銀座は、まるで一つの島のようであった。
幸せの、ぎゅうと詰まったユゥトピア。
馬やら車やらの闊歩する大きな橋。
人がわんさと居るそこを渡らなければ辿り着けず、私は毎度、この橋へと足をかけるたびにどきどきと胸が高鳴った。
一歩、足を踏み出すごとに、静かに体が色付いていく。
そんな心地に、私はいつも駆け出したくなる。
自然と胸がはやり、目が窄まった。
「あ!! いたいた!」
高らかな声が、喧騒の中に響いていた。
私へと向け、手を大きく振るその姿は、「名前ちゃぁあん!!」とわたしの名前を呼びかけながら走ってやってくる。
「須磨ちゃん!」
「ごめんなさーい!」
私も、その姿を確認するなり、待ち合いの長椅子から腰を持ち上げた。
はじめて出会った日から、まるで示し合わせたように何度もそこで会ってしまうのだから、私はそのうち須磨ちゃんの「また、ここで会いましょうね!」と笑う声に、とうとう頷くことにした。
それが、もうついこの間のようだ。
須磨ちゃんは、それは嬉しそうに笑い、何度も私の手をぎゅうぎゅうと握りしめてくれていた。
須磨ちゃん、と呼ぶようになったのも、その頃からであったと思う。
変わらず私のもとへと駆けてきてくれる須磨ちゃんへ、私は手巾を渡した。
須磨ちゃんはそれを「ありがとう」と受け取り、首筋を拭い、そのうち口元をそっ、と隠して笑う。
「また走って来てしまいましたぁ」
「えー、へへへ」
「待ちましたかぁ?」
「ううん、私が早かっただけですよぅ」
そんなやり取りを交わしながら、うふうふと資生堂のお店を二人で眺める。
これが、ひと月に一、二度。
後から、須磨ちゃんはわざわざここへやってきては、私とおしゃべりをしに来てくれているのだろうな。と、わかった。
初めのうちは、良く合うな。
だとか、
偶然が過ぎる。とか。
そんな間の抜けたことを私は考えていたのだから、夫から常々「グズ」と言われるのも頷けてしまった。
須磨ちゃんは、そんな私とも仲良くしてくれるし気にもかけてくれる。
楽しいお話しもたくさんした。
時を忘れ、めくるめく銀座の街をぶらりして、色違いのリボンを買った。
揃いのリボンをつけて来よう、と約束をした次が、多分初めて"待ち合わせ"をした日になったと思う。
ここでは、鬼狩りのお話しと夫の話しは全くしないこと。それが暗黙の了解であり、不可侵の領分であった。
ついに、それを破ったのは、須磨ちゃんであった。
「実は」と言いにくそうに私の様子を伺いながら、須磨ちゃんの口もとで紡がれていく言葉に、私は息をのんだ。
そうして、いつかのすやすやと眠っておられた鬼狩り様のお耳へと、流し込んだ呪詛のような言葉を、私は思い出していた。
『腕でも、失くしてきてください』
あの日、言ったそれは、紛れもない私の本心だ。
鬼狩り様が、怖かった。
鬼狩り様を失うことが。
鬼狩り様が恐れを知らずに立ち上がる事が。
私は恐ろしく、たまらなかった。
この方はいつか、私の知らないところで人知れずひっそりと息を止めるのではないだろうか。
いつか、誰もいない真っ暗な夜の闇に紛れ、その命の灯をかき消してしまうのではないだろうか。
そして、鬼狩り様はそれを恐れない。
だから、恐ろしかった。
今よりもっと、大切になってしまうということも。
いつか私は鬼狩り様へと告げた。
『鬼狩り様が明日も、また立てますように』と。『たくさん鬼を退治できますように』だのと。
私はもう、そんな事をちっとも思っていない。
あの日私の中に蠢いた醜い感情は、あんまりにも醜悪で卑しく浅ましいものだ。
ただただ私のすぐ傍へ、縛り付けてでも置き留めてしまいたかった。
私にもしも、その力があれば。
そう、考えなかったことなど、一度として無かった。
すっかりと夏の暑さも過ぎ去り、秋の香りも走って行き、冬の冷たさも溶けている。
新しく春が舞い散り、須磨ちゃんと出会ってから、丁度一年を迎える頃であったろうか。
私を覗き込んだ須磨ちゃんの髪が、肩口でさらさらと泳いでいた。
「だから、それを終えたらまたここで待ち合わせしても、いいですか?」
いつもなら笑って告げる言葉に、須磨ちゃんは笑みを乗せなかった。
それだけで、如何に重要な事であるのかがうかがえてしまった。
私の心に、また、暗い夜が訪れる。
もしかすると、須磨ちゃんはもうこれきりかもしれない。
もしかすると、須磨ちゃんがいなくなってしまうのかもしれない。
もしかすると、もう二度と、須磨ちゃんの声が聞こえなくなってしまうのかもしれない。
こわい。
『腕でも、失くしてしまえばいいのに』
そうしたら、みんなみんな、ここに居てくれるんじゃ、ないだろうか。
そうすれば、誰も悲しい顔をしないのかもしれない。
うそだ。
そんな事はない。
鬼狩り様は、きっと自分を『下らねぇ』と責めるのではないだろうか。
須磨ちゃんは『天元様の役に立てなくなった』と嘆くのではないだろうか。
本当は分かっている。
これは私の自分勝手なわがままだ。
行ってほしくない。死んでほしくない。出来る事なのであれば、傍にいてほしい。笑っていてほしい。
それだけなのに。
「あ!! ……良くなってきましたねー!」
「いっときはどうなることかと思ったけど、ちゃんと前も見えてるから、大丈夫!!」
「……本当、最低ですよ!! やっぱり天元様に相談しましょうよぉ! 名前ちゃんも、天元様のお嫁に来れば良いんです!!」
私の前髪を避けるように、意外と、少しだけ硬い指先でおでこを撫ぜる須磨ちゃんは、ぷ! と口元を膨らませていた。
須磨ちゃんは良く、「天元様のお嫁」と言うが、嘘か真か。
あの、初めて出会った頃のお連れの女性陣は、皆宇髄様の奥様なのだとか。
凄いこともあるものですね、と開いた口が暫く塞がらなかったのも懐かしい。
胸元の大きく開いた着物が眩い須磨ちゃんは、腰元へと手を当て、ふんぞり返る。
「夫も、悪いところばかりじゃ無いんですよぅ?」
「あー!! 駄目ですよ! そうやって絆されちゃあ! また腕に怪我も増えてるのに!!
名前ちゃんがお嫁に来てくれたら、きっと天元様も喜ぶし、私も嬉しいし、安心できるのになぁ。そうしたら、不死川さんにだって、好きな時にいつだって、きっと会えるのに!」
そうして須磨ちゃんはぷりぷりと怒っている素振りを私へと見せていた。
「須磨ちゃん、お友達になってくれて、本当にありがとう! 私、とってもとっても、幸せ!!」
「え! なんですかぁ!? 突然!!」
「とっても嬉しかったの! ありがとう」
須磨ちゃんの手を、私はぎゅうと握りしめた。
きっと、今日でもう最後にしよう。
私はその日、そう思った。
「須磨ちゃん、今まで、本当にありがとう」
鬼狩り様と、関わるような家に入っていたとして。
私は鬼狩り様たちとは、決して交わることはない。
深くかかわってはいけないのだ。きっと。
例えば、私には家族が居て。
鬼狩り様には部下の方たちがいて。
須磨ちゃんには守らなくてはならない人がいる。
例えば私は、そこで上手く回らなければならなくて。
例えば鬼狩り様たちは、一人朽ちても二人が朽ちても、何十とむくろが出来ようとも、立っておらねば、戦わなければならなくて。
死地にも迷わず飛び込まねばならなくて。
はじめから。
違う世界のひとたちなのだ。
飲み干せば無くなってしまうのと同じに、目が覚めれば消えるのだ。
私は、目を覚まさなければ。
夢は、終えるからこそ夢なのだ。
もう、目を覚まさなければ。
でなければ、私はきっとみっともなく泣いて縋ってしまう。
「行かないで」と。「死なないで」「ここに居て」「一人にしないで」「傍に居て」「ここで、笑っていて」だなんて。
きっと私は縋ってしまう。
だから、今日私はごくっ、と。
クリィムソォダを飲み干した。
しゅわしゅわとした泡が氷にまとわりつき、アイスクリンを溶かしていく。
真っ赤なサクランボ。
冷たい氷。
汗をかいたグラス。
光に透ける、青や緑の深い色のソォダ。
それから、須磨ちゃん。
鬼狩り様。
金平糖。
鬼狩り様とした食事。
真っ白な羽織物。
銀座の表通り。
揃いのリボン。
キャラメル。
鬼狩り様。
不死川様。
須磨ちゃん。
私の夢のまち。
ぜんぶぜんぶを、
飲み干した。
それからどれほどか。
年が明け、新たな一年に世間がお祝い一色に染まった日々も終わりを迎え、尾上の立派な門松もその役目を終えようとしていた。
てちてち、と、どこからともなく草履が土を叩く音がしている。
表を箒で掃きながら、私は顔を上げた。
未だひんやりとした空気が、あたりを包んでいる。
尾上の家へは、表の通りから、一本奥の道へと入り、暫く一本道を歩くことになる。
その通りの終着点の目印かのように生える大木。それを挟み、その真っ黒な詰襟に身を包むその方は動きを止め、私へと深々と頭を下げられた。
「わ!! え、ど、……どう、なさッ!!」
「……報告が遅れたこと、誠に申し訳ない」
「え!! ……まッ、え?! ど、どうか頭をお上げください!! ……お、鬼狩り様!」
そうして、長い髪を洗いざらしにしたその黒の詰襟を纏った、丁年に見える男は頭を下げたままに言葉を続けていった。
「この度、鬼の首魁である鬼舞辻無惨を討ちました事を、報告にあがりました」
その言葉に、私は箒を取り落としていた。
「……鬼狩りさま、」
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