂点を見せたきり動かない。
いや。
恐怖からだろうか。小さく震えている。

「二度とその面ァ見せるんじゃねぇぞ」
「……」
「俺ァ、自分でも知らなかったが」

そこまで言い、実弥は男の顔を覗き込むように見やる。
男の目は、ただただ地を映している。

「どうにもこの女の事になると冷静には居られねぇらしい」
「…………はい」

蚊の鳴くような音であった。

「そこだなァ?」
「……あそこ、です……」

男のその返事を聞き、実弥は初めて物音のあった方へと足を向けた。

扉の取っ手には、これでもかと金属製の鎖が巻き付けられている。
こんなに巻かずとも、きっと出てくることなど出来なかったであろう。
そんな風な頭の中身を掻き消し、実弥はどこか願うような気持ちで、小さく戸を叩いた。
『どうかここにはいないでくれ』
『人違いであってくれ』
『せめて、大きな怪我なんぞはしていないでくれ』
『どうか、せめて、』
何度も何度も、頭の中で願うのに、その願いはかき消えた。

「……居るのかァ」
「…………………………お、にがり……さま……」

実弥の声に、返ってきた音は、あまりにも力なく、空気の擦れるような音であった。
唇から血の味がした。
じんとした痛みがやってくるほどに握りしめた手が、小さく震えていた。
実弥は「くそ、」と、誰にも聞こえない程の音で吐き捨てた。

________
_____
__

「んぅ、………ぁ、………ご、ごめ、なさ!!」

唸り、誰かへと向けた謝罪なんぞを口にしながら大きく目を見開いた名前は、肩で息をし、ぐり、と首を回す。
夢の中でまで魘されていたらしかった。

「……ぁ、…………ぉ、鬼、がり……さま、」
「ほら、水だァ」

実弥は傍に置いておいた吸い飲みを差し出す。
体を起こそうとする名前に、首を振り、「そのままで良い」と言ったのは恐らく骨も折れているのであろう、と言う事にも、実弥は気が付いていたからだ。

「……もう少ししたら医者を呼んでくる」
「すみません」
「その時に、里中の家に、一報入れに行く。要るものは」

名前の姿も見ずに、淡々と告げながら実弥は脚絆ベルトを脚へと巻き付けていく。
そろそろと伸びてくる、名前の腕には気がついてもいた。だが、それも素直に喜ぶことは出来なかった。

この集落を出る時に、この女は笑って出て行ったはずであったのだ。
綺麗な素肌を見せつけるように、しりっぱしょりした裾から脚をあらわにしていたこともあった。
たすき掛けされた袖口から覗く、健康的な肌が包む細い腕は、手際よく動き、実弥を喜ばそうとなにかと食事の用意をしていたように思う。
怪我をした実弥を叱るのは、名前の役目の一つとなっていたはずであったのだ。

実弥はその、火傷跡やら打撲跡やらですっかりと様変わりしてしまった腕を、まっすぐに見る事は出来なかった。
怒りが。
どうにも、怒りが頭の中で暴れまわってしまう。
名前の、見知ったときよりも、見送ったあの時よりも細っこい腕に。傷が這う腕に。実弥は母を思い出しそうになる。
否。母と重ねそうになっている。

守られるばかりだった。
俺が守る、と息巻いても、母はその小さな体で必死に、から実弥を守っていた。
実弥は、母を守り切ることなど、出来なかった。

「おに、がりさま……」

おにがりさま、と、また名前の声が響いている。
実弥の布団へと横たえられていた体を、ずるずると引き摺り、名前はとうとう、実弥の背中を包み込んだ。

「泣かないで、……鬼狩り様、……泣いちゃいやですよぅ、」
「…………泣いちゃいねぇ」
「鬼狩り様、……ごめ、……ごめんなさい」

耳元で、何度も「ごめんなさい」と紡ぐ名前に、なんと言えばいいのか、実弥はもうわからなかった。
ただ、名前は生きていた。
それだけが、どこかで救いのようにも感じていた。

実弥の腹回りへとまわった名前の腕は、やはり頼りなく、小さなものであった。

次へ
戻る
目次

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -