小説 | ナノ



陽が高くなるころには、じんわりと汗をかいていた。
着物の裾を帯へと捻じ込み、尻っぱしょりさながらの格好で大ぶりの桶の中へ足踏んだ。
ざぶざぶと音を立て、桶の中の水面がたぷんと揺れている。
程よく汚れの蓄えられていたらしい鬼狩り様の着物やらからは、踏むたびにじんわりと黒ずんだ汚れが水へと溶けていくのが見えていた。

少し前に程よい甘辛さにひたしたおひたしはそろそろ味も馴染むころだろうか。
それを召し上がってくださるのであろう鬼狩り様の姿を脳裏で思い描くだけで口元が緩んでいくのを私は止められそうにはない。

今朝方奥様に頂いた新聞紙の端の方に載っていた、クリームソオダに想いを馳せながら、ふんふんと自作の鼻歌を口ずさみ、そろそろ汚れの浮かなくなった桶の中に付け込んでいる服を絞る。

「クリイムソオダはメロン味、ふんふふん……アイスクリンが乗っていてふふん」

また汚れ物を水へと放り込み、足を水の中へと捻じ込んだ。

「んんッ、冷たぁ……い!」

きゅうっとした冷たさが一気に駆け上がり、程よく火照った体を覚ましていく。
そうこうしているうちに、からからッと音を立て、傍の障子扉が開いたかと思うと、着流しを一枚のみ纏っただけの鬼狩り様がそこへと佇んでいた。

「わッ!!」
「……あ? ……悪ィ」

ぽかん、とした顔を見せた鬼狩り様は、私を上から下まで視線でなぞり、また奥へと戻っていった。
水場の奥に厠があるものだから、もしかせずとも鬼狩り様が厠へと行きたかったのであろう、と言う事は明白である。
慌てて着物の裾を叩き下ろし、あまり働かない頭のまま私は「ッあ! あのぅ!!」と声を上げた。

「ご、ごめんなさい!! そのッ! もう大丈夫です!! 裾、……!!」
「……いや、悪ィ」

また戸を開けた鬼狩り様は、呟くようにそうとだけ告げ、今度はこちらを全く見ることなく厠へと向かっていく。

ぎぃ、と音を立て、鬼狩り様を閉じ込めて閉まった厠の扉をぼう、と見た後、私は恐る恐る着物の裾を持ち上げた。
ちら、とそこから顔を覗かせる、程よく色付く足がそこにはある。
私の足だ。
色気の一つとして無い、陽に焼けた健康そのものの脚だ。

(顔色の一つも変わってなかった……)

ぷぅ、と膨れる頬もそのままに、水の中へと腕を捻じ込んだ。
どうせ、大根のような足ですよぅ! 健康そのもので、色気の一つもない足ですよぅ!
胸の中で暴れまわる苛立ちに任せ、がしがしと布をこすり合わせたところで、「オイ」と、厠から戻って来られたらしい鬼狩り様の低い声が響く。

「は、……はいッ」

慌てて立ち上がり、手近な手ぬぐいで手を拭いながら私が立ち上がると、鬼狩り様は、私からサッと目を逸らし、首の裏を掻いた。

「ああいうのは、てめぇの家でだけにしろよォ」
「……そ、……わ、わかってますよぅ……」
「……わかってねェ」
「わかってます!」
「わかってたらしてねぇだろがァ!!」
「わかってますったら!!」

ぎゃん、と吠える鬼狩り様の目が、大きな声で反論してしまった私へと向き、睨みつけるように鋭くなっていった。
わかってはいる。ちゃんと。
知ったら、奥様にだって「はしたない」ときっと私を叱られるんだろう。
けど、いつもならこんな時間には鬼狩り様、起きてこられ無いじゃない。
ちょっと、油断をしてしまっていただけじゃない。
そう思うとなんだか、理不尽な怒りをぶつけられているような気がする。
きっと、そういうことではない。
でも、そんな気もしてしまうのだ。
そう思うと、また口がぷぅと膨らみ、沸々と不満が湧いて出る。
頼まれたわけでも無ければ、私が勝手にしている事だ、とはいえ、だ。
こうも言われてしまうと「せっかくしているのに」と思ってしまっても誰も私を叱らないと思う。
などと余計に思ってしまうのも仕方がない。と、思う。
自分でもわからないくらいに、もやもやとしたものが募っていくのだ。

「酷いですッ! 私だってどこでもかしこでも裾を上げたいんじゃないですッ!! でも、裾が濡れてしまうじゃないですかぁッ」
「知らねえよンな事ァ!! とにかくだ! 男の家でンなモン見せてんじゃねェ!!」
「ひ、……ひっどぉい!!! どうせ色気なんて無いですよぉ!! でもでも! そんなモンなんて言わなくても良いじゃないですかぁ!! 私の大事な足ですよぅッ!!」
「んな事ォ言ってんじゃねぇ! 見せてんじゃねぇ、つってんだァ!!」

至極まっとうな言い分を鬼狩り様は言っていて、私がただの駄々っ子だとは思う。
けれど、なんだか酷く腹が立った。
怖い顔をする鬼狩り様にも、苛々している自分にも、腹が立ってくる。

「そ、そんな風に言わなくったって良いじゃないですかぁ……ぅ、うぇ、」
「……ッだァ!! 泣くなァ!」
「どうせ、……どうせ、見苦しいですよぉ……!」

面倒臭ぇ!! と唸り上げた鬼狩り様はチッと舌を打ち、また首裏を掻き上げながらとっとと草履を脱ぎ捨て、外廊下から家の中へと引っ込んでいった。

なにがこんなになるほど悲しいのか、私自身も分からず、次から次へと流れ出る涙を袖口で何度も拭う。

もしかすると、仲良くなれたと思っていたのに、叱られているからだろうか。
嫌われてしまったろうか、と。思うからだろうか。
面倒な事はわかっている。
自分でも一体全体、何がしたいのか言いたいのかわからない。
ただ、一つ言えるとするならば、鬼狩り様には嫌われたくない。
それだけだ。

それでもやっぱり、耳の裏まで真っ赤に染めるほど怒らなくても良いじゃない。と、ぷぅと頬を膨らませてしまう。
ひくひくと上手く吸えない息を無理くりにでも吸い直し、奇麗に洗い上がった鬼狩り様の詰め襟をバサッと振った。

□□□■◆

「お、鬼狩り様、……あのぅ、もう、戻りますね」

鬼狩り様がいつも起きてこられる時間になっても起きてこられず、部屋から出てこられる様子もない。
かたかたと物音はするから、きっと起きては居られるのだろう。
そこまでを確認した後に声をかけるも、鬼狩り様は何も返して下さらない。

「……あのぅ、……すみませんでした。
お櫃にご飯を入れてます。……お茶碗に装っておきますか?」
「要らねェ」
「はい」

いつの間にか止めてしまっていた息を吐き、足の向きを変えたところでススッと扉が開いた。
その向こうには、いつもの詰め襟に身を包み、傍らへ羽織を抱え込んだ鬼狩り様がいる。

いつものようにしかつめらしい顔をし、これでもかと前を寛げた鬼狩り様だ。

「飯は」

呟くように言う鬼狩り様へ、一度だけ頷き、「厨へ置いております」とだけ言うと「違ェ」と鬼狩り様は唸った。

「お前は、食ったのかって聞いてんだァ」
「……まだ、……です」
「余ってんなら食ってけ」
「あ、でも」
「いつも多過ぎんだよォ」

外方を向いてそれだけを言った鬼狩り様は、とっとと私を抜き去り、厨へと歩いて行ってしまった。
行ってしまったのだ。
私へと「一緒に食え」と言うような事を言いのけて。

「……わ、……わわわ、」

突然の事に、私は思わず口元を覆った。



鬼狩り様のお膳をきちんと用意するために厨へと出向くと、既に鬼狩り様がお櫃からお椀へと米を装っている。

「あ、あのぅ、私が……」
「ん、任せる」
「はい」

私の伸ばした指先が、鬼狩り様の手に触れた。
指先がひどく熱い。
熱が体中を蔦のように這っていく。
それも、息をするよりもずっとはやく。
とてつもない速度で打ち付ける鼓動よりも、もっともっとはやく。

「ぁ、えっと……」
「……」

鬼狩り様のくりりとしたまぁるい目が、私を捉えている。
息が止まりそうだった。
奥様に、助けてほしい。

ぐいとしゃもじを私の手へと捩じ込むように持たせた鬼狩り様は、サッと私の指先から手を遠ざける。
そうして、何もなかったかのように、すぐそこでまだ冷めきっていない薬缶の湯を急須へと注ぎ入れた。
きっと、鬼狩り様はなんとも思っていない。
ただ、指先が触れた。
それだけのこと。
わかっている。

「先に持ってく」
「はい。……ありがとうございます」

私に見向きもせず、居間へと去っていく背中を私は見送ることすらできない。
遠ざかる足音で、ほッと息を吐くほどだった。

「……どうしよぅ、」

お茶碗へと盛った米をぺしンと軽く叩き、また息を吐く。
こんな気持ちは、なんの役にも立たないのに。
また一つ、息を吐く替わりに頬を弾き、「よしッ」と気合を入れ直すことにした。

「早くしなきゃ!」

鬼狩り様は、忙しいんだから! と、お茶碗を乗せた箱膳を持ち上げた。




「いただきます」と互いに言ったきり、かちゃかちゃと、箸と茶碗のぶつかる音以外には何も聞こえて来なかった。

「……なァ」

なんて、鬼狩り様から声がかかるまでは。

「は、はいっ!」
「口ン中、無くなってからで良ィ」
「はいッ!」
「……だァから、……」

鬼狩り様を待たせることのないよう、私は急ぎ、汁で口の中を流し込んだ。

「んッ! なんでしょう」
「……悪かったなァ、前に……水かけて」

そう言ってから、直ぐに私から目を逸らし、庭を見た鬼狩り様のお耳が赤らんでいた。
そのままお茶碗の中身をかき込み、もぐもぐと方頬を膨らませて咀嚼をした鬼狩り様は、長い睫毛を伏せたまま、こうも続けた。

「今日も、……別に泣かせるつもりで言った訳じゃねぇ」

お汁を口へと運び、鬼狩り様は隆起した喉仏を幾度か上下させる。

「……とにかく、男の家で無防備な所を見せんなって、言いてぇだけだ」
「……は、い」
「別に、お前の見目がどうって訳じゃねぇ」
「……はい」
「許せとも、思ってねぇ」

私も、鬼狩り様と同じように、お椀を口へと押し当てる。
そのうち箸をそっと膳へと置いた鬼狩り様は、「ごっそーさん」と手を合わせる。

「旨かった」
「あ、……」
「言っといてくれ」
「あ! 言っておきます!! おじさんね、絶対荒木のおじさんの所より、自分の畑で採れた野菜の方が美味いから、鬼狩り様に食わせるんだ! って息巻いてて!」

思わず、私は身を乗り出していた。
私の様子へか、はたまたおじさんたちの話しに対してか。鬼狩り様はフッと息を漏らしながら口角を緩め、少しばかり細まった目を私へと向ける。

「わかったから、とっとと食え」
「は、はい! それで、あのね!」

鬼狩り様は、私の話しに何度も何度もウンウンと頷き、「わかったから」と頬を緩めていった。
そのうち私の声は少し震えた。
息は乱れて、涙も出てきた。
それでも、私の話しに鬼狩り様は「へぇ」「そうかィ」と小さく相槌を下さっていた。

「それ、……それでねッ……みんな、良い人で……それで……」

鬼狩り様は、思った事を言ってくださらないから、良くわからない。
誰とも関わらないように、と私達を突き放していた。
かと思えば、私達の安否を気にかけてくださって、そのお礼をと言うと、また冷たい態度で突き放すのだ。
それでも、一度だって私達を貶めるようなことも言わない。
悪く言うこともない。
ただ、自分を責めるかのように言う。
それは、まるで自傷のようだ。
鬼狩り様は、見たまんまのお方だった。

「ねぇ、鬼狩り様は、……みんなの事、……お嫌い、ですか?」

私の言葉に、鬼狩り様はその長い睫毛を伏せた。
そうして庭へと視線を戻し、立てた膝の上へと傷のたくさん走る腕を投げ出した。

「久しぶりに、誰かと飯を食った」

横髪に隠れてしまった鬼狩り様の表情を窺い知る事は出来ないけれど、その声はどこか穏やかに思える。

「……はい」
「手習いの……なんつったか」
「クニ子おばあさんの、ところ」
「そォ、……誰かと、温けぇ飯を食えってよ」

鬼狩り様は静かに語り、そのうち投げ出していた腕を折り曲げ、頬杖をついた。
静かに伏せられていた睫毛が揺れ、また大きなまぁるい目が、半分だけ、顔を覗かせた。

「おじさんは、ずっとそうなんです」
「……」
「私にも、一緒に食べよう、って。そうしたら、みんな家族だ、って」
「……嫌いじゃねぇよ」

鬼狩り様はそう言って立ち上がり、部屋の隅へと畳み置かれた、真っ白な羽織で、その背中を覆った。
大きな"殺"の字に篭められたものが一体どれほどのものか。
私には測り知ることはできない。

「それでも、俺には家族は居ねぇし」

要らねェ。
そう、言い聞かせるように言う鬼狩り様の、覚悟がどれほどのものなのか、意志がどれほど硬く気高いものなのか。
私には測り知ることはできない。

それでも。

それでも、鬼狩り様も。
みんながどれほどの思いを鬼狩り様へと抱いているのか。
それを知ることは出来ないだろう。

「でもね、鬼狩り様」
「……」

鬼狩り様はこっちを向かない。
向かないものだから、今どんな表情をしていて、どんな事を考えておられるのか。
それを知る術もない。
けれど、それは鬼狩り様も。

「皆、鬼狩り様を大好きです」

鬼狩り様も、私の顔を見ることなんて出来ないということだ。

「私も、鬼狩り様が、…………大好きです」

私がどんな表情かおでこんな事を言っているのか。
それを知る術など、無いと言うことだ。
私はまた息を吸い直し、鬼狩り様の、真っ白な背中へと言葉を向けた。

「鬼狩り様が、……その、……大切です」


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