小説 | ナノ

いつの間にか背中側から聞こえている心地の良さ気なすぅすぅと言う小さな寝息に、実弥はほ、と一つ息を吐き落とした。
この腕の中で寝こける女の、名前の事が今日の日まで全く気にならなかったのか、と問われれば答えは否、だ。

ただ自分が気にすることではない、と思っていたし、そんな事よりも優先すべき事があった。
それに何よりも、名前は温かい飯を食いながら、家族と笑いあっているのだと、どこかで信じていたのかもしれない。

だから実弥は、尾上の家の納戸を開けた時。一瞬で息を止めていた。
着物は土埃にまみれ、履物を履いていない足先は真っ赤に染まっている。
体を起こすことも辛かったのか、地へと横たえられた身体に、触れる事さえ「出来ない」と思った。
袖口から覗く腕は腫れている。
足も、もしかすると折れているのかも知れない。

痛々しいまでに、赤く腫れた頬。

いっそ、吐き気がした。


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昼下がりの事であった。
表から戸を叩く音が響いていた。
実弥が外へと出向くより早く、訪ねてきたぼさぼさの黒髪を振り乱すように乱雑にかぶりを振った男は、玄関を勝手に開け、怒鳴りつけるように叫んだ。

「不死川!!」

冨岡であった。

「ここに居るゥ」
「…………行け」

唐突に訳の分からない事を言い出した冨岡に、またか、と実弥はため息を吐き捨てた。

「突然訪ねてきたと思えばそれかァ、てめぇ大概にしろよォ」
「……行けと言っている!!」
「だから、どこにだよォ!! 人ン家に唐突に押しかけて来といて一体何のつもりだァ! アァ?! 人の事おちょくるのも大概にしろよォ!!」

冨岡の肩を押し、外へと押し出そうとする実弥の腕を掴み上げ、冨岡はこれでもか、と顔を歪めていた。 
一体なんだってんだ。
舌打ちと共に出かけたその言葉を、実弥は思わず飲み込んだ。
冨岡が、あまりにも必死に見えていたからだ。何かがあった。それだけは、口数の少なすぎるこの男からも読み解くことが出来た。それほどに、必死に見えたのだ。

「不死川、あの藤の家紋の家・・・・・・・・に、どうしてお前の・・・細君が居る!」
「…………俺のじゃねぇ」

誰の事を言っているのかは、直ぐにわかってしまった。
別段、それが不思議だとは思わなかったし、過去に否定してるだろうが、と言いたかったくらいだ。それくらい。
ただ、絞り出すように言った、「俺のじゃねぇ」と言う言葉だけが、胸にずんと重石を乗せたようなものとなっていた。
今もあの日名前を祝うために言った「幸せにやれよ」という言葉を撤回するつもりは無い。
それで良いと思うし、そうであるべきだと思う。

これまでもこれからも、いつ死ぬかもわからない人間に、家族の一人も守る事すらできなかった人間に、名前を守っていくことが出来るとも思わない。泣かせないと誓う事も、傍にいると約束をすることも出来ない。
だから何度でも言う。何度だって言える。
実弥は静かに告げた。

「あいつは縁ある家でやっていきゃあ良い。それだけならもう出ていけぇ」
「違う」

冨岡は、未だ荒い息を堪えるかのように深く息を吐き、実弥に視線も合わせぬままに、静かに言う。

「泣いている」
「…………あ?」
「不死川、……あの人はきっと、助けを求めている」
「ふざけんじゃねぇ」
「不死川、」
「お前、俺に怨みでもあんのか? アァ? いい加減にしねぇと……」

実弥の言葉に、冨岡は漸く視線を持ち上げ、ただただ言った。

「頬が、腫れていた」
「…………は?」
「恐らく、暴力を振るわれている」
「おい、待てェ」
「ここ数日、と言うわけでは無いだろう。隠してはいたが、恐らく……消えない跡になっているものもある」
「…………冗談は、」
「本当だ、不死川」

実弥の腕を漸く放し、冨岡は実弥に背を向け、一歩、外へと足を踏み出した。
まさかこのまま、また名前の元へと行くとは思わない。
実弥は開いたままの口を塞ぐことをすら忘れていた。

幸せにやっている、と思っていた。
藤の家紋を掲げているほどの家だ。
ほどほどに金の回りも不便無くやっているだろう。
銀座の近くだと言っていた。あの間の抜けた顔で、たまの褒美にでもクリィムソォダを頬張って笑っているのだろう。
少しばかりドジなところもあるから、時折叱られることもあるだろうが、器量も気立ても決して悪くはない。働き者でもあると思う。情に厚い人間だ。
それなりにどんな人間からも可愛がられるだろう。
上手くやっていくだろう。
幸せに、やっていっているだろうよ。

どこかでそう思っていた。
いや、言い聞かせていた。

実弥はそう思う事で考えないようにしていたのかもしれない。
本当は、あったのだ。そう言った予兆も。

いつだったであろうか、里中の夫人が実弥へと「あの子からの便りはありましたか」などと聞いてきたのは。
いつだったであろうか、名前が抜けてから出入りするようになったサチという女が「名前ちゃんったら、最近便りをくれないんですよ」などと言っていたのは。

何故宇髄は実弥へと「ここには"不死川が"行ってくれ」などと言っていたのか。

答えが出てしまいそうであった。
それは実弥にとって、どうにも都合が悪いものであった。

「だったらなんで、そのままにしてきた」

実弥の言葉に振り返った冨岡は、さも当然のことのように言う。

「俺はその後の面倒を見れない」
「俺なら出来るってかァ?」
「……わからない」

「が」と続け、冨岡は静かな目を実弥へと向けた。

「お前は半端な事をしないと思っている」
「……」

去って行った冨岡の姿に、また、実弥の口からは「ふざけんじゃねぇ」と言葉が漏れていった。


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