小説 | ナノ



門の内側。
屋敷の敷地内とはいえ、歳頃の女がめそめそと泣いているのを、実弥はどうにかしたかった。
見ている人間は居ない。
詰まるところ、この女がなにかしらと恥をかく恐れもない。
それならばもう、放っておいた方が良いのかもしれない。
どこかでそう思う。

だが、この女の泣いている原因はおそらく__言い換えよう__。間違いなく自分だ。そう思うと、罰が悪かった。

ここで放って置くのは容易だろう。
そうすれば、懲りてもう来なくなるのかもしれない。
一塵もそう思わないのか、と問われればそんなことはない。それとて、考えた。
だが、こんなに凄み、撥ね付け、明確に拒否の姿勢をとろうとも、この女はまるで阿呆のようにへら、と笑い、「ごはんです」などと重箱を持ってくる。

残すわけにいかないから、食っている。それだけだ。
食事を馳走になったから、礼をしている。それだけだった。
ガキがそこいらをちょろちょろしている。それを時たま弟妹の姿と重ねたから、思うところがあった。
それだけだったのだ。

それは里中の夫人が相手でも変わらない。

別に優しさでもって何かをしているつもりなど、これぽっちも無いのだ。
それを『お優しい』だのと。
そう吐き違えているだけだ。

本当に優しい人間なら、人の居ないところへと居を構え直すだろうよ。
本当に優しい人間なら、こんなところに留まっちゃ居ないだろうよ。
本当に優しければ、今もこの女を、敢えて見捨てるのかもしれない。

実弥は、差し出したまま引っ込めることの出来なかった黒ずんだ手巾で名前の頬を拭い取った。

ざぁざぁと降りしきる雨の中だと、まるで意味は無いのだろうが。
名前の頑固さには己が折れる以外の選択肢など与えられてはいないのだろう。

それを、実弥は知っていた。
よく笑い、訳の分からない事で怒り、世話を焼きたがる兄弟子のようだった。
にこにこと人好きの笑みを浮かべるくせに、「不死川くん」と己を臆することなく呼びつけ、治療をさせろとぷりぷりと怒っていた、あの女・・・のようであった。

しっかり者の寿美の影に隠れ、すぐにびぃびぃと泣く、妹の貞子のようでもあった。

本当は、実弥は名前の泣き顔には滅法弱いのだ。
それを実弥はわかっていた。
ここまで赤の他人を幾重にも重ねて見ているのだ。

名前は特筆して、あの胡蝶姉程の美人というわけでもない。
匡近のように、豪胆さを持っているわけでもない。__いや、実弥に臆せず向かってくるあたり、或いは豪胆さも、持ち合わせているのかも知れないが__。
とにかく、だ。貞子ほど、幼くもない。

そんな事は実弥もわかっている。

それでも降りしきる雨の中、大切そうに抱えた重箱の中身が、いつか名前の言っていたよもぎ餅だと言われると、いつか名前を背負い、「今度なァ」等と無責任なことを言った事をすら、思い出された。

畜生、と悪態を吐きたかった。
どんなつもりだったのか、そんなことは覚えちゃいない。
ただ、そんなつもりではなかったのだ。

それでも、それが通じる相手であれば、そもそも名前はここに居ないだろう。

そう考えると、もう家に招き入れる以外の選択肢が、この土砂降りの雨の中では消え失せてしまっていた。

「てめぇはどう言やァ離れてくんだァ? アァ?」

適当に名前の顔を拭いきった実弥は、そう吐き捨てながらも腰を上げることにした。
名前の手元の重箱を引っ掴み、玄関を開け放った。

「どうしてそんなこと言うんですか! 寂しいですよぅ!」
「誰がだよ」

ぐずぐずと鼻を啜りながらも、背中に投げつけられた女の言葉には振り返らずに言葉だけを返し、いつものように勝手の台の上へと重箱を置いた。
そうして今度もその横へと、ガラス瓶にぎっしりと入った、金平糖を置く。

