小説 | ナノ



草履を脱ぎ、通された居間。
その端へと娘から渡されていた重箱を置くと、部屋へとやってきた壮年の女性__恐らくこの家の嫁だろう女だ__が、それを見ては頬を緩々と持ち上げた。

「お腹空いてます? その風呂敷、里中さんのところですね……ふふ、名前ちゃん、また沢山拵えたのねぇ、本当、加減を知らない子ねぇ。もう少しお待ち下さいね」

くすくすと笑うこの家の嫁は、実弥へと柔らかな表情を向けた。

そのうち入れ替わるようにしてやってきた老婆までもが「ようこそおいで下さいまして、ちょっとお待ち下さいねぇ」と実弥へと笑顔を向ける。
自分が人に好かれる見目をしている、とは思っていない。
ましてやこの女たちとは殆ど初対面である。
驚きもしないのか、と実弥自身、表にこそ出さないが、それでも少しばかり舌を巻いた。

「ばぁちゃーーーん!!」
「んー? どしたぁー?」
「母ちゃん居ねぇー!! メシくれぇー!!」
「上がっといでぇ」
「ありがとー!」

遠くから、それこそこの家の外から聞こえる、元気な子供の声と、居間から離れていく老婆の声のやり取りに、実弥は自身の目の前へと腰をかけたきり話す事も無い老爺を見やった。

珍しく座卓があるこの家の居間は、どうやら皆で食卓を囲む場所らしい。
おそらく、あの声の持ち主である子供も来るのであろう。
実弥は直ぐ側の庭へと視線を向けた。
草葉の茂るそこから、毬栗頭がちら、と覗く。
恐らくあの声の子供であろう。

「こうやって、そこいらの子供も来るもんですから、この家ではいつの間にか皆で囲うようになりましてねぇ、」
「……そうですか」

漸く実弥へと視線を向け、座卓を撫でつけながらそう話し始めた老爺に、実弥は一度頷いた。

「さ、どうぞ」

立派な木目の美しい、赤茶けた座卓へと、女の運んだ食事が並べられていく。

「おじゃましますっ!」

そのうち実弥の隣へと腰を下ろした先の老婆とのやり取りの主らしい少年はニッと笑った。
歯が、抜けていた。
この特徴的な面は、先ほども見た。
あの半紙一杯に「ありがたう」とだけ書いたものを、実弥へと見せつけた少年であったろうか。
また同じように屈託なく笑う少年は、実弥の腰すぐ横へと置かれた日輪刀へ向け、指をのばした。

「これ、ホンモノかぁ?」
「……触んじゃねぇぞ」
「そ、そんなに脅かさなくたって良いだろ……」
「これ、坊!!」
「ちぇ」

新聞を広げ始めていた老爺に叱られ、少年は漸く指を引っ込める。
それでも懲りないらしい悪戯ガキは、ひそひそ話しでもするように口元を手で隠し、実弥へと囁く。

「なぁ、……鬼は、怖いのか?」
「……怖かねぇよ」
「なら、強いか?」
「……」

答えあぐねる実弥をちら、と一瞥した老爺は、ばさばさと音を立て、新聞を畳み、脇へと避ける。
そうしてかさかさの手を撫でつけながら静かに言った。
どうやら、この子供の声は殆ど聞こえていたらしかった。

「そりゃあそうだ、じゃなかったら鬼狩り様は、こんなに傷を拵えちゃいないだろうよ」
「そっかぁ」

実弥の腰元へと視線を向けていた少年は、そのまま視線で実弥の形をとっていく。
実弥と視線が合うと、一度だけ口を噤み、一際小さな声で囁くように言う。

「……俺も、鬼狩りになれるか?」
「辞めとけェ」
「滅多な事を言っちゃいかん」

実弥はスッパリと切り捨てた。
老爺にも同じように否定をされては、子供も黙っては居られなかったらしい。

「…………だってよ、」

実弥を睨めつけるように口を尖らせた少年は尚も呟く。

「……鬼狩り様ばっかり、名前姉独り占めしてんだもんな」

狡ぃや。そういったきり、擦りむいた痕が山と見える膝小僧へと、少年は頭をこすりつけていた。
こちらへ覗く耳だけが、真っ赤になって見えている。
まるで気に入りの玩具を取り上げられたとでも言いた気なその仕草は、実弥にも覚えがある。
目の前で湯気を立てる皿を眺めるふりをして、実弥は少年から視線をそらした。

自分にはそのようなつもりもなければ、あの娘子が勝手にしていることだ。
やめろと何度も言っていると言うのに。
そんなに嫌ならてめぇで辞めさせりゃ良いだろうが。寧ろそうしてくれ。
そんなことをどこかで考えながら、実弥は静かに自分の目の前に置かれた箸置きを、睨むように見据えた。

「まぁた、そんな事言うとるから相手にされねぇんだ」

老爺がケタケタと笑い、少年はバッと勢いよく頭を持ち上げた。

「ち、ちがわい!!」

やいのやいのと始まった、からかうのが好きらしい老爺と少年の他愛のないやり取りから、実弥は目を逸らす。
きっと、このくらいだった。
最後に見た玄弥は。
実弥の隣で忙しなく口を開く少年の、まだ変わらない高い声から、意識を背ける。

そんな実弥を知ってか知らずか。
水仕事で少しばかり荒れた手が、食卓へとまた皿を運んでいた。

「お待たせしてしまって、」
「いえ」
「あ、丁度良いわ、タケ坊、父ちゃん呼んできて」
「……おー」

タケ坊と呼ばれた少年は、老爺に「絶対名前姉には言うなよな!!」と吐き捨て、側の縁側から外へと出ていく。
その背中を穏やかな顔で見送る老爺たちから、実弥はまた目を逸らした。

穏やかであった。
ここに、この空間全部に流れる空気すべてが。
まるでぬるま湯のようだ、と思う。

嗅ぎなれない他人の家のにおいが充満している。
炊きたての米の匂いに、昆布出汁の淡いにおい。
開け放たれた戸の向こうから、菜の花の匂いが時折やってくる。
昼時だから、かもしれない。
柔らかな日差しの連れてくる、青葉の匂い。

自分の邸宅では感じない匂いだ。
錆びたような鉄の匂いに、ツンとした消毒液の匂い。
汗と泥の乾きかけた匂い。
少しの湿気た埃の匂い。

今も自分の体からは、そんな匂いがするのではないだろうか。
実弥はまた、全部を振り払うかのように、庭先へと視線を向けた。

ここは、気が遠くなるほどに長閑で、穏やかだ。
居心地が、悪い。

***

そのうち外から、タケ坊と呼ばれていた少年の声がまた聞こえていた。
それに言葉を返す、低い、大人の男の声も聞こえる。
ここの主の声なのであろう。

「鬼狩り様が来てんだぜ!!」
「そうかい。話したか?」
「話した!! すげぇの!」
「そうかい。さ、早う戻れや」
「おう!!」

がさがさと、庭先からまた騒がしい葉の揺れる音を響かせ、タケ坊と呼ばれている少年が顔を見せる。
そこいらで草履を脱ぎ散らかし、そのまま縁側から室内へと入り込んだ。

「おっちゃん来たぞ!」
「ありがとなぁ」

丁度それと殆ど時を同じくして、部屋の奥の扉がスパンと軽やかな音を立てて開いた。
小麦の肌を手ぬぐいで拭き取りながら、やってきた五尺と3寸ほどの、筋肉質な男が、どすんと音を立てて腰を下ろした。

「……」
「挨拶せんかッ!」
「邪魔してます」
「……おぅ」

老爺に、叱責される男へと、実弥は先に軽くだけ、頭を下げる。
もしかせずとも、ここの主であろうその男の態度や表情から見ても、歓迎されていないのは明白だ。

自発的にここに居る訳ではなくとも、せめてこちらから挨拶をするのが筋である、と思ったからに過ぎない。
「向こうさんはしてくれてるぞ」と老爺に肘で突かれながら、「うるせぇ」と男は目の前の湯呑を煽った。

「茶ぁ」

おかわりを要求し、実弥には興味もない、とでも言いた気に男は視線を伏せる。

そのうちやってきた老婆や女が「さ、食べましょ」と口々に言い、席へとついたところでぱちンと手を合わせる音が響き始めた。

「っしゃ! いただきます」
「これッ! 先に父ちゃんと鬼狩り様からや!」

老婆の鋭い声に、実弥の隣に腰掛けたタケ坊は「ちぇ」と口先を尖らせ、実弥を見やる。

「……先にどうぞ」
「いや、……いただきます」
「……」

男からそう促され、数瞬迷いはしたが、実弥は中央に湯気をもうもうと立てる鍋から、適当に出されていた椀へと中身を装うことにした。

ここで引き下がるくらいなら、とっとと食って出よう。
そう思ってのことだ。
そのうち、カチャカチャと、食器のぶつかる音と、はふはふと口の中の熱を逃がす音がしてくる。

「さ、さ、いっぱい食べて下さいね」

にこ、と笑う女の手にするお玉には、「食え」と言わんばかりに中身が入っている。
それが実弥へと向いていた。

「……ありがとうございます」
「いいえ」

実弥と女のやり取りを尻目に、男は鍋から牡丹肉を掬い、口へと放り込む。

「タケ、お前おっかさんどうだ」
「調子いいぜ、ナツも良く泣いてる」
「そりゃ良かった。…………あんたは……大きな怪我は、してねぇのかい」

男の目が、実弥を捉えた。
真っ直ぐな目だ。
敵意が有るわけでも、害意のあるわけでもない、静かな目が実弥を捉えていた。

「心配しなくとも、血ィ垂れ流すほどの怪我なら、この集落に帰って来る気は無いですよ」
「……違う、そうじゃないんだ。……そうじゃねぇ」

椀を置き、箸置きの上へと実弥は静かに箸を揃えた。
「嫌ならそう言え。すぐに出てってやる」とでも言ってしまっても良かった。
だが、座卓へ所狭しと並ぶ皿やら鍋。
それが恒の食事だとは思わない。もしかせずとも、これは自分をもてなそうとしているのだろう。そうわかっていたからだ。
出来る限り、実弥はことを荒立てようとは思わなかった。

この食えない老爺も、名前も、人の言葉を聞かない頑固者だと理解してしまったからだ、というのも恐らく、大きい。
何を言ったところで、都合が悪いと踏めば、聞く耳を持ってもくれないのだろう。
更に言うと、とっとと食って、ここから出たい。とも思ってのことだ。

そんな実弥を見越してか、知らずか。
男は静かに顔を横へ振った。

「あんたが…………鬼狩り様達が、良くやってくれてる事は、わかってんだ。
俺たちにゃ逆立ちしたって出来ねぇことなんだろうよ」
「……」
「鬼狩り様が居ようが居まいが、何かしら起きる時は起きんだ。わかってる。
鬼狩り様がどんな経緯をもって鬼を狩って下さってるか、こんな片田舎で暮らしてる俺にはわからねぇよ。」

そこまで言い、男は箸を止め、手元の茶碗へと視線を落とす。
視線も合いそうには無い。
どうやら言葉を選んでいるらしく、男の視線は覇気無く下がったままだ。

「鬼なんだよ。人じゃねぇんだ。
鬼狩り様が、負けることも有るのかも知れねぇ。
有るんだろうよ。きっと、あんたも嫌というほどに見てきたんだろうよ。
そうやって、死んでいっちまった同胞なんかを」
「……」
「それでも、こうして立ち続けてくれてる。
その理由は他に有るのかも知れねぇ。きっとそうだろうよ。
そりゃそうさ。見知らぬ土地の見知らぬ人間のために、命を懸けようなんて酔狂は、そうあるもんじゃねぇさ。
理由が有ったほうが幾分も健全だろうに。」

そこまで言いのけた男はまた、箸を動かし始めた。
それでも、視線は下がったままだ。
だのに実弥は動けなかった。
言い当てられた事等はどうでも良かった。
玄弥の事を、忘れていた、などということでもない。

「それでも、俺たちは知らねぇとこで助けられてる。
もしかすると、奉公に行った、あんたと歳も変わりゃしない俺の末弟が。もしかすると、村で子供こさえてる三男坊か。
その連れ合いか、連れ合いの親か。」
「……」

男の言葉を飲み下しているうちに、実弥はフッと気が付いてしまったのだ。

「里中さんとこの名前ちゃんを、そろそろ前みたいに屋敷に入れてやっちゃくれねぇかい。
門の前であんたをずっと待ってんだよ、あの子。
俺たちに、礼をさせちゃあ、くれねぇかい。」
「……要らねェ」

認めたくなどない。
こんな村に、集落に、ここの人間には染まるまい、と決めていた。
こんなところで、腰を据えよう等と、間違っても思いやしない。
そう、決めていた。

自分は鬼を狩るためだけに生きている。
生かされている。
それだけでいい。
その事実だけで良かったのに。

男は尚も、言葉を続けていく。
部屋中を、男の言葉が、箸と茶碗のぶつかる軽やかな音が、熱を冷ますための息の音が。
実弥を過去・・へと引きずり込もうとしていた。

「あんたが困ったときに、頼れる存在がこの片田舎の集落じゃ不服かい。
……あんたが、他愛ない話しをするのが、ここいらの人間じゃ、……不服かい」
「困る時なんざねェ。そん時は、腹ぁ切る時くれぇだろうよ」
「……なぁ、飯は? 食えてるかい」
「今、食ってる」

出来る限り、そっけなく答え、ザッと流し込むように椀の中を体内へとねじ込んでいく。
早く出たい。
一刻も速く、ここから立ち去りたい。
その一心であった。

「……温かい飯を、ちゃんと誰かと食べちゃくれねぇか」
「……」
「すまなかった。
確かに、あんたを煙く思ったし、出て行かせろと声を上げたのも、俺が最初だ。名前ちゃんにまで、泣かれちまったさ。
鬼狩り様が悲しい時はどうすんだ、って」
「……ねェよ。……んな時は、死ぬまで来ねぇ。
あんたは、間違ってねぇ。何より守らなきゃいけねぇのが家族だ。
何に変えても、家族だけは守らなきゃなんねぇ。
あんたの言うのは最もだろうよ。あんたが正しい」

実弥はそう冷たく吐き捨てるが、その間もこめかみを汗が伝っていく。
男は知ってか知らずか。尚も言葉を紡ぐ。

「俺も、そう思ってたんだがな。
……名前ちゃんが、泣くんだよ。鬼狩り様も、誰かの子供だ、誰かの家族だ。誰かの大切な人なんだ、ってなぁ。
……そりゃあ、ハッとしたさ……」
「なぁ、……こうして、一緒に温かい飯を食うのは、家族だろう?」
「……」
「あんたは"鬼狩り様"じゃねぇ。
厚かましいが、ここの家族だ。この集落の、ここいらの……みんなの家族だ。」
「……」
「だから、俺は……俺たちはあんたも守らなくちゃいけねぇよ」
「……」
「そう思っちゃ、いけねぇかい?」

いちいち、反応を伺うように言葉を区切りつつも言い切った男に、実弥は何も言葉を返せなかった。
茶碗をまた座卓へと置き直し、いつの間にか下がりきっていた視線を、実弥はのろのろと持ち上げていった。
目があった。
男の目は、もうとっくに鋭さを隠している。
寧ろ、どこか晴れ晴れとしている。
最初からそうだったのか、話しているうちに、そうなってしまっているのか。
それはもう、実弥にはわからなかった。

女の「タケ坊、これ美味しいよ」と子供へと野菜を食わそうとする、気遣わし気な声が、小さな音でしている。
実弥たちに気を使っているのだろう。
それすらも、"日常"であった。

