小説 | ナノ

夫は、何か苛立つことがあると、六畳間に敷いた二組の隙間の空いた布団をくっつけ、私へと視線を向ける。
とても「いや」とは言えないほどの圧を感じるほどに、鋭く尖ったものであったから、恐ろしい、と思う。

はじめのうちは、私も素直に頷いては従った。
けれど、そのあくる日には私の体中に痣が付く。だからとても恐ろしくなった。

夫には言えはしないし、きっと墓に持っていくことではあるのだが、私は別に生娘ではない。
鬼狩り様に初めてを捧げてしまった体だ。
だから、夫に多少手ひどく扱われようと、私は決して夫を悪く思わないようにしなければ。
私は夫を騙しているようなものなのだから、と。
そう思っていた。
それが、私なりの罪滅ぼしのつもりであったのかもしれない。

けれど夫は、私のその決意を軽々と一足飛びに超えていった。
「痛い」と泣いても「やめて」とせがんでも決して夫はやめてはくれない。
寧ろ、その私よりも節の大きな角ばった指が、あちらこちらを抓り始める。
「やめて」と喚けど、そのうち人質か何かのつもりなのかもしれない。夫の膝が私の肘の上へと乗りあげ、みしみしと音を立てた。
そうしてから初めて、私は黙りこくってただただ息を殺して何度も頷き、夫の言葉を飲み下す準備をする。

「ぐず」「役立たず」「不細工」「石女」「産まず女」
凡そ思いつく限りの罵詈雑言はその度に吐き捨てられていく。
そうして告げられるのだ。
「セツが欲しかったのだ、俺は」
夫の仕返しのような言葉が。



翌朝には軋む体を見ぬふりをしては、出来うる限りの笑顔を顔に張り付け、私は夫に「おはよう」を告げる。
「行ってらっしゃいませ」と仕事へと向かう夫を見送る。
それが私の妻としての、ここでの役割であった。

***

「お母様、……私、買い出しに……」
「その恰好では行かないで頂戴ね」
「……ぇ、えと、どこがおかしいですか?」
「そんな包帯まみれのみすぼらしい恰好では出歩かないで頂戴」
「はい、お母様」

私は出来る限り口角を上げてお義母様の言葉に頷いた。

夫は、恐ろしい人であるが、悪い人ではない。
夫は、尾上の家の次男であったらしいが、幼い頃にお兄様を亡くしておられるらしいのだ。きっと寂しいのだろう。
今は亡き父親に言われた「お前が死ねば良かった」という言葉を「呪いだ」と仰っては、同じ言葉を私に吐き捨てるが、そう言わずにはおられぬくらい、お辛いのだろう。
私ばかりが辛いのではないのだ。
なら、仕方がない。
きっと夫は、寂しいのだ。
悲しい仲間が欲しいのだ。


「電報でーす」

表から配達の人間の声が響き、そのうちお義母様の声が響いた。
それから夕餉の支度をする私に、お義母様は「今日、息子は帰りません」と仰られた。

「そうですか、……寂しいですね」

私はまた、出来うる限りに口角を上げ、お玉に掬った味噌を溶いた。


文卓の上へと広げた紙は、もう十を超えていたと思う。
夕餉も終え、部屋へと戻る事を許された私は、いの一番に万年筆を取り出し、文卓の上へと紙を敷き詰められるだけ敷き詰めた。
ぶるぶると震える右手を、なんとか抑え、行燈の頼りのないゆらゆらと揺れる明かりの中で、文字を連ねていく。
始めのうちは、良かった。
『大寒の折、寒さが身に入りますがお風邪などは召されておりませんでしょうか』
『鬼狩り様の噂はこちらにも時折やって参りますが、彼はいかがお過ごしでしょうか』
『私は元気にやっております。ここの人は、親切で』
そうしてペンを滑らしていくと、ぼろぼろと雫が落ち、紙を濡らす。
そうしたら、そのうち腕が勝手に動き始めるのだ。
『奥様、名前は辛うございます』『上手くやってなど、いけそうにありません』『奥様助けて』『体中が痛いのです』『奥様に、旦那様に、鬼狩り様に会いとうございます』『不出来な名前をお許しください』と。
それから狂ったように何十枚と紙に書き連ね、私はまた、明くる朝には竈へと放り込んだそれに、火をくべる。

それから、口元へと笑みを張り付けて起きてこられたお義母様へと声をかけるのだ。

「おはようございます」

__________
_____
__

兎の巾着を懐へと仕舞い込み、また坂を下った。
道なりに歩き、そのうち見える細道を通り過ぎると、大通りの一本手前の筋へと出る。
そこから表の道へと抜けるのは危ないものだから、少しばかり迂回する。

件のクリィムソォダは、少しばかり高いものだから、そうそうしょっちゅうは口に出来ない。
けれどこうして、店に着くまでの道のりを歩くことならいつだってできるから、私の背中には羽根が生えたかのように足が軽くなるのだ。

資生堂の間向かい。
丁度、道路を挟んだ乗合馬車の待合席へと腰を下ろし、店の入り口をただ只管に眺めた。
時折、目の前をチンチン電車が、名前の通り、チンチンと金を鳴らし、走っていく。
女学生の黄色の声がわッと色めき立ち、お店の前の通りに人が増えていく。
その様を、何時間と眺めたかった。

一月に一度の楽しみと決めていたはずのクリィムソォダは、一月も待つことなんてできないかもしれない。
張り付けていた口元の笑みが、更に上に上にと上がってしまうのを、私は口元を隠すことで堪えようとしていた。

丁度日差しが身体を優しく暖めてくれる、真昼時を過ぎる頃。

「よぉ」

ずし、とした重みが、待合のベンチへと加わった、と思う。
かけられた声が、私に宛ててのものだとは思わなかったのだが、野次馬根性から、そろ、とそちらに視線を向ける。
すると、そこには私の顔を覗き込む銀髪の美丈夫が居た。

「わッ!!」
「は! 派手に跳びやがる!」
「もうー! 天元様ぁ! いじめちゃだめですよう!」
「ごめんなさいね」

見覚えがあるのか、と問われれば否、と答える。
きっと、こんなにも美しい方たちには一度会えば忘れない、と思うのだ。
「天元様」と呼ばれた美丈夫の腕に張り付き、頬を膨らますのは、私とそう、歳も変わらなさそうな真っ黒の髪を洗いざらした可憐な女性だ。
そうしてそのすぐ傍らに立つのは、気の強そうな女性。それと、私へと謝罪を口にした嫋やかな女性であった。

こんなにも「派手」な方たちなら、私は絶対に忘れない、と断言できる。

「あ、あのぅ、……申し訳ございませんが、……きっと人違い……」
「ねぇな!! お前、不死川のとこに居た女中だろ?」

私のすぐ隣で私の顔を除いていた男は、ふんぞり返りながら、そう宣った。

「え、……ぁ……わッ!! 私っ! とんだご無礼を!! 鬼狩り様方でらっしゃいますかぁ!?」
「ほら、みやがれ! 生憎こちとら一遍見た顔は忘れねぇんだよ」
「ま! 凄い!!」

鬼狩り様であったらしいその男性は、思い起こしてみれば、会ったことがある。と言われればそうかもしれない。
恐らく、あの日だ。
鬼狩り様が、猫と化してしまった、件の。あの時である。

その銀髪に長着の鬼狩り様は、どうやら今日はお休みをしておられるらしい。
そこで、この美しい女性方へと、流行りの「クリィムソォダ」を馳走するためにやってきたのだとか。
目の周りの紅の化粧が無いと、すっかり様変わりして見える鬼狩り様は、そこまで話されてから「一緒に来るか?」と私へ仰られた。

「い、いいえッ! そんな! 恐れ多いです! それに私ッ、……その、今日は持ち合わせが、」
「お前、俺様が地味に女に出させるような甲斐性無しと思ってんのかぁ?」
「そ……!! だって、そ、……だって……世話になるわけにいきません……」
「あ? 地味な奴だな、須磨がお前を誘えつってんだから、素直に来いってんだ!」

この銀髪の鬼狩り様の言葉で、須磨・・、と言うのが鬼狩り様の腕に絡まる可憐な女性を指している事がわかる。
曖昧に笑う私の前に伸ばされた彼女の手に、私が身構えてしまったのを、鬼狩り様は察知してしまったらしく、す、と目を細められた。

「来いよ」
「……あ、あのぅ、……」

未だもじもじとしてしまう私を見た"須磨"様は、私の腕を取り、今度は私の腕に絡みつきながら引っ張り上げた。
柔らかな力であった。

「ね! いきましょうよぉ! 私、あなたのお話し聞きたいんです! 天元様が、あの・・風柱様の事を懐柔した女がいるー! って言うんだから、きっと話しを聞くんです! って私ずっと思ってたんですよぅ!」
「え、えぇ? 懐柔……です?? あぁぁ! で、でもッ!
……そ、それでは、……自分の分は、払いますからね?」

私の強がりにも取れる言葉に、"須磨様"はうんうんと頷きながら、なお私の腕をぐいと引いた。

「初めてですかぁ?」
「へ?」
「クリィムソォダ!!」
「いいえ! ……あの、鬼狩り様に、……一度連れてきていただいた事が……」
「不死川さんですね! あの方、おっかなくないんですかぁ?」

少し間延びした愛らしい話し方は、可憐な彼女によく似合っていると思う。
ぐいぐいと私の腕を引き、とうとう須磨様と共に、私は店の中へと足を踏み入れた。

「おっかなかったです」
「ですよねぇ!」
「ふふ! 怖かったです!」

そうこうしていると、順番が来た私達の前へとやってきたクリィムソォダに、"須磨様"はぴょんと跳ねた。

「わぁっ! 天元様ぁ! 素敵ーっ!!」
「黙りな!」
「そうよ、静かにしましょうね」

後の二人に窘められながら、"須磨様"はぷ、と唇を突き出していく。

「だって、綺麗なんですもん!」
「ふふ! 綺麗ですよねぇ! こうして混ぜると、しゅわしゅわっとして、上のアイスクリンが少し混ざるの!
ソォダだけでもとっても美味しいんですよぉ! 喉にぱちぱちッときて、……」
「えーっ! 楽しそうですねぇ!」

二人でストロォへと口をつける。
ちぅッと、音がして、ストロォを登り、口の中へとやってくるソォダがきゅッと喉をしめあげた。

「んーッ!! 天元様ッ!! これ! 弾けてますよぉッ!!」
「おーおー」
「もう! 須磨!!」

皆に窘められてしまった"須磨様"は、私の方を見てから「ね?」と小首を傾げる。
私は小さく手で囲いを作り、"須磨様"へ「美味しいですね!」と囁いた。
"須磨様"は何度もこくこくと頷いて、私と同じように耳元で囁く。

「とぉっても! 喉が!!」
「んふふ!」

肩をひそめて笑いあったこの瞬間には、きっと全部全部を忘れていたと思う。

「不死川は最近見ねぇが、元気かぁ?」

須磨様の頭よりも一つも二つも上の向こうから、『天元様』と呼ばれた鬼狩り様は私へとそう問うた。

「……私、尾上名前と申します。……その、ご挨拶遅れまして、申し訳ございません。
それで、あのぅ、しなず……鬼狩り様のお屋敷へは、もう数ヶ月、私は参って居らずでして」
「へぇ」

天元様と呼ばれた鬼狩り様は、きょとんと目を丸くなさって、あまり興味の無さそうな相槌を寄越された。

「あれっ? なら、不死川様は今お一人なんですか?」

鬼狩り様のすぐ隣。鬼狩り様よりも頭いくつか低い位置の須磨様の首も、鬼狩り様と同じ角度へと、こて、と傾いていく。

私は目の前のクリィムソォダの泡を眺め、できる限りに頬の肉を引き上げていった。

「きっと、あの集落の皆がそうはさせませんよ! ふふ」
「良いところなんですねぇ!」
「そうなんです!! 良い人達ばかりです!
だから鬼狩り様も、きっと心休まる時があると思います」

ぜひ安心なさってくださいね!
続け様に言った私に、須磨様はぽつ、と呟くように仰られる。
その言葉に、私は少しだけ、胸がつきつきと痛んだのを、どこか遠くで理解する。

「なら、名前さんは何故その故郷から出られたんですぅ?」

何故。
私は笑顔を貼り付けたままの表情を、どう動かすのが正解なのか、すっかりわからなくなってしまった。

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