いつまでもその場を動こうとしない名前の気配に舌をうち、とうとう実弥は振り返った。
__やはり、この女は苦手だ。
実弥は静かに睫毛を一度、下ろした。

「入れェ……とっととしねぇと、風邪引くだろがァ」
「……あの! お、お邪魔します!!」

所在無げに、不安そうな顔を作っていた名前は、玄関前で勢いよく頭を下げた。
桃色の着物はぐっしょりと濡れそぼり、沈んだ色味へと姿を変えている。
玄関の外で引っ詰めた髪から滴る水を絞り、中へ入ってきた名前へと、実弥は手近な手拭いを投げるように渡し、肌に張り付く不快にも程がある羽織を脱いだ。

「ほっといて、邪魔さえしてくれなけりゃァそれで十分だ」

流しで羽織の水気を絞り切り、名前へと視線をやったが、実弥はすぐさまに後悔した。
口元をぷう、と膨らませ、「今から泣きます!」とでも言いた気な名前の表情には、もう、うんざりであったのだ。

この表情を見るたびに、何度でも「泣いてんじゃねぇよ」と頭を撫でてやりたくなる。
「兄ちゃんを見てろよ、こうすんだ」
と、出来ないとぐずった弟妹の手本に何度だってなってやった事を思い起こさせる。
__だから、この女は苦手だ。
実弥はまた、大きく息を吐き捨てた。

「……適当な着流しでも、引っ張り出して着てろ。……乾いたら、出てけよォ」
「ありがとうございます」

ぺこ、と頭を下げた名前は素直に着物の裾をまた玄関の外で絞り、足を手ぬぐいで拭い上げた。
そのまま奥間へと引っ込み、暫く実弥の着流しを不格好に纏った名前は、手に実弥の為だと思われる着流しを持ち、やってきた。

「ついでですし、お手当てしましょうよ!」

にこ、とさっきまでの不貞腐れた態度は無かったことだ。とでも言うように、実弥の脇に着流しを置き、そそくさと手当ての準備をし始める。
「しまった」と、実弥は舌をうちそうになっていた。

名前から手渡された手拭いで乱雑に頭やら腕を拭い、実弥は項垂れる。

「あれッ!! お疲れなんです? なら早く済ませなくちゃですね!!」
「……」
「軟膏と、これが消毒と……」
「なァ」

濡髪を振り機嫌良く動く名前の背中へと、実弥は静かに話し始めた。

「こんなことも、しなくて良ィ」
「……」名前も、はたと手を止める。
「俺を怖がってたんだろォが。……そのまま来なけりゃ良かったじゃねぇか」
「……でも」

実弥を振り返る名前の目は、矢張り匡近のそれとよく似ていた。
人との距離なんて関係ない。自分から縮めりゃいいだろう? とでも言いた気な。
酷く素直な、真っ直ぐな目をしているのだ。
その目を、実弥はよく覚えていた。

「それじゃあ、鬼狩り様が寂しいじゃないですか」
「ねぇよ。ンな覚悟でやってねェ」
「……」
「俺は鬼さえ殺せりゃそれで良ィ」

無意識か、意識的にか。
実弥にももうわからなくなっていたが、反らしていた視線を合わせると、名前はまた、ぷう、と頬を膨らませて「不服です」の表情を作っている。

「でも、それじゃあ、……私が寂しいです」
「それこそ知ったこっちゃねぇよ」

もう、このやり取りもしたくない。
__面倒くせェ。
そう蹴散らしてしまいたかった実弥は、さっさと黒の詰め襟も脱ぎ落とし、框へと腰を落とした。
どすンと重たいものが落ちるのと同じような音が響く。
ぷい、と名前から顔を背けた実弥の全身を上から下まで見た名前は、ぶる、と体を一度、震わせた。

「ぎゃぁ!!! けッ、怪我が!!! ふえ……増えてッ!!!」
「うぜぇ」
「もぉぉう!!! お手当てきちんと・・・・して来て下さいってばぁ!!」
「……」
「そんなだから、……そんなだから心配するんじゃないですか!! 鬼狩り様ッ、あの日! 死にかけてたんですよ?! 
わかってます?!!」