「また、食いに来てくれや。……俺の作る野菜のが、荒木の野郎のとこんより、美味いからな」
「俺は、……ッ! 俺には! 家族なんざ居ねぇ! 要らねェ!!」

全てがうんざりだった。

気が付きたくなどなかった。
ここは、実弥の理想としていた"家族・・"の形が揃っていた。

弟妹を喪っていない、母を手にもかけていない、ましてや弟を一人残して姿を消してもいない。
そんな事があれば、たとえば、そういったこと全てが無ければ。
もしかせずとも、或いはこうだったのかも知れない。

こんなに贅沢なものはきっと食べられなかったのだろうが、温かい飯は食べられたろう。
祖父も祖母も居なかったが、母親は居た。
末弟に、就也に「さ、なんでもお食べ」と、お袋は笑っていたかもしれない。
玄弥が、また「じきにスイカの季節だな」と笑っていたかもしれない。
俺の帰りを、弟妹が笑顔で迎えてくれたのかも、知れない。

実弥はすっくと立ち上がり、刀を強く握りしめる。

男は静かに箸で米をつまみ、言った。
そこに、実弥を恐れる様子は微塵も感じられなかった。

「なら俺が勝手にそう思っておくさ。俺はコウサクってんだ。あんたは?」
「……」
「名前を、教えちゃくれねぇか」
「必要ねェだろォ」
「……そうかい。」

コウサクと名乗った男は、また口へと米を放り込む。
実弥は恐ろしかった。

いつの間にか、自分はこの村で、この集落で、平然とこれを受け入れようとしていた。
その事実が恐ろしかった。
誰かと食事をともにし、子供の笑い声をそばで聞き、父親の方がきっと、歳も近かったであろう男と会話などをしている。
温かい食事を、皆で囲んでいる。
それだけのことであったはずだ。

たった、それだけのことだ。

「……馳走でした」

それだけを伝え、実弥は頭も程々に下げてすぐ。老爺たちの住む家を後にした。

初めてのことだ。
集落の中だというのに、己の出せる最大限の速度をもってして与えられた屋敷へと向かう。

あふれるものは堪えきれず、ついには頬をぼろぼろと濡らしていった。

実弥は気がついていた。
眠りこけた名前を背負い、顔を緩めてしまっていた事も。
湯気の立つ鍋を誰かと囲い、弟妹を思い起こしていた事も。
頬が緩んだことも。
コウサクが「家族だ」だのと宣った時に、目頭がツンとしたことも。
タケ坊が隣で「うめぇな!」と笑いかけてくる事を、うっとおしく思うこともなかったことも。

いっそ、すべてが尊いものだと感じてしまっていたことも。

鬼さえ狩れればそれだけで良かったのだ。
それ以上は、何も求めていない。
己のこれからに、それ以上を求めてなど居ないのに。
それ以外は必要ない。
要らないのだ。
何度も何度もそう、言いきかせてきたというのに。

だというのに。

性懲りも無く、また大切なものを作ろうとしている。

そんな暇など、一寸たりとて無いだろうが。
そう頭では考えている。

だというのに、あの娘子の、名前の拵えた牡丹餅の入った重箱を、あの家に忘れたことなぞを、どうしようもない頭で思い出していた。
あの家で感じた匂いなどを、思い出していた。
「鬼狩り様ぁ!!」と己を呼ぶ、間の抜けた高らかな声を、思い出していた。

「……クソがァ、……ッ、ぐ、……っ、」

簡単には止まってはくれない涙を、上着で何度も拭い払う。
呼吸の扱いには慣れている。
そのはずだ。

ただ、鬼を狩る事だけ。
それだけに、集中しろ。

全部、忘れちまえ。と、顔を拭った上着を、水の溜まっていた桶へと捩じ込んだ。
泣いちゃいねぇ。
笑っちゃいねぇ。
何も、感じちゃいねぇ。
何度も何度も、また言いきかせる。

すぐに忘れようとする、馬鹿な頭に詰まる味噌に、「てめぇにそんな価値はねぇ」と、言いきかせる。

だのに、息が酷く苦しかった。


次へ
戻る
目次

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -