小説 | ナノ



布団から這い出し、スッと音も立てないように私は廊下へと出る。
まだいつもよりずっと早かった。
そう思ったのは、外廊下の向こう。
霞がかる空の青が黒々とした山を切り取るさまを目にしたころ。
朝日が丁度顔を覗かせるかどうか、と言ったような。丁度、彼誰時というところだろう。

きっとこの時間だと奥様もまだ起きては来られない。
けれど、もう一度眠るには何とも目が冴えていた。
私はもう一度だけ廊下の奥間へと視線だけをやり、私は夜着のままそろそろと足を動かした。

恐る恐ると表へと出ると、もう日中は随分と暑くなってきているというのに、少しばかり冷えた空気が肌をなぜていった。

雲と空と山の境目はあいまいで、空には月が浮いている。
けれど、山のもっと向こう。はるか遠くは陽が昇り始めているからだろうか。薄ぼんやりとした明かりを称え、朝がやってきていることを知らせていた。


昨日。
ほんの、十五時間ほど前であろうか。
鬼狩り様と交わした言葉が、寝ても覚めても、私の脳裏をたぷたぷと漂っていた。




あなたが大切だ、と言う私に、鬼狩り様は静かに言った。
私に背中を向けたままに。
いつか鬼狩り様の背へと、乗せていただいたことがある。
足を痛めていた、あの日の事だ。
その時はとても大きく、逞しく、力強く見えた。思っていた。
実際にそうであろうとも思う。
鬼狩り様は強く逞しい。どのくらい、だなんてわかりはしないけれど、きっとそこいらの暴漢なんてへっちゃらだとでも言ってしまえるだろう。
けれど、昨日の静かに言葉を紡ぐ鬼狩り様は、酷く縮こまって見えた。
何かに怯えているかのように。

「どうせ、何言っても聞いちゃくれねぇんだろうなァ」

鬼狩り様は前置きのようにそう言った。
それから、私を見据えながら言う。

「お前らの大事なモンには、なりたくねぇ。
……大事なモンを、俺ァ、増やしたくなかったァ」

陰ってお顔の見えなかった鬼狩り様は、一体どのような表情をしていたのか。私にはわからなかった。
けれど、やっぱり鬼狩り様は、見た目通りの方だ。
私はそう思った。
決して悪漢ではない。
神様でも、仏様でもない。
鬼狩り様、ではない。
本当は、私とそう、歳も変わらない、ただの青年だ。
ただ悲しいことをそうだと言うことのできない、優しいひとだ。

「それも望めねぇってんなら、」
「……ご、めんなさ、」

とうとう俯いてしまった鬼狩り様の表情を私はやはり、見る事は叶わない。
鬼狩り様は強い人だから、強くあろうとなさる方だから、見ることが叶わなくて良かったのかもしれない。
いつもの張りのある声ではなかった。
少しばかり擦れ、たくさんの空気を孕んだ声は、それと同じだけ揺れていた。

「ずっと」
「……」
「……ずっと笑ってろォ」

鬼狩り様の色素の薄い前髪の隙間から僅かに覗く瞳が、ゆら、と一つ揺れたような。そんな気すらする。

「ぁ、……は、……はい!」

その時に、私はいつかのコチョウ様の言葉を思い返していた。

『迎えてくれる人間が居る、と言うのは、恐ろしいものです』
『不死川さんはきっと、怖いんですよ』

一体鬼狩り様は、どれほどの思いで私にこんな事を言って下さるのだろう。
一体、鬼狩り様は、どれだけのものを私たちへと傾けて下さっているのだろう。

「勝手に、居なくなんじゃねぇ」
「……ッはい!」

擦れた音の揺れる分だけ、鬼狩り様の手が強く拳を作っていた。

私は鬼狩り様の横顔ばかりを見ていたように思う。いつだって鬼狩り様は前を向いていたからだ。
私へと心を傾けて下さることがあろうとも、その視線が絡まる事は無いのであろうと思っていたし、私はそれでよかった。
そう、思っていた。
そう、思っていたのに。
鬼狩り様の声が、酷く擦れている。

「ずっとその呑気な面引っさげて、笑ってろォ……」

もしかすると、今私が見ているのは、鬼狩り様の見せたくはないところなのかもしれない。
鬼狩り様の、剥き出された心の弱いところかもしれない。
きっとそこは、鬼狩り様の一番柔らかで、もろいところなのかも知れない。
私は、初めて鬼狩り様を、「鬼狩り様」と呼びたくない、と思った。
思ってしまった。

「……はい! きっと!!」

逆光だったからだ。
屋内へと差し込む陽の光が鬼狩り様を包んでいて、私から鬼狩り様のお顔はよく見えなかった。
だから、喜んでくださっているのか、あきれ果てての事であるのか。
私にはわからない。
けれど、鬼狩り様が私たちを受け入れようと思って下さったという事なのであろうな。と言うことくらいは拙い私にもきちんと理解が出来た。

「……もう行く」
「あ、あのぅ!」

私の横を過ぎ去り、すたすたと足音を響かせ、部屋から出ていく鬼狩り様を追いかけた。
玄関まで見送りに立つと、「もう良いから、飯を食ってろ」と、呆れた顔を作り、鬼狩り様は言った。

「あの、では、せめてここまで」

框へ立つ私をちら、と見た後、ベルトを脚絆の代わりに締め上げた足へと草履を履かせ、立ち上がる。
もう、そこに立つのはいつもの鬼狩り様であった。
いつもの、燐とした仕草で背を伸ばし、ひたと前だけを見据える、うつくしい背中の、鬼狩り様であった。

「行ってらっしゃいませ!」
「……おぅ」

そう言って、振り返りもしない鬼狩り様の、凛とした背中を私は忘れないのだろうと思う。

「しなずがわ様、……どうぞご無事に……」

どうか、どうかご無事で。と何度となく私は祈った。
何度となく、唇を噛み締めた。

____
___
_



シンとした静けさが辺りを包む中、私は空気を一つ大きく吸った。
表の瓶から掬った水で適当に顔を洗っていると、門の向こう側。麓の方。丁度、村を突っ切る形でこの集落へと足を進める影を見た。

鬼狩り様だ。

と、思った。

「しなずがわ様……」

そのうち大きくなっていく影を、彼の人の袖口をはためかせる風が連れてくる。
少しづつ少しづつ近付く影へと私は腕を振る。

「鬼狩り様ーっ!」

私に気が付いてくださったのか、少しばかり足を早めた鬼狩り様の影が顔の形を作っていく。
それに向かい、私も門の側まで駆けた。
そうして、手の届く近さまでやってきた頃、鬼狩り様は小さな声で唸られた。

「……静かにしろォ」

すっかりいつもの調子でお話ししてくださる鬼狩り様に、私の口角はきゅう、と持ち上がっていく。
どこかスッキリとしたお顔の鬼狩り様は、私に「上着くらい着ろ」と苦言を呈し、ご自身の羽織ものを脱ごうとして諦められた。
きっと、裾に泥が着いていたからだ。

「ふふっ! 早起きは三文よりもずっと得でした!!」
「三文、ねぇ」

腕を組み門の柱へと体を預け、そう返して下さった鬼狩り様の顔を覗き込もうとすると、鬼狩り様は外方を向き、顔を隠す。
「っふ、」と空気の抜ける音がしたのだ。
きっと笑ったに違いないのに、見ることは叶わなかった。
私の口元が、ぷぅ、と膨れかけた頃、鬼狩り様は不意に私を見た。

「なァ」
「はい!」
「今日、暇かァ」

どこかきょと、としたような鬼狩り様の顔は、とてもあどけなく見える。

「奥様に訊ねてみないとわからないんですけれど、大丈夫です!! 鬼狩り様のお屋敷へは十時頃には向かうと思います!」
「まだ訊いてもねぇじゃねぇか」
「大丈夫なんです!」

鬼狩り様へと、得意な顔を向けると、もう一度きょと、とした顔を作った鬼狩り様はぷっと吹き出した。
ほんの一瞬のことであった。
直ぐに「そうかィ」と返された鬼狩り様はいつものしかつめらしい表情を作り直してしまったのだ。
勿体ない、と思う。
ずっとそのお顔でいらしてくだされば、もっともっとみんなと仲良くできると、断言したいほどであるのに。

鬼狩り様は地面に転がる石を軽く蹴飛ばし、「……なら余所行きの格好で来い」と、やにわに私へと告げた。

「へ……」
「良いなァ」

睨みつける、という表現が正しいと思う。
鬼狩り様はそんな鋭い表情を、取り繕うようにして私へとむけた。
怒っている、という訳ではないことはわかるが、私はその言葉の意味を、うまく飲み下せていない。

「え……ぁ、は、はいッ!」

私の返事を聞くなり、門の内側へと結局は入っては来なかった鬼狩り様は、すたすたと家路へとついていた。
手前の山から日が差し込み、あたりは明るくなってきている。
裏の荒木のおじさんの家の、玄関が開く音がしていた。

「おっ、早ぇな、名前ちゃん」

塀の向こうから私に手を振る荒木のおじさんを見て、私はようやく鬼狩り様の言葉の意味を噛み砕くことができた。
理解できてしまった。
理解できてしまったものだから、ぶるッと一度、体を震わせた。

「おぉい、名前ちゃ……」
「……お、奥様…………奥様ァッ!!」

飛び上がるように家へと駆け上がった私へ、奥様はぴしゃンとしかりとばされた。

「何時だと思っているの!! 静かになさいッ!」





丁度十時を過ぎた頃合いだろうか。
今日とて皆の家に藤の香を届け終え、奥様に見繕って頂いた着物へと袖を通す。
大ぶりの牡丹の入った花籠文様の、私には華やか過ぎるほどの上等な着物は、奥様が若かりし頃に着ていたものなのだと、奥様は嬉しそうに教えてくださっていたものだ。
奥様にさしていただいた紅のついた唇が、いつもよりも張り付いている。
奥様が美しく結い上げてくださった外巻きとて、きつく結ばれている。
だから、垂れるはずもないのに、横髪を私は何度も耳へと引っ掛け直した。



