![](//static.nanos.jp/upload/s/sukusukusadate/mtr/0/0/20220505125452.jpg)
耳鳴りが酷かった。
こめかみ近くにぶつかってしまったから、かもしれない。
体中がぎしぎしと、まるで錆びたブリキのような音を立てそうなほどであった。
もしかすると、骨が痛んでしまっているのかもしれない。
けれど、そんな事は何でもなかった。
目を閉じれば、いつだって私は会いたい人に会えたのだ。
奥様であったりだとか、旦那様。おじさんであったり、だとか。ヤス子さんに、セツさん。それから、クニ子おばあさんに、子供たち。
それから、鬼狩り様。
鋭く響く男の怒声から身を守りながら、揺れる視界にきつく目を閉じ、私は静かに思いを馳せた。
***
私があの日の事を覚えているのか、問うと、鬼狩り様は「何も覚えてねェ」と、たっぷりと間をあけて私から顔を逸らしてから、そう答えたように思う。
暫くして、また気まずそうに「何か、あったか」と私を伺い見るように言う鬼狩り様は、なんだか悪戯のばれてしまった童のようなしぐさに見えた。
その姿を見ているとなんだか忍びないのと、私の胸の中で仕舞っておきたい、という気持ちとが山となり、とうとう口からは「なんでもないです」というようなしょうの無い言葉を吐いたと思う。
きっと、あったことを話せば、鬼狩り様は謝罪をまずはなさるのだろう、と思う。
それはきっと恐らく至極当然の事であるし、本来そんな事では済むものではないのかもしれない。
けれど私は鬼狩り様の謝罪に、あの思い出を汚されたくは無かったのだ。
本当は、きっとそんな浅ましい思考を以てして黙する事を選んだのだろう。
今ならそう思う。
そのまま黙り込んだ鬼狩り様は、暫く私から顔を逸らしたままに「今日、何かあったのかァ」とどこか間延びした声で仰った。
本当であれば、その時にでも、「縁談のお話しがありがたいことにきておりまして」なんて言ってしまった方が良かったのではないだろうか。
そう思わずにはいられなかったが、どうしてもコチョウ様やカクシ様の言葉が耳に張り付き、私に「嘘つき」と罵ってくる。
それを思うと、到底話すことなどできそうにも無かった。
お二方とも、きっとそんな方ではないだろう。きっと「おめでとう」と言って下さるに違いない。
だから本当は、私が私に、そう思っていたのに過ぎないのだろう。
「どうしてそう思われたのですか」なんて、下らない質問をしてしまったのは、本当は鬼狩り様に"何かあるのだろうな"と気が付いてほしかったのだろうか。
頭の裏をがしがしとやりながら、「いや」と言う鬼狩り様が、本当は少しばかり憎かった。
次に目を開けた時には、お義母様のお顔があった。
「……目が覚めたかい」
「……ぁ、」
喉があんまりにもからからに乾ききっていたらしく、声も出なかったものだから、私は一度、頷いた。
それでもあんまりにも体中が痛かったものだから、本当に小さくだけ、頷いた。
「今日はもういいから、このままおやすみ……あの子にはまだ、目を覚まさないと言っておくからね」
そう言って部屋を出たお義母様の背をぼぅ、と眺めてから、私はそろそろ見慣れ始めた木目の美しい梁の通る天井を眺めた。
本当は、今日も出かけたかったのだけれど、どうにも今日はそうはいかなかったようだ。
私がこの藤の家紋を掲げる"尾上"の家に嫁いでから、三月目が過ぎようとしていた。
朝になると、まだ腕が痛むようであったが、お義母様がもしかするともう既に待っているやもしれない厨へと出向くことにする。
昨夜は誰も鬼狩り様は宿泊されてはいなかったので、そう言った日に比べると今日しなければならない事は非常に少ない。
ない、というわけでも無いし、やる事は山とあるが骨が折れるとは思う程でもない程度のものであった。
私は奥様へと認めた手紙を片手にお義母様へと声をかける事にする。
「お母様、私このまま買い出しへ行ってまいりますね」
「ああ、そう? いつもありがとうね。なら、お願いするわ」
「はい」
お義母様から渡された駄賃とは別に、奥様から頂いた兎の染め抜かれた鴇色の巾着袋を握りしめた。
買い出しへは街へと出るものだから、少し歩く。
凡そ半刻ほど、ずっと道を下って行くものだから、草履の鼻緒の当たるそこに、水ぶくれができた事もあった。
けれどそんなことはちっとも問題にもならない。
私はこのときばかりは羽根が生えたように体が軽くなるのだ。
るんるんと、今にも駆け出しそうな足をなんとか言い聞かせ、一歩一歩を転ばないようにと踏みしめ歩く。
街へと着くとそこは大層な賑わいで、いつか鬼狩り様と歩いた資生堂までの道のりを思い出し、私はまた口角を上げた。
お嫁に入る頃、奥様から頂いた兎の巾着には五円ものお金が入っており、奥様のお心遣いにぽろぽろと泣いた。
それを、つい昨日のことのように思い出す。
夫は別段、悪い人ではないのだと思う。
なにぶん、私が勝手をすることが許せないようで、未だ夫の嫌がることを掴みきることの出来ない私は、少しばかり折檻を受けることもある。
お義母様は、そんな夫へは頭があがらないようで、私へ「もう少し考えなさいね」と優しく言ってくださるのだが、本当はそんなお義母様の方が、私は少しばかり苦手だったりする。
お義母様は早くやや子を授かればあの子も変わるから、と言う。
だから早く作りなさい、とは言うのだが、こればっかりはどうにもならないものだと、私は思うのだ。
そんな事があるたびに、私は鬼狩り様が必死の形相で私の肩を掴み上げ、「何されたァ!!」と怒りを露わにされたあの日を思い出す。
その後に、ともにしたお食事の味だとか、鬼狩り様の表情だとか。
なにを言っていた、だとか、鬼狩り様の爪の隙間に入り込んでいた土くれだとか。
奥様は、私がお嫁に行く、その日に言った。
「思い出は大切なまま、胸にしまっておきなさい。そこは、決して誰も踏み入ることは出来ないからね」
と。
だから私はクリィムソォダの泡に包んで、全部全部をそこへと隠した。
ぼぅ、と歩いていたからであろうが、いつの間にか目の前に現れた百貨店の直ぐ側。
乗り合い馬車やら車の往来する道路の並びに建つ薬屋。
資生堂の前までやってきていた。
どうやら随分と歩いていたらしい。
まだ然程手を付けていない、うさぎの巾着を握りしめ、一歩、また一歩と、腕を引かれるように足を動かした。
店内は薬やら化粧品を求める人よりも、きゃあきゃあと高らかな声を上げる女学生の方が多かった。
前もこうであったろうか、と思い起こしながら、私は順番がやってくるのをそこで待つことにした。
しゅわしゅわぱちぱちとソォダの弾ける音と、女学生の笑い声。
アイスクリンがソオダに溶けていく。
確か、あの日は奥様がとびきり綺麗に編んでくださった髪が、くしゃくしゃになってしまって、鬼狩り様が結び直してくださった。
ここでクリィムソォダを味わって、それからどうしたろうか。
集落へは裏側の山道から帰った。
鬼狩り様が、鈍臭く蹴躓いた私へと手をかしてくださって、暫くは手を引いて歩いてくださった。
とくに何があったと言うわけではない。
けれどその時の鬼狩り様の手が、あんまりにも遠慮がちで、ずっと握りしめられることは無かった。
私の手のひらに、鬼狩り様のがさがさとした肌と熱が触れていた。
ただ、それを思い出していた。
その不器用さを鬼狩り様らしい、と思っていたろうか。
クリィムソォダの上についていた、さくらんぼを口へと含み、種をころころと舌で転がした。
これを吐き捨てれば、もう、今日の思い出はお仕舞だ。
そう思うと、いつまでもころころとやっていたかった。
尾上の家へと戻ると、お義母様はちらッと私を見ただけで、特段何を言うこともなく、今日の夕餉の支度へと取り掛かろうとしていた。
できるだけ頭を下げ、「遅くなって、申し訳ございません」とだけ言って、ひんやりとした風の冷たさを肌で感じながら、襷をかけた。
奥様へ、私は毎夜出さない手紙をしたためる。
それを枕の下へと忍ばせ、翌朝、竈の中へと放り込むのだ。
そうすれば、みんなが平和に暮らせることを私はなんとなくわかっているからだ。
夫が、湯浴みの後に「散歩をしてくる、」と言うものだから、私は寝室へと戻ることにした。
いつものように、文卓の上へと紙を置き、万年筆のインクをちょん、と乗せ、ペンをすっと引っぱった。
今日はなにを書こうか。
「おい」
「わッ!」
唐突にかけられた声に、肩を跳ね上げた私が、思わず取り落としたペンを拾って下さる夫。
頭を下げる私とペンを、夫はじっとりとした目で行き来する。
「あ、ありがとうございます……」
「……使っていいか、俺に尋ねるのが筋じゃないのか。これは俺のものだと思うが?」
「え、……あ、申し訳ございません」
だからここしばらく減りが早かったのか、とぶつぶつと呟くように言う夫の姿に、私は震える指先を隠すようにともう一つの手で握った。
本当は、ここへ来てすぐ。
「里中の家へも、手紙を出してやるといい」
そう言った夫は私に「使ってもいい」と言って下さったと思うのだが、夫も人であるし、忘れてしまうことも、間違ってしまうこともあるだろう。
そんなに私も拗ねることでもない。
少しだけ口角を持ち上げ、夫へと向き直る。
永く、ともに居なければならないのだから、出来るだけ上手くやっていきたい。私はそうも思ってもいるのだ。
「あなたが、……その、私に奥様への手紙をしたためることを許してくださっていたので、その、……お借りしておりました」
「俺が悪いと言いたいのか」
「い、いえ! あの、ですので……えぇ、と……」
ぴゅっ、と風を切る音がした。
それから鋭い痛みが頬へと走り、私はすぐに頭を下げる。
「ご、ごめんなさい」
ふんっと、夫が鼻を鳴らした音がする。
六畳間の広くもない寝室で、敷かれた二組の布団には隙間がある。
眠るとき、夫はこの隙間を埋めるのだが、私はその瞬間だけがひどく嫌だった。
その後、があるからだ。
夫は、私の布団を足蹴にしながら、隙間を埋めた。
「や、やだ……ッ! ……まって、っ……あの、!!」
「うるさい!」
布団に私を引き倒した夫は、ぴしゃンと私を叱り飛ばし、行灯の鈍明かりのなか、まるで能面のような無表情でもって、私の夜着を引っ張り乱していく。
「ま、待ってくださ……!」
「おい、逃げるな」
「…………はい、……ッ」
夫の言うとおりに抵抗もやめ、されるがままに身を任せ、ただ私は静かに目を閉じた。
太腿を這う夫の手が、もしかすると__。
「あのぅ!ごめんくださァい!!」
突然に響いた若い男性の声に、私は思わず夫を突き飛ばした。
夫の鋭い視線を横目に夜着を整え、適当な上掛けを羽織り、「はぁい!」と半ば叫ぶように声を上げる。
たすかった。
そう思ってしまうのは、いけないことだと言うことはわかっている。
夫に失礼なことだとも。
申し訳がないと思う。
だからこそ、夫を悪い人だとは思うことができずにいる。
悪いのは、もしかせずとも、きっと私だと思うのだ。
「あの、申し訳ないですが、今晩、こちらへ泊めて頂くことはできませんでしょうか」
「ええ! もちろんです! さ、どうぞ!」
「ありがとうございます」
「ふふ! いいえ!」
私は持てるだけの笑顔で、真っ黒の詰め襟へ身を包む青年を家の中へと招き入れた。
次へ
戻る
目次