小説 | ナノ



しつこく降り続いた雨も止み、外廊下に面した自室に朝日がが届き始めたころ。
布団の中から腕をのろのろと伸ばし、私は奥様に渡された、縁談のための釣り書きを摘み上げた。

奥様からは三通、男性の身分やら名前やらがひしめき合う釣り書きを渡されたが、どれ一つをとっても、本当は興味などはなかった。
けれど、ここで「嫌です」などと言うわけにはいかない。
そもそも、こんなお世話をさせていることすら申し訳のないことなのだ。
きっと、こんなにも親切にして頂ける、幸せな奉公人なんて二人と居ないだろうに、と思う。
わかってはいるのだ、私も。

また布団の外へとそれを投げ出し、私は布団の奥へと潜り込んだ。



あの日から、体に変化は見られない。
強いて言うなら、三日目にはどこの、とは言わないが、痛みも失せていた。
今はもう奥様の言いつけやら申し出た畑の手伝いやらで忙しく出来るようになっているほどだ。




その、丁度三日目の日であったと思う。
奥様は私が鬼狩り様の元へと行くことに苦言の一つも漏らさなかったが、「帰ったら、話があります」とだけ仰られた。
私は一度、小さく頷いた、と思う。


その日、鬼狩り様は帰って来られなかった。
その翌日も。
そのまた、翌日も。
そうこうして、丁度一週間が経とうか、と言う頃であった。


私は唐傘に体を入れこみ、傘が弾く雨の音を聞きながら、鬼狩り様の帰りを待っていた。

頭の中を埋め尽くすのは、丁度奥様が「話しがあります」と仰られ、その後持ってきてくださった「縁談」の話しだ。
それから、鬼狩り様のこと。
きっとこんなときに、奥様が縁談の話しを持ってきてくださったのは私のことを考えて、なのではないだろうか。とは、思う。

これ以上、何かがある前に、やら、これ以上、私がのめり込んでしまう前に、であるとか。
とにかく、私が今後これ以上苦しまずに済むようにと対処をしてくださっているのではないだろうか。
そう思うと、感謝こそすれ、恨むことも、出来るはずもない。


雨の滴る手の中の傘の柄を、私は幾度もぐる、と回した。
傘の骨がくるくる。くるくるくる、と。まるで私の頭の中と同じように回る。

そうしていると、暫くして水の弾ける音が響き、そのうち私のすぐ傍へと暗色の足袋がやってきて止まった。

「入れてくれるかィ」
「……はい、どうぞ」

そう答えた私が、傘を少しだけ高く持ち上げると、その足袋の持ち主は__鬼狩り様は__静かに傘の中へと入ってこられる。
ざぁざぁと降る雨のせいで、鬼狩り様は既に濡れそぼっており、そのたくさん傷の入った額を隠す髪からも、雫がぽつぽつぽつりと落ちていた。
一人では広すぎた傘の中が、一気に心許なくなり、私は体を一歩左へと傾けた。

「濡れンぞォ」
「……入っているので、……大丈夫です」
「そうかィ……」
「あの、……お帰りなさい、」
「……ん」

ばつばつと、雨に打たれる傘の音が、響きすぎる私と鬼狩り様の声を少しばかり隠してくれていた。
ばくばくと心の蔵が脈打ち、息が少しばかり詰まる。
無意識だったのか、私は左の手のひらでそろそろと首の裏を隠していた。
未だ、ぽこぽことした跡が指を伝う。

「体調はァ?」

どこを見ておられるのかはわからないが、決して私の方を見ない鬼狩り様は、まっすぐに前を向いたままに私へと問うた。

「……え」

息が止まったかもしれない。
顔の向きはそのままに、視線だけをちら、と私へとやった鬼狩り様の目と、私の目はきっと絡まってしまった事だろう。
そう思ったのも、それに頬を染めたのも、私だけであった。
鬼狩り様は、すぐさまに顔ごと視線を下へとやったのだ。

「荒木さんとこの夫人に、聞いた」
「あ、そ、ですか……あらき……ヤス子さんに、……あ、あのッ! もう大丈夫、です」
「なら良ィ」

そう言いながら、私の手から傘をひっつかんだ鬼狩り様は立ち上がり、顎をクイ、としゃくった。

「風邪ひく」
「……あ、はい」
「入んぞォ」
「……ありがとうございます」

私の方へと傘を傾け、鬼狩り様はその大きな手でもって、お屋敷の門を開け、「ほら」と私を中へと入れてくださった。

□□□□■

傍へと置いていたお重を風呂敷から取り出し、お勝手の手押しポンプで押し溜めた水で、ざぶざぶと風呂敷を洗い上げる。
鬼狩り様は、「着替える」とだけ言い残し、奥間へと行ってしまったものだから、少し立ち尽くしてしまったのは秘密にしておきたい。

あの日の事を、鬼狩り様は覚えておられるのだろうか。
それが重要であった。
本当であれば、湯を沸かし、湯浴みの準備をして待っているところではあるのだが、如何せん、あの日の事が脳裏を過ると、勝手に屋敷へと入る事に抵抗を覚えてしまっていたのだ。

昨日一昨日であれば、もう半刻程待った頃合いで入っていたのだが、それでも勇気のいる事であった。
私がここに来ていることで、鬼狩り様に「抱かれに来ている」と思われやしないだろうか、であるとか。
「はしたない女だ」と。
そう思われやしないだろうか。
嫌われやしないだろうか。などと。

本当は、あの日の記憶が鮮明であるのかを訪ねてから、その後の自分の行動を決めようと思っていたのに、鬼狩り様の声を聞いた途端だ。
すべての考えは吹き飛んで行ってしまった。
ただただ無事に、傘の中へとやって来られた鬼狩り様の姿に安堵し、ただただ鬼狩り様の涼やかな声にどきどきとしたのだ。

どうにもこうにも、落ち着かない。
息が詰まる。
本当は、全部無かったことなのでは無いだろうか。

私はまた、首裏を撫でつけた。
未だひりひりとする首裏のみが、あの日の事を現実だと教えてくれていた。
_____________
_____
__

鬼狩り様へと夕餉の準備も終え、塩を多めに付けた握り飯を握っていた。
鬼殺の道中で、ほぐれてしまわないように、と出来るだけきつく握りしめていると、背中側から声が降ってくる。

「着物、もう乾いてんぞ」
「……わ! …………あ、ありがとうございます……」

思わず握りすぎてしまった握り飯は、麻の葉の上へといびつな形となってぼとと、と落ちた。

「驚きすぎだろォ」
「……だ、だって、……鬼狩り様、」
「あ?」

こわごわ鬼狩り様の声のする方へと体ごと向き直ろうと、体を傾けた。
裾も長く、袖も肩口も長い大きな鬼狩り様の長着をお借りしているものだから、襷やらおはしょりを無理くりにでも作り上げる事で漸く着ている不格好な格好のまま、どんくさいとでも言われかねない動きで私は振り返った。

すぐ向こうの柱へと体を持たれかけた鬼狩り様は、丸い目をそのままに私を見ている。

「あのッ、……夕餉、は出来ております……ので、私はおにぎりを包んだら、おいとましようか、と」
「食わねぇのか」
「……その、……今日は、鬼狩り様の分しか用意をしておりませんし、……その、」

米粒の山と着いた手を、これでもかとこねながら、私はもごもごと口を動かした。
ちら、と鬼狩り様の表情を伺おうとも、ただただ静かな目が「じぃ」と私を見ているのみだ。
やはり、覚えておられないのではないだろうか。と思う。

覚えておられたら、きっと、きっと私ほどではなかったとしても、慌てられたりだとか、言葉に詰まられたり、だとか。
きっともっと、何かあるだろう。
無いのだろうか。
無いのであれば、それはそれであんまりにもあんまりではないか。とまで思う。
私はこんなにも鬼狩り様の事ばかりで頭を悩ませているというのに。

けれど、鬼狩り様は私のことで心を乱されるようではいけないのかもしれない。とも思う。
それも、本当の気持ちなのだから、自分の事すら難しい。
私は何もついていないはずの口元をそ、と抑えた。

「そうかィ」
「でも、その、……一緒に、食べて下さると言うなら、その、握り飯だけ、……頂いても……良いでしょうか」
「あ? お前が言いだした事だろうが、好きにしろォ」
「……は、はい」

ありがとうございます、と私が出せたのは、蚊の鳴くような音であった。




鬼狩り様が味噌汁を啜る姿を見ながら、私も口に残る米粒を汁で流す。
また、鬼狩り様が米を口に含み、湯気の立つ魚を解している。
いつもの鬼狩り様だ。
私はほぅ、と息を吐いた。

矢張り、このまま全部なかったことにして、私もいつもの日常に戻ろうか。
もう、そう長くもここにはいる事は出来ないのだし。
そう思いはしたのだけれど、それと同時に「ふ」と沸いてしまった。

本当にそれでいいのだろうか。
もしも。
もしも、だ。
鬼狩り様にあの日の記憶があったとして。
もしも、だ。
鬼狩り様は私と同じように「日常」に戻るために平静の態度をとっている、だとか。
鬼狩り様が、私に気を使わせまいと、無かったことにされている、だとか。
そんな事があったとして。

例えば、私の事を、ほんの少しでもそう言った目で見て下さっている、として。

何が言いたいのか、どうしたいのか。
もう自分でもわからない。
ただ、理解できていることがあるとするのであれば、私はただ「何も無かった」という事にはしたくない、そう思っている。
の、かもしれない。

「鬼狩り様」

そう呼び止めれば、既に黒の詰襟へと着替え、羽織ものを小脇へと置き、胡坐をかいておられる鬼狩り様は私へと視線を向けて下さる。
ずず、とお汁を啜り、鬼狩り様は静かに答える。

「なんだァ」
「……あのぅ、そのぉ、……一週間ほど、前の日の事なのですが……」

その言葉に、鬼狩り様はだんだんと目を大きく見開かれていき、終いには顔を真っ赤に染め上げていく。

「……は、ァ?」

口をきゅ、と固く結び押し黙り、息を止めているのかと思う程の鬼狩り様の姿に、私も同じように息を止めてしまった、と思う。

「……へ、」

しん、とした室内で私の箸が転げる音が響いていた。

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