鬼狩り様の邸宅の筋へと足を進めたところで、鬼狩り様が門の向こうからやって来られた。
鬼狩り様とて、いつもの様相ではなく、濃い色の長着を身に纏っておられ、私は少し、声を忘れていた。
うまく話せない。

「あ……あの、……鬼狩り様ッ! お待たせして、……」
「待ってねぇ」
「お待たせ、……ぁ、えっと、……してなくて良かったです……」
「……行くぞ」
「はいッ!」

私が鬼狩り様の前にたどり着くよりも早く、鬼狩り様はそう言って、私から背を向けた。
山間の小道を抜け、村へ降りるのとは反対への道をゆく。
村へ行く以外には集落の外へ出ることのない私が、普段から通ることもない道だ。
鬱蒼と茂る木々に、舗装のない道。
時折現れる木の根っこへ足を引っ掛けないよう、いつもより慎重に歩く。

「鬼狩り様、あのッ……今日は、一体どちらへ?」
「……」

鬼狩り様は、私の問いには答えてはくれず、静かに私の数歩前をひた歩いている。

「鬼狩り様、眠くは有りませんか?」
「……」

鬼狩り様は何も言葉を返してはくれない。
段々と、不安が胸を占めていった。
それは、鬼狩り様のお顔を見れていないからなのかもしれないし、木々の落とす影が私の気持ちも落としていったから、かも知れない。
ともかく、胸の中にはモヤが渦巻いていた。

鬼狩り様は、何か無理をしているのでは無いだろうか。

「鬼狩り様、疲れてなどは、」

日が昇っているというのに、林立した木々によって日を遮られたそこは、どこか薄暗く不気味であった。
そのうちどこかから聞こえる鳥の鳴き声に、虫の鳴き声やらが混ざり合い、それを増長させていく。
酷くじめついている。
きょろきょろとし過ぎていたせいだろう。
張り出した根に出来上がっていた立派な瘤に足を取られ、「ッわ!!」と叫ぶ頃にはギュウと目を瞑っていた。

「足元、ちゃんと見ろォ」
「鬼狩り様の背中を、見失うといけないと思って……へへ、ごめんなさい、」

私のお腹へと手を添え、支えてくださっている鬼狩り様の手を辿り、鬼狩り様の顔へと目を向ける。
鬼狩り様の淡い藤の色のような瞳と視線が絡まった。
息を大きく吸いたかった。
胸が少し、苦しかったからだ。
けれど大きく息を吸っているのを見られるのは、なんだかとても、恥ずかしいことのように思えたものだから、できる限り細く息を吸い込んだのだけれど、それでも、息が荒くなったことに、鬼狩り様は気付いてしまっただろうか。
私は、あんまりにも優しいお顔の鬼狩り様から、ずっと視線をそらせない。
息を、上手く吸うことも難しい、と、思う。

鬼狩り様は、これから向かうのであろう方へと視線をやり、首の裏をがり、と引っ掻いた。

まだもう少し、息が苦しい。

「……少し距離が有る。……時間もねぇから、抱えても良いかァ」

鬼狩り様は、私をちら、と見やってからまた、進行方向へと顔を向ける。

「あッ! は、はいッ!!」

また負ぶさって下さるのかと思っていた。

私を抱え上げた鬼狩り様の腕が、私の背と膝裏にまわっており、鬼狩り様のお顔が、嫌に近かった。
嫌ではない。
けれど、いやだ。
きっと、はしたないほどに真っ赤に染まり上がった私の顔を、鬼狩り様は見ているのだ。
いやだ。

「掴まれ」

そう、呟くように言った鬼狩り様に、私はこくこくと頷き、そろそろと首筋へと腕を回していく。
鬼狩り様の、喉にある張り出した喉仏やら、窪み。
見慣れない鬼狩り様の長着は、少しばかり着付けが緩いと思う。
首筋の向こう、隆起した首の付根まで隙間から見えている。
そこに私の腕がまわっていく。

「……な、なんだか」

とても、いやらしい。
そこまで考えてから、私はハッと息を呑む。
私の考えを読んだのか、それともそんなにもわかりやすい顔をしていたのだろうか。
鬼狩り様は一つ息を吐き出した。

「喋んなァ」
「はいっ」

少しばかり体を起こし、ええいッ! と、私は鬼狩り様の首元へと抱きついた。
鬼狩り様の首筋へと当てた右頬が熱くて仕方がなかった。
私の内からの炎であるのか、それとも鬼狩り様の温度が私よりもう少し熱いのか。それとも、触れたところから熱を持ってしまっているのか。
それとも、全部かも。

私から漏れ出た息が、震えていた。
まだ、息が苦しい。
苦しかったから、鬼狩り様の首へ回した手で、鬼狩り様の着物をぎゅうと握りしめた。

わからない。
わからないけれど、鬼狩り様の腕に支えられた足元の締まりが、よりきつくなったような、そんな気がした。

足の指先に入れてしまっていた力を抜くことは、まだ当分、できそうにはなかった。


次へ
戻る
目次

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -