小説 | ナノ



そろそろ陽も登り切った頃合い。
少し前に遠くから見た時計塔の時刻は十を指していたから、恐らく今は十時を四半刻程超えた頃ではないだろうか。

実弥は漸く見知った山間。自身の邸宅のある集落の裏側まで帰ってきていた。
丁度山の脇から回り込むように歩いていた。
本来であれば、麓の村沿いに帰ってきた方が今回の道程なら、もう幾分か速く帰る事が出来たことは理解していたのだが、実弥はあえてそうしなかった。
怪我をしているわけでも、日暮れ時でもない。雨も降っていなければ、陽が射している。
それでも村を通らないのは、以前通った際に、「鬼狩り様」だのと寄ってきた人間があれもこれもとものを持ち寄り、「どうぞお持ちください」「良ければお召し上がりください」だのと貢物が後を絶たなかったからだ。

自分はそんなに信仰されるようなものでもなければ、誰かにありがたがられる程の事をしているわけでも無い。
だんだんと嫌気がさしてきたから、それ以降はこうしてわざわざ遠回りをするようになっていた。

そうすると、山菜取りにはもってこいの場所らしい、山の中腹あたりで滑落した女を見かけた。
それがあのヤス子と言う夫人であった。
それ以降は、なんとは無しに、そこを通るようになっていた。
案の定、里中の家からよくよく自身の宅まで使いとして来ている娘が今度は転がり落ちていたのだ。

恐らく、また自分に何かを拵えようと採りに来ていたのだろう。
そう思い至るのは明白の理であった。

滑落の対策の為に杭を打ち込み、綱を張った。
それでもこうして、同じ道を通り帰る。
別段、何かを意識しているわけでは無い。
ただただ、癖となっているだけであろう。
不死川実弥はそう考える。


そうして今日とて同じ道をいつもと変りなく、同じように歩き帰っていた。
そろそろ湿気が出ている気がするのは、日が当たるとしっとりと汗をかく季節を迎えようとしているから、かもしれない。

日が差し込むように、視界の左上部をちらつくようになったころ。

口の前で左の手を構え、右の手をぶんぶんと高く振り回しながら声を張り上げる娘がいた。
名前だ。

「おにがりさまぁ!!」

傍の切り株へと置いてあったらしい風呂敷へと包まれた何某__まあ、重箱であろう、と実弥はもうわかっていた__を持ち上げた名前は、それを抱え上げ、ぱたぱたと走り寄ってくる。

「鬼狩り様ッ! おかえりなさいませ!」

にこ、と人好きのする笑みを零す娘にやっていた視線を少しばかりそらしてから、実弥は小さな声で「おう」とだけ答えた。

「今日はね、牡丹餅を拵えたんですよ! せっかくですし、休憩がてらそこで食べませんか?」

それがしたくて娘はそこの切り株へと腰を下ろし、実弥を待っていたらしい。
合点の行った実弥は「しねぇ」とでも返そうと口を開きかけたが、既に腰を下ろし、「さ、」とぽんぽんと隣を叩く娘に、とうとうそれは口の外へと漏れ出なかった。

腰を下ろしたところで、サッと重箱の包みは解かれ、中からきれいに粒の揃った牡丹餅が顔をのぞかせる。

「昨日クニ子おばあさんにあんこをいただいたんですよ、だから鬼狩り様に拵えなくちゃ! と思ったんですよぅ」

へへ、と口元を緩める娘がずい、と差し出してきたものに、観念した実弥は「頂きます」とだけ呟くように手を合わせた。
箸やら楊枝も見当たらないものであるから、そのまま親指と人差し指でむんずと摘み上げ、甘い砂糖の香り立つそれを、口の中へと放り込んだ。

「うめぇ」
「わ! クニ子おばあさんにも言っておきます!」
「……」


ここを少し下れば、名前の言う、クニ子さんとやらの家が見えてくる。
とは言え、ここから既に家の屋根やらは見えているのではあるが。

丁度、そのあたり。下の方から子供の声がする。
きっと、そろそろ昼時になる。
尋常学校の真似事をしているようなそこから、家へと帰っているのだろう。

隣で名前は立ち上がり、少し足を進めながら「おーい!」と子供らへと向け、手を振っていた。

「おい」
「大丈夫ですよぅ!」

実弥の咎める声もものともせず、名前はただただそう笑っている。
ため息を吐き落とした実弥はまた一つ、牡丹餅を口へと放り込んだ。

そのうちバタバタとした足音が複数やってきたかと思うと、実弥の目に一番に飛び込んできたのは歯の抜けた隙間を見せ、悪戯気に笑う少年だった。バラガキだ。
実弥の前に、ぱんッと乾いた音を鳴らしながら半紙を見せつけ、そのまま実弥が平素からこれでもかと前を寛げた黒の詰襟の腹部へと捻じ込むかのようにそれを突っ込んだ。

「うりゃッ!!」
「オイ……」

指についた餡子をどうにかしないと、子供も紙もどうにもできず、実弥が指を舐った頃合い。
その少年に続けと言わんばかりに、実弥へと見せつけた半紙を実弥の傍へと置いてみたり、同じように服へと捻じ込んでみたり。
いかにも様々な方法で実弥へと字の書いてある半紙を、子供たちは置き渡していった。

「これ!」
「手習いでがんばったんだぜ!」
「これ、いつもありがとう!」
「お兄ちゃん、ありがとねぇ……!!」

嵐のように過ぎ去っていく少年たちを見送ったのは、実弥だけでは無かった。
隣へと腰を下ろした名前が、まぶしそうに眼を細めて笑う。

「ほら! 大丈夫だったでしょう?」

実弥はそれに返事を返すことが出来なかった。
それを誤魔化すように、視線は先ほど貰った紙へと送り、また牡丹餅を一つ、指に摘んでは口へと放り込んだ。

(甘ェ……)
「甘過ぎだァ」
「……」

てっきり、「そんな事、ありませんよぅ」だとか、「そうですかぁ?」と、間の抜けた間延びする声が返ってくる、と思っていたのだが、とうとうその声は聞こえては来なかった。
代わりにとでも言えばいいのだろうか。
左肩へと、ずし、とした重みのあるものが乗ってくる。
見なくともわかったその存在へと苦言を呈するため、実弥は息を吐き捨てながら、そちらへと視線を送った。

「お、……」
「……んんぅ、」

言葉は最後まで紡がれることは無い。
小さな唸り声の持ち主である名前が、目をきつく閉じ、夢の世界へと身を投じていたからだ。

膝下に転がった娘っ子の細っこい、自分よりも一回りも二回りも小さな手。
かさついた手のひらだった。
実弥が覗き込むように顔を見てやると、隈も出来てる。

「めんどくせェ……」

本心であった。
ただ、それはただただ面倒であった、と言うわけでは無い。
実弥自身の意識してしまっている何某について、__つまりは、今抱えた気持ちについて__であった。


カァ
と頭上で鴉が舞っている。
爽籟だ。
速く帰りたい、と言う事であろうか。
それともこの女を送っていけ、とでも言いたいのであろうか。
考えあぐねていた実弥は、静かに空を仰ぐ。
その視線をもものともせず、爽籟はまた一つ、カァとだけ鳴いた。

どうも、意思の疎通を図る気も無いらしい。
実弥はそう合点をつけ、未だ隣で寝こける名前へともう一度視線をやった。

「オイ」
「ん、ぅ……」

揺らしても起きる気配のない名前の姿に、実弥は舌を打った。
お重を風呂敷に包み直し、娘を背負う。
名前の腕を自身の首元へと回し、腰元を片腕だけで支えながら、実弥は静かに里中の家へと続く山道を下り始めた。
暫く歩き、丁度、神社と自宅の分かれ道まで辿り着いたところで、はたと足を止めた。

自分は今、集落では見られると良い顔はされないだろう。
それを実弥は理解していた。
あれから幾分か、それこそ一月や二月は経っている。
じき、雨の季節になるのだ。

それに背負われてるとあっては、この娘も、面倒なのではないだろうか。
幸いにも、すぐ傍見えるところに神社もある。
こんなところで不埒な考えを持つ輩もいないだろう。それに、爽籟に頼み、しばらくは見張らせておけばいい。
そう思い至り、実弥が名前を下ろそうと体を屈めかけたところで、老人の嗄れた声が実弥を呼んだ。

「ちょいと、鬼狩り様」
「……」
「この老いぼれを家まで送っておくれや」
「……」

殆ど瞳も見えない程に目を撓らせる白髪の老体は、見覚えがあった。
(たしか、あの手習いのクニ子婆さんだとか呼ばれた婆さんと共に住んでいたなァ)
そこまで考えていると、その老体は実弥の肩へと一度、手を乗せた。

「頼んでも、いいだろうかな?」
「……ええ」

実弥はそれから無言で足を進めた。

「先に里中さんのとこまで行ってやろうかねぇ」

なぁ、鬼狩り様、とまた笑う老爺は腕を後ろ手に組み、静かに実弥の半歩前を歩く。

「鬼狩り様は、名前ちゃんがあんさんと一緒に居ることで、皆が何かを噂しかねんと考えてくださっとるんだろうがね、儂らもわかっとるよ」
「……」
「名前ちゃん、良い娘でしょ」
「……」
「名前ちゃん、言うたら嫌がるんやろうけどな、毎日ここいら全部の家に、藤の香を持っていって、頭下げて回ってたんですよ」
「……」
「里中さんの手を煩わせる訳には行きません、言うて、毎朝家の仕度終えたら村まで降りて、藤の香を作ってる家まで行っては、習って来てなぁ」
「……」
「毎日あちこち回っては、『これで安心でしょう? だから、鬼狩り様を悪く言わないで』言うて。儂らもわかっとるよ。倅が言うこともわかる。
あんさんが、優しいことも、もう、みんな知っとる。名前ちゃんが、こんなに必死になってるんやもんな」

始めてもたらされる情報に、実弥は顔を顰めていく。

「……頼んでねェ」

唸るようにして出した声は、相当に不機嫌な音を出している。
それでも老爺はそれすらもものともせずに、はははと笑い声を上げた上で続けた。

「そらそうでしょう。あんさんがそんな人なら、名前ちゃんも、血相変えて頼み込みに来ませんて」
「……」
「愛されてるんやなぁ」
「……」

実弥はその言葉に、思わず足を止めた。
それをわかっていたかのように振り返った老爺は、実弥の顔を見てから、また頬を緩める。

「若いのは、ええのぅ」
「……」

実弥はやはり、それに何も言える事は無かった。
その後は何も言わず、ただただ実弥の半歩前をひた歩いていた老体が、一軒の家の門を前に、動きを止めた。

「ついたついた」

背中をさすりながら、「里中さぁん」と声を張った老爺の声に呼応し、家の中から聞き知った高い声が響いた。

***

「マ!! 本当に! この子ったら!!」

実弥と老爺を見た里中の夫人の第一声はそれであった。

「まぁまぁ、毎日頑張ってくれてるんやから」
「……そうは言いましても……鬼狩り様、本当にご迷惑かけまして」
「いえ」

それを宥める老爺に、呆れた、とでも言いたげな目を名前へと向けた夫人は実弥へと頭をそれは深くまで下げる。
実弥は一度だけ、首を横へと振った。


「こちら、お願い出来ますか」
「はい」

通された玄関直ぐ。四畳ほどの一室へと敷かれた布団の上へと実弥は娘の体を下ろす。

「ごめんなさいね、もう重くなってしまってるから、担げる自信もなくて……」
「いえ」

直ぐに夫人が襖を閉めたのは、年頃の娘子の事を考えての事であろう。

「お茶でも……」

実弥の顔色を伺うかのように申し出る夫人を断ったのは、玄関先で腰を下ろした老爺であった。

「あぁ、良い良い! 儂が送ってくれ、言うてますから!」
「はぁ、そうですか?」
「ん、そしたら、名前ちゃんに宜しく」
「ええ」

老爺と夫人のやり取りの後、門前まで見送っている夫人へと一度軽く頭を下げると夫人は先よりも深く、それこそ実弥の姿が見えなくなるまで頭を下げていた。


「あ、あれが倅ですねや」
「……」

里中の家から暫く歩くと、段々畑が顔をのぞかせる。
その一角を、老爺は指をさす。
老爺の指の先に居た男は着流しの裾を帯へと引っ掛け、太ももまで覗かせた出で立ちでこちらをねめつけ、首へと引っ掛けた手ぬぐいで汗を拭っている。
実弥は小さく頭を下げる。

「挨拶せんかっ!!」
「……」

老爺の突然の怒声。
しおれ枯れたような、今にも折れてしまいそうな体からは考えられない程の迫力であった。
それに、少し離れた場所に居たその男だけではない。実弥までもが肩を浮かせた。

老爺が「倅だ」と言う男が頷くように頭を下げるのを見た。
老爺は、納得したのか、うんうんと幾度も頷き、実弥の真白い羽織の袖を引き、また歩き始めた。

「あれも自分が一番言うてたもんやから、拳の落とし所がわかりませんのや。まだまだ子供です」
「……」
「ここです」

老爺は慣れた手つきで玄関を開け、中へと入っていく。
手習いをしてるのだ、といつか名前が言っていた家だ。

「さ、上がって下さい」
「いや、俺は」

腕を後ろへと組み、一度頷いた老爺は実弥の言葉を聞き入れることなく、また口を開く。

「カミさんがあんさんに食わせてやる、言うて昨日の晩から大根煮込んでますねや」
「……」
「食うてやってくれますか」
「……」

人すきのする笑みを浮かべた老爺が、どこか名前と重なった。
実弥はこうして慣れあってやるつもりなどは無かった。
だが、こうして老人と話しをしていれば、こうなってしまうことなどわかっていたのに、どうしてここまでついて来てやってしまったのだ。
そう自分を責めたくなったが、この老爺も人が悪い。
断りにくい言い回しで人を動かすのだ。

今回ばかりは、突っぱねるわけにもいくまい。
そう腹を括った実弥は頭を下げ、框へと腰を下ろした。

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