今度は名前が叫ぶ番であった。
あちらこちらに乱雑に施した治療の痕は、お世辞にもキレイとは言い難いものであったからだ。
傷口を焼いただけのものもある。
火傷痕まで残っている始末だ。確か、一昨日のものだ。と、実弥はこっそりと胸中で振り返った。

あまりにも話しを聞こうともしてくれない実弥への仕返しのつもりか、名前はそこへ、胡蝶しのぶが寄越していたらしい途轍もなく滲みると噂の消毒液をぶっかけた。

「だから、……そんな覚悟でやってねぇつってんだァ!! イッ!! ……てめぇ……」
「鬼狩り様が悪いんですッ! なぁーーんにもわかってくださってない!!」
「ア?」

実弥の凄む声にすら動じなくなってきている名前に、矢張り実弥は舌打ちを落とす。

「ヤス子さん、泣いてましたからねッ!」
「……」
「こんなになってしまうなら、やっぱり自分が知らないフリをしていれば良かったって!!
今もここへ毎日野菜を持ってきてるのは、荒木のおじさんなんですよ!
奥様も! ……私も毎朝鬼狩り様へのお重を詰めてます。
クニ子ばあのとこへ手習いに行ってる子供たち、今あなたへの手紙を書くための字の練習してるんですよ……。」
「……」
「キヤラメルありがたうって、何度も書いて練習してるんですッ」
「……」
「もう、鬼狩り様が優しい方だって、……みんな知ってるもん」
「……」
「今更脅かしたって、『不器用なひと!』ッて、それで終わっちゃうんですからねッ!!」
「なら、どうすりゃ良い」

実弥は自分でも瞠目する程に静かな声を出していた。

「……」
「なら、……どうすれば良かったってんだァ」
「どう、……って、そんな……」
「どうすりゃァ、ひとりにしてくれんだァ」
「しません。
絶対に、鬼狩り様をひとりぼっちになんて、させません。」

真っ直ぐに傷口へと向けられていた名前の視線は、「諦めてください」と、実弥への言葉を紡ぎながら、実弥のそれと絡まった。
視線の一つもそらさないままに、名前はまた、ぽつぽつと話しはじめる。

「どうすれば良かった、って。
……もてなされていればよかったんですよ。
奥様、歓迎の宴のお誘いに来てたんでしょう?
そしたら、……そうしたら、もっともっと皆が、鬼狩り様を知れてたのに。
そうしたら、そうしたらね、……鬼狩り様を皆で支えようねって、今よりもっともっと……」

そのうち真新しい傷口へと消毒液を染み込ませた手拭いを押しあて、軟膏を塗り、包帯を巻き始める名前の手付きを視界の端に捉えながら、実弥は名前の震える声をただ静かに聞いた。

「要らねぇんだよ、そんなのァ」

要らねェ。
もう一度、実弥がそう静かに告げると、名前は眉をひそめ、震える息を吐き出していた。

「あの、」
「どうすりゃほっといてくれんだ」

名前の言葉すら遮り、睫毛が視界の半分を覆う中、実弥は静かに名前を見据える。

「もう……これ以上踏み込んで来んな」

頼むから。
口からそう、静かにこぼれた。

過去を向いている暇などない。
そんな暇が有るのなら、その間にしなくてはならないことも、出来ることも山とある。
実弥はそれをよくわかっている。
匡近を懐かしむのも、あの女・・・を偲ぶのも、弟妹へ想いを馳せるのも、今すべきことではない。

だというのに、名前の全てがその時に実弥を戻そうとする。
実弥はそれが、怖かった。

泣き縋り、どうして死んだ、と匡近への言葉を、何故とっとと鬼殺なんざ辞めちゃくれなかった、とあの女・・・への本音を、護れなくてごめん、申し訳なかった、と弟妹への懺悔を、ぶちまけてしまいそうだったからだ。

立てなくなってしまいそうだったからだ。

きっと、ひとりきりで泣かせてしまったであろう玄弥を、裏切ってしまいそうになるからだ。

実弥の言葉に、名前はぶんぶんと首を横へと振った。

「もう、無理です」

珍しくも、凛とした声だった。
本当に名前が出したのか、とさえ疑わしく思いそうなほどには。

「私、もう……鬼狩り様が大事だもの」
「……」
「私……もう、鬼狩り様を放っておくなんて、……私……私ね、毎日、奥様の持って帰って来た重箱の中を見ていたんです。
今日も空っぽかなぁ、って。
全部平らげられるくらい元気なんだ! って。
いつも、お握りを包みに包んでたんです。
ちょっと塩を多めにしてね、少しでも疲れが取れますように、って。」

名前の震える手が、また包帯を巻いていく。

「……あれは、……ちィとしょっぺェ」
「っ、へへ、……でも、それでもね、
……毎日、毎日ね、無事戻られますようにって、
鬼狩り様が明日も、立てますように、って。
鬼狩り様が、これからも、たくさん鬼を退治できますように、って。思いながら握ってたんですよぅ」

実弥は少し、息を止めた。
「大事だ」と、名前にそう告げられた時、実弥はいつしか藤の花の家紋の家やら、あの女・・・に、__胡蝶カナエに__言われたことを思い出していた。
「『少し、やすんでもいいのよ』」
「『少しは立ち止まってもいいのよ』」
その言葉を聞くたびに、実弥は叫びあげたくなっていた。

なら、玄弥はどうなる!!
玄弥を誰がまもるってぇんだ!! と。
ずっと、そう言葉をかけられるたびに、「もういいか?」「疲れたろ」と、どこかでクソ野郎・・・・が囁いていた。
そのたび、実弥は何度も己を叩き上げたくなっていた。
そのクソ野郎が、自分自身だと痛いくらいにわかっていたからだ。

てめぇ一人で楽になろうって、ンな舐めた考え持つんじゃねぇよ。
何度も何度もその思考を持つ度に、まるで八つ当たりのように鬼を探し、斬っていたからだ。

今度は、名前がそうして実弥を引き留めようとする。
そう、どこかで思っていた。
だから、嫌だったのだ。と。

だが、そうではなかった。

実弥は、未だ包帯を震える手で結ぶ名前から、包帯の切れ端を抜き取り、適当に結びあげた。

「……ンな頑固だと、貰い手無くなんぞォ」
「それこそ、望んでません!
私だって、先のことくらい……ちょっとは考えてますよぅ。
……奥様の……その、……私は自分の意志で奥様のもとを去る気なんて無いんです。だから、頑固でも困らないんです!」
「……」

ぷっ、とまた膨れる頬に、今度こそ実弥は「プッ」と笑った。
ここ・・は、大丈夫だ、と。
ここ・・なら、また立てる。と。

勿論、問題はそればかりではない。
名前が実弥に触れ、手当てをするたびに、どこかにひと雫でも血が着いて、それが残ってしまえばそれはたちまち脅威となる。
自分のせいで、誰かが恐ろしい目にあってしまうかもしれない。
その事実は変わらない。

関わらない方が賢明だ。
少しでも、喪いたくないと思うのなら、尚更。

「じゃあ、その……今日は帰りますね」
「手洗ったろォなァ」
「それはもう、美しく!!」
「ん、……もうくんなァ」
「また明日! また来ますねぇ!」
「くんなァ」

いつの間にか雨もやみ、晴れ空のもと駆けていく名前の後ろ姿を見送り、名前の姿が見えなくなってから、名前の置いていった重箱を実弥は開けた。

「誰がこんなに食うんだァ……」

ぼり、と頭をひっかき、実弥は大振りな餅を、ぽいと口へ放り込んだ。

「うめェ」

問題は山とある。
例えば筆頭は、名前がここへ来るのを諦めるよう仕向けることである、だとか。
柱となったのだ。
はやく玄弥を見つけ、無事の確認だけでもしておきたい。ということであるとか。

それでも今日は、もう眠ってしまいたかった。
不快な感覚の無いうちに。

また餅を一つ頬張り、実弥は寝室へと向かった。

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