小説 | ナノ



私の頭からは、さっぱりと昨日の記憶は抜け落ちているというのに、呆れ顔の奥様に「はしたない」とぴしゃンと叱られてしまった事で、大方何があったのかを察してしまった。

だってしょうがないじゃない。鬼狩り様をずっと待っていたんだもの。
最近眠っている時間も短いんだもの。
なんて口を膨らまそうものなら、今度こそ奥様の雷が落ちる。
恐らく、五年前に傍の木に落ちた雷よりも激しいに違いない。
想像してしまい、私は一つ、身震いをした。

「あのぅ、奥様……私、少しでかけて……」
「名前」
「はいっ!!」
「もう、こそこそするのはよしなさい」

恥ずかしいッ! と、私を鋭い視線で穿ち、奥様はため息を吐き捨てた。

「鬼狩り様のところに行くなら、クニ子さんの畑に寄ってからにしなさい。」
「……え、」
「お野菜、持っていってほしいんですって」

奥様の言葉に、私は何度も何度も頷いた。



クニ子お婆さんの家は、少しばかり気の強い女性が多い。
もちろん、クニ子お婆さんを筆頭に、だ。
こんな集落とは言え、手習いを教えるほどだ。
「男はこうだよ」
と手のひらを上へ向け、くるくる。
手のひらに独楽でも見えてきそうな。
それが彼女の口癖であったりするのだが、割愛しておくことにする。

「コウサクおじさぁぁあん! 取りに来ましたよぉ!!」
「おぅ! そこらの、引っこ抜いてけぇ!」
「ここ? これかなぁ? これですかぁ!」
「おう!!」

畑の端と端でやり取りを重ね、私は足元で凛と花を咲かせるように青々とした葉を開くしろ菜を引っ張った。
一株引き抜いたのと同時、しこたまお尻を打ち付け、これでもかと土をかぶる。

「っぎゃ! っぺっぺッ!! も、……もぅッ!!」

幸い、目には何も入って居なかったようだが、口の中はじゃり、と不愉快な感触が残る。
ケタケタと笑い声を上げるコウサクおじさんに、むう、と膨れた顔を手で拭い取りながら見せつけた。
少し煤けた野良着を引っ掛けただけのコウサクおじさんは、手伝いにやってきているおじさんから、「意地悪してやんなよぉ」と揶揄われながら、私のもとへとやってきては腕を引き、引き上げてくれた。

「すまねぇなぁ、ははっ。さ、これも持ってってやんな」
「こんなにいっぱい、食べられないと思いますよぅ」
「なぁに。手習い終えた子供らに余った分はやりゃあ良い」
「おひたしにしようかな!」
「拵えてやんな」
「うん。……ありがとう」

きっと、切っ掛けがなかったから。
鬼狩り様を知る切っ掛けさえあれば、コウサクおじさんみたいに、みんな鬼狩り様を好きになると思う。
私はそう思う。
コウサクおじさんは、袖口で顔を拭い取りながら、デコに土がついてるぞ、と悪戯っぽく笑う。

「ねぇ、おじさん」
「ん?」
「鬼狩り様と、仲良くなってくれたの?」
「一緒に熱々の鍋、食ったからなぁ」
「へへっ、こんな時期に! ……ありがとう!」

おじさんは、ずっと昔からそうだ。

初めて私が奥様の家へと奉公に来た日。
厳しい顔をして私を見ていると思ったら、翌日には奥様の所へと「昼間は母が手習いをさせたいと言っている」なんて言いに来た。
奥様は少し悩まし気な顔を見せ、それから「しっかりやりなさい」と私を送り出してくれたけれど、本当なら奉公の身の私が勉強だなんて、以ての外。
その日の夕餉に、コウサクおじさんは私を招き、おじさんのとこのまだ五つになろうか、という頃合いのタケ君と食事をしたと思う。
「旨いか」なんて呟くように言ったしかつめらしいコウサクおじさんの表情を、私はその時に恐れたけれど、ぽつぽつと降ってくるコウサクおじさんの言葉が全部、優しいものだったことを、覚えている。

「飯は食えているか」
「夜は眠れたか」
「寂しくねぇか」
「上手くやれそうか」
「困ったことはねぇか」

おじさんは、ずっと変わらない。
ずっと優しい人なのだ。
だからきっと、鬼狩り様の優しさも、おじさんには伝わると思った。
きっと、鬼狩り様を好きになると思った。

私は手の中の野菜を抱え直し、おじさんたちへ、ぺこぺこと、自分でも何度下げたのかもわからなくなるくらいに、何度も頭を下げた。

「じゃあ、行ってきます」
「おう、転けねぇようにな!」
「名前ちゃん、気をつけろなぁ」
「はぁい!」

出来るだけの早足で鬼狩り様の屋敷へと向かう。
足取りはずっと軽い。
足元の砂利がしなり、湿気た風が過ぎていく。

速く行きたかった。
はやく、あいたかった。
鬼狩り様に、早く会いたかった。

鬼狩り様の屋敷の前まで辿り着くと、息が軽く切れていた。
肺いっぱいに息を吸い込むと、腕へ抱えているしろ菜の青々とした匂いと、少し濡れた土の匂いが体中に充満する。
きっと、美味しい。
少し踵を上げ、下ろす。
ぺたんぺたんと音を立てる草履が、私の心と同じ音を鳴らしているようだった。



風が吹くと、通りへと目を向ける。
来ない。
砂埃が少しあがると、通りのある方へと顔を向ける。
まだ、来ない。
風の音がぴゅうと立つ。
居ない。

「まだかな」
「どけェ」
「っわ!!!」

思っていたよりもずっと近くから降ってやってきた声に、私はぴょンと肩を跳ね上げた。
声の主へと視線を向けると、真っ白な羽織りは草臥れ、へた、と腕の流れに合わせ、風に揺れている。
これでもかと開いた黒詰め襟は、よく見れば泥がそこかしこについている。
気持ちいつもよりも寝ている真っ白の髪は、風に吹かれるも、重た気に小さく揺られるのみだ。
心做しか、顔色も悪い気がする。
疲れた、を体現しているような出で立ちであった。

「お、お帰りなさい!」
「……おい、」
「今日コウサクおじさんにしろ菜をもらっ……わッ!!」

足元に、ドサドサとせっかくのしろ菜が転がった。

掴み上げられた両肩が、じんとした痺れを伴って、熱を伝えてくる。
鬼狩り様が、私の両腕を掴んでいる。
両腕を掴み、私の顔を覗き込んでいる。
鬼狩り様が、すぐそこにいる。
鬼狩り様の手が、あつい。

「あ、の……、鬼狩り様、」

戸惑いつつも声を上げたけれど、それも鬼狩り様の地を這うような唸り声に飲み込まれていった。
鬼狩り様の目が、恐ろしいほどに血走り、見開かれる。

「誰だァ」
「……っえ! あ、……あの、名前……です……」
「んな事ァわかってらァ!! お前に! んな事したのは誰だつってんだァ!!!」

鬼狩り様の、地獄の門番のような唸り声は、そのうちびりびりと耳の奥が痺れる程の怒声へと形を変えていく。

「い、……痛いです、よぅ……あの、……へへっ、怒らないで、」
「笑ってんじゃねぇ!!」

顔中の血管がビシッと浮き出すほどに怒りを露わにした鬼狩り様を、こわい、と思った。
このまま、体なんてぐしゃッと、握りつぶされやしないだろうか。
そんなことを私は考える。

「……言いたくねぇなら、……良ィ」

埒が明かないと考えたからか、己を落ち着かせるためか、鬼狩り様は私から視線を背け、幾度か深く息をする。
そうして視線も合わせないままに屈み、落とした野菜を取ってくださった。

「あ、あの!」

私も慌ててしゃがむ。
鬼狩り様の裾をひいてみた。
怖かったからだ。
知らない人のようだった。
あまりにも、恐ろしい形相をするものだから。
いつもの彼に戻って欲しかったのだ。

鬼狩り様の色素の薄い長い睫毛が一度だけ揺れ、鋭い目が、私の目を捉えた。

「……痛ぇとこは」
「あ、」

鬼狩り様のカサついた指先が、私の額を掠め、何かを払う。
それから淡い藤の花のような瞳が、じろっと何かを探すように動く。
そのうち、私の顔、顎のあたりを掴んだ鬼狩り様は、右へ左へと私の顔をかた向け、小さく息を吐く。

耳の裏から、後頭部へと、ゾワッとしたものが走り抜け、そのうち頭の天辺あたりで熱を持つ。
きっと、私、真っ赤だ。

「ないです」

なんとか出した音は、ぶるぶると震えている。

「そうかィ」
「……あの、あのね、……そのッ、多分……土が、ついてたん、です、よねッ? おじさんの畑で、しろ菜を引っこ抜いたんですよ、そしたら、転んじゃって……多分、それで、」
「……」

鬼狩り様の目が、まただんだんと大きく見開かれていき、真っ白な白目が血走っていった。
そのうち落っこちてしまいそうだ。と思う。
私の顔から、皮の分厚いカサついた手がいなくなっていく。
寂しい、と思うのは可笑しいだろうか。

土のついた顔を見せ、この様子だと、恐らく手で顔を拭ったから、頬やらにもついているのかも。
お尻のあたりなんて、酷いことになっているかも。
それはそれは、恥ずかしい出で立ちなんだろう。
なのに、私は鬼狩り様の手が離れていくのが、なんだか寂しかった。

「悪ィ」
「あの、……私も、……ごめんなさい」

所在無気に宙に浮かされていた鬼狩り様の手は、また転がったしろ菜へと伸びた。
血管が浮き、短く爪の切り揃えられたゴツゴツとした手が、土を払い、優しくしろ菜へとそえられた。
息が詰まって苦しい。
こんなことは初めてだった。
泣きたくなるほど、心臓が痛かった。

「その、……心配、してくれて、……ありがとうございます」
「……してねェ」
「はい」
「……」

クソ、と小さく漏らした鬼狩り様は、すっくと立ち上がる。
影になって顔は見えないけれど、不機嫌そうな声を漏らした鬼狩り様は、スッと私へと手を差し伸べてくださった。

「……ぁ、」

袖口で顔を払い、私はそれに掴まり立つ。
私よりも、頭ひとつ近く大きな鬼狩り様と、顔が近付く。

「これ持って、とっとと帰れェ」
「あの、……ぁ! ありがとうございます! 
あの! おじさんにおひたしにしてやれッて言われているので、それを拵えてからでもいいですか?
あ、かわりに、その、お洗濯!! 洗濯もします!」

私の腕へとしろ菜を押し付けながら、鬼狩り様は顔を顰める。

「だから、要らねェ」
「これを全部おひたしにしたいんです! でも、鬼狩り様は全部は召し上がられないだろうから、って、クニ子お婆さんのところまで持って行ってくれ、って言われていて、……その、……駄目ですか?」

鬼狩り様の眉間には、私が言葉を発する度に皺が刻まれていく。
それはそれは、大きな川のような深さだ。
この辺りだとどの川になるだろうか。

迷惑になっていないだろうか。
と、考えたことは、ある。
迷惑だ、と、実際に言われているのだ。
そりゃあ、考えもする。
けれど、私はこのお節介がどれだけ必要なことかを知っている。
それを教えてくれたのは、奥様であり、旦那様で、荒木のおじさんに、ヤス子さん、クニ子お婆さんに、おじさん。みんなだ。この集落だ。
だから、私はお父とお母がいなくなってからも耐えられたのだ。
星になったのよ、空から見てくれているのよ、と一晩中私の背を擦り、一緒に泣いてくれた奥様が居たから、笑えている。

奥様ほど、なんでも出来る手でもない。
旦那様のように、なんでも包めるほどの大きな手でもない。
荒木のおじさんや、おじさんのように、美味しい野菜は作れない。
村の人達ほど、藤の香を手早く作ることもできない。
そんなちっぽけな手だけれど、鬼狩り様にお節介を焼くことくらいなら、出来ると思う。
そう、思いたいのだ。

私は鬼狩り様に、ひとりぼっちで居てほしくないのだ。
だってひとりぼっちだと思うのは、とっても寂しい事だから。
ここでは、そんな思いをしてほしく無かった。

「……」
「あ!! それか、里中の家で拵えてまた来ます!!
せっかくですし、お着物も預かって洗っちゃいますね!!!
脱いで寄越して下さったら……あ、ここで待ってます! 中で!! 中でッて、ことですよ!!」
「……入れェ」

しぶしぶ。
といった様子であった。
面倒で有るのだろうなということもわかっている。
それでも、受け入れてくださった事に、ようやく息を吐くことが出来た。
先の剣幕で叱られなかった事に私はこっそり胸を撫で下ろした。


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