![](//static.nanos.jp/upload/s/sukusukusadate/mtr/0/0/20220505125452.jpg)
すっかり鬼狩り様の姿も見えなくなった一室。
じン、と痛む股もそのままに、ちら、と外を見ると、しとしとと、また雨が降っている。
鬼狩り様は一体どこへ行かれたのだろうか。
雨に濡れていなければいいのに。
すっかり涙や何やらで突っ張り始めた頬をぐい、と拭い、私は腰を持ち上げる。未だがくがくと笑う膝に力を籠めなおし、すっかりと汚れた畳を片付ける事にした。
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「あ」
屋敷を出る頃には雨もすっかり上がっていた。
首のうら。うなじ辺りを抑えてみた。
ぼこぼことした肌の凹凸が指先にあたる。
ひりひりズキズキと痛む。
目の前に手を持ってくると、指先にはほんの少しの赤いものが着いていた。
痛い。
と思う。
けれどそれだけではない。
凡そ口にはしてはいけないのではないのだろうか。そう思う程の劣情が、確かにそこには隠れていた。
鬼狩り様の屋敷を出てすぐ。
辺りはそろそろ夜の暗色を連れてこようとしている。
帰らなくては。
奥様がきっと心配する。
そうわかってはいたものの、どうしても帰る気にはなれなかった。
きっと、今ひどい顔をしていると思うのだ。
奥様はお優しい方だから、きっと「何かあったの」と訊いて下さるのだろう。
私は、それに答える事はきっと出来ないと思う。
だって、それは「何か」があってしまったのだから。
鬼狩り様のお屋敷から続く、竹垣に囲われた小道を抜けると、集落唯一の神社への小路が現れる。
普段なら通り過ぎるそこへと、私はとぼとぼと歩いていった。
そのうち見えた境内にはぽつんと人影があり、それが赤子を抱いたセツさんであると、気が付いた。
いつか、奥様と荒木のおじさんの言っていた「おめでたの娘」であるセツさんは、噂によると、縁談を断わらせるために子を孕んだのだとか。
それが本当かはさておき、それ以来集落の皆は、そのことには触れようとはしていない。
たまに、手習い処のクニ子おばあさんが、「目もとがセツにそっくりだねぇ」とまだ一つを迎えていない赤ん坊の頬を突くくらい。
私はずぅっと、鬼狩り様のところへと出張っていたから、セツさんには何も言えてもいなかった。
この機会に、とは恒であれば思ったのかもしれない。けれど、今日ばかりはその赤ん坊を抱いている姿から目を逸らしたくなった。
「あら……名前ちゃんじゃない?」
そう聞こえた、かもしれない。
私は踵を返そうと一歩、足を引いたところであった。
相手は赤ん坊を抱いた、産後一年経っただろうか、と言う程度の女性だ。
きっと、走ってしまえば追いついても来れないであろうし、無かったことに出来る。
そう、思った。
思いはした。
けれど、私の目から、ぼろぼろと落ちる涙が、もうそれを許さなかった。
「名前ちゃん?どうしたの……ほら、こっち、ね? 話しを聞くから、ね?」
「……ぅ、うぅ、…………うぅ、ぅぇ、ひ、」
ひっくひっくと、しゃくり上げ始めた私の背中を片腕で擦りながら、セツさんは本殿の階段へと腰を下ろし、私にも座るように、と促した。
「今日、この子ずっと泣いてくれるものだから、うるさいッて、お父ちゃん怒っちゃって。
お母ちゃんが、「子供は皆こうです!」ってそれに怒ってしまってね。今、喧嘩してるのよ」
「……ぅ、」
「そのうちお父ちゃんが、どこの馬の骨ともわからない男の子供だからだ、って、……私、言い返せなくてね。
そうしたらお母ちゃん、「あなたと私の拵えた子供の子です!」って。ふふ。私もああなりたいわ」
赤ん坊の頬を、細い指で撫ぜながら笑うセツさんは、一等綺麗だった。
セツさんは、私に「なにがあったの?」とは、聞かずに、自分の事をただただ話して、私を見ては柔らかく微笑んでくれる。
「昨日はね、この子笑ってくれて……」
「ねぇ」
セツさんと、言葉がかぶってしまい、遮る形になってしまったが、私が声を発してすぐ。
セツさんはにっこりと笑い「うん?」と私に体を向けてくれる。
やっぱり、セツさんはずっと素敵な女性だと思う。
「名前は決めたの?」
「……うん」
「おめでとうって、私、セツさんにずっと、言ってなくて……」
ぐずぐずと、未だ鼻を啜る私に手巾を差し向けながら、セツさんは一度頷いた。
「良いの。おめでとう、なんてすぐに言いに来てたら、それこそお父ちゃんが『めでたくない!』って怒っちゃう」
「……ごめんなさい」
「ううん」
「おめでとう」
私の言葉に、セツさんは嬉しそうに笑ってくれた。
「名前ちゃんはどうしてたの? 鬼狩り様のところに通っているのはお母ちゃんから聞いているんだけど」
「あの……元気に、してたよ」
「そう。……私ねぇ、」
セツさんは私の顔を覗き見て、それからすぐ、ぐっすりと眠っているらしい赤ん坊へと視線を戻す。
「この子の父親を、"行きずりの男"って言ってるの」
「え!」
誰にも言ってないのよ。
そう言ったセツさんは、「大丈夫よ」と続けて言う。
「名前ちゃん、子供は、そう簡単には宿ってはくれないもの。この子ね、一年近くかけて、ようやく来てくれたのよ」
「……え、」
「あの、先生との子よ」
「……セツさん、それ、」
「縁談が来てたのよ」
誤魔化すように笑うセツさんの言葉が、右から左へとすっぽ抜けていきそうであった。
セツさんが「先生」と呼ぶのは、下の村の外れにあるあばら家に住む、一人の若い画家先生の事だ。
変わり者だから、と腫物のように扱われている、と噂には聞く。
まさか、と、私は口元を借り物の手巾で隠した。
「都会の方の、藤の家紋のお家からのお話しだったそうなんだけど、……どうしても、あの人と離れたくなかったのよ」
「……だって、それ、」
「まぁ、そんな事は良いの。とにかく、だから、きっと大丈夫よ」
私の方を一度見やり、自分の首のうしろ。うなじの辺りを指で指し示しながら、続けて言う。
「大丈夫じゃなかったら、名前ちゃん、一緒にがんばろう?」
わかっているような言い方だった。
全部をわかっている、みたいな。
ずっと優しい顔のままのセツさんは、すっかり薄暗くなった神社の境内でも、見惚れてしまう程に優しく笑っている。
「え、と……え? ……な、だ、……え、」
ぶんぶんと後ろ首を抑え、頭を横に振る私に、セツさんはやっぱり笑う。
「大丈夫よ、何も言わなくても。私も、今日の事は黙っておくわ」
「え、」
「さ、暗くなるし、皆が心配しちゃう」
「セツさん、」
戸惑う私を尻目に、セツさんは立ち上がってから、一度。「ねぇ」と私を振り向いた。
「髪を下ろした方が良いわ! ふふ」
「……ぁ、あ……あの、」
「うん?」
「……ありがとう。あの、あのね、……私も、……もう大丈夫」
赤ん坊を抱いたセツさんは、わらべ歌の調子に合わせて体を小さく揺らし、その腕に大切そうに抱える赤ん坊を見やり、私に少しだけ、頷く。
やっぱりセツさんは、素敵な人だと思う。
私もしっかりしなくちゃ。
私と二つほどしか変わらないセツさんは、こんなにも凛々しく立っているのに。
私も、しっかりしなくちゃ。
「あのね、私も、…………本当は、その、……ちょっと悩んでたけど、……その。
もう、辛くないかもしれない。……へへ、……ありがと」
「ふふ、秘密ね」
「うん」
まだ痛む股を庇いながら立ち上がり、私はお尻の周りの砂を払った。
「さ、帰りましょうか」
「うん。…………奥様に、ばれちゃうかな」
「きっと」
「叱られるかな」
「……どうだろうね、……泣いてしまったりして」
セツさんの隣をとぼとぼと歩きながら、「そうだったら、やだなぁ」と私は小石を蹴飛ばした。
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里中の家に帰りつく頃には、辺りはもう真っ暗になっていて、空を見上げれば星が一等輝いていた。
これからの事を思うと憂鬱な事ばかりだというのに、心持はそこまで悪いものではなかった、と思う。
奥様は、私の顔を見て開口一番「どうしたの!?」と、泡を食ったように驚き、仰ったが、口を閉ざして貝になった私にそれ以上詰め寄る事はしなかった。
なぜ私の顔を見て直ぐ、奥様はそんなに驚かれたのやら、と思っていたが、その理由はすぐにわかった。
鏡に写る私の目元が、今までに見たことも無い程に、赤く腫れている。
その上、髪もぼさぼさと暴れまわっている。
セツさんの「髪を下ろした方が良いわ」と言うのは、後ろ首の事だけでは無かったのね、と顔を隠してしまいたくなったのは、ここだけの秘密である。
そろそろ夜も深まり、奥様と旦那様の布団を用意し終えた頃であった。
「名前、来なさい」
奥様は、どこか厳しい声で仰られた。
「はい、奥様」
奥様に付き従い、奥様の鏡台の前まで辿り着くと、「掛けなさい」と奥様は椅子を引いてくださる。
濃い茶の舶来の品で、「珍しいものが手に入った」と旦那様が嬉しそうに奥様へ送った大切な鏡台だ。
あまりに恐れ多く、私は首を横に振るが、奥様は私の肩をそ、と押し、「掛けなさい」ともう一度。今度は労わってくださるような声で仰った。
「……あの、……失礼します」
「ええ」
引き出しからブラシを取り出した奥様は、まだ乾ききっていない私の髪を優しく梳いていく。
慌て、首もとを隠す私の口からは、「あ、あの、」と、戸惑いの音しか漏れず、鏡の中の奥様を見る事しかできなかった。
「これだけ、教えて頂戴」
厳しい、とは少し違う。
張り詰めた糸のように、僅かに震える声で、奥様は私に囁くように仰られる。
「……はい」
鏡越しに合った奥様の目が、あまりにもお辛そうだった。
どうしてかは、私には分からない。
叱られるのだと思っていた。
私はどちらかと言うとどんくさいものだから、きっと何も隠し通すことなどできずに、「はしたない」と叱られるのだと思っていた。
私は思わず立ち上がり、奥様をきちんと正面から見る。
「辛かったわね」
私が言いたかった。
奥様が、あんまりにもお辛そうなお顔をなさるものだから。
けれどその言葉で、とてもとても心配をかけてしまったのだと、ようやっと理解した。
私は何度も首を横へ振った。
奥様に「そうではないの」と、伝えたかった。
「鬼狩り様なの?」
奥様の言葉に、首を横へと振る事も、頷くことも出来ない私の事なんて、きっと奥様はお見通しであっただろう。
奥様はきっともう、察しておられるのだろう。
けれど、事故だ。
だって、鬼狩り様はあんな状態だったもの。
だからきっと、誰も悪くない。
けれど見ていなかった奥様に、拙い私の言葉で伝わるだろうか。
奥様に、きちんとご理解いただけるのだろうか。
「あの、奥様、……その、わざとじゃ、無かったんです! 誰も悪くないの! その、……あ、あの! 私が! 私がいけなかったの!!」
どうすればいいのかもうわからなくなる。
まだ痛む首もとを私は、そ、と触って確かめた。
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