小説 | ナノ



四月も終わりを迎えようかと言う頃合い。
山菜を採りに行っていたらしいヤス子さんが、昨夜ヨモギを蒸していたようで、ヨモギのいい香りが裏手のここ、里中の家まで漂っていた。
明日はヨモギ餅でも拵えよう。
鬼狩り様は、召し上がられるだろうか。
いつも空っぽになる重箱。
底にはおこわやら、餅を入れる事もある。
一度として残っていたためしがないのだから、鬼狩り様はきっと全部召し上がってくれているんだろう。
そう思うと、出来る限りは違うものを詰めたい。欲を言うのであれば、今日は何が詰まっているのだろう、と楽しみにしていてくださると嬉しい。
と、出来るだけの趣向を凝らしていってしまうのは特段普通の事であろう。
少し早いが、布団へと沈めようとしていた体を持ち上げ直し、もち米の準備でもしておこうか、と私は厨へと向かっていた。

□□□□■

まだ、日の浅い夜明け過ぎであった。
四月ともなると、それなりに朝も早まってくる。
丁度明るくなりきる頃には、竹で編まれた籠を片手に私は山へと向かっていた。
もう桜は殆どが散り、新しい若い葉を青々と芽吹かせようとしている。
それと入れ替わるように、いつか鬼狩り様と立ち止まって見た藤棚の群れが淡い紫へと姿を変えようとしている。
私はこの、桜の命を吸い取っていくかのように色付いていく藤棚を眺めるのが好きだった。
季節の移ろいが一等美しく表れている瞬間だと思うのだ。

「鬼狩り様は、見たかな……」

見ていると良いなぁ、と次に会ったときは聞いてみようか。と、話題を探しているのが、なんだかとても恥ずかしい。
籠をひっしと掴み直し、先よりも速く足を進めた。

さわさわと少し離れた場所から川のせせらぎが聞こえていた。
ヨモギを探すためにかがみこみ、道の無くなった山肌を眺める。

「あれ、ヤス子さん、去年はこのあたりって、……もう少し向こうかな」

はやく摘んで帰らないと、鬼狩り様のご飯の用意も出来なくなっちゃう、と少しばかり急いでいた。
それがいけなかったのだろう。
この辺りは特に気を付けるように、と毎年連れて来てくれていたヤス子さんに口酸っぱく言われていたというのに、私は木の根元に足をとられ、山の斜面をごろごろと転がり落ちる。

「きゃ、ぁぁぁぁああ!!!」

しんでしまう、と、必死に頭を守り、ただただ叫び声を上げながらごろんごろんと転がり滑り、最後には太い木の幹へとしこたま体をぶつけて止まった。

「……いた、ぁい……ッ!」

頭がヅキヅキと痛む、と思っていたが、違う。
首かもしれない。
いや、肩かも。あるいは全部だ。

身体のあちらこちらをしこたまにぶつけまわり、もう一体全体どこが痛むのかもわかりやしない。
その上、今どこらあたりまで転がってしまったのかもわからない。
上を見上げてみても、かなりの急斜面を転がり落ちたらしい。元居た場所は見えそうにも無かった。

「……やだ、……もうッ、」

身体を起こそうと試みても、全身が心臓にでもなったのだろうかと見紛うほどに痛むのだ。
だんだんと視界がぼやけ、そのうち涙がぼろっと落ちた。

「わぁん、お、奥様ぁっ、……名前はここですぅ、……うえぇん、」

あまりの痛みに、頭までぼう、としてくる上に、心細さが唐突にやってきた。
もう、帰りたい。
今すぐに里中の家へ帰り、暖かい、奥様とともに作るお味噌汁を今すぐに啜り上げたい。
じんじんと痛む腕と足を抑えながら、わぁわぁと泣き声を響かせていたと思う。
そのうち泣くのにも疲れ果て、落ち着いてきた私は、鼻をこれでもかと啜り上げながらあたりを見渡した。
思うように体を動かすことも難しい。けれどそうも言ってはいられない。

立ち上がろうと藻掻いては見るが、そうそう体は動かず、傍にあった木へと体を擡げた。
これ以上体は動きそうにもない。その上、あまり動くとまた下まで転げ落ちてしまいそうなのだ。
丁度斜面の中腹あたりに居るらしい事は上を見上げ、下を見下げればありありとわかった。

「奥様……どうしよぅ、」

じんじんと痛む腕を見ると、少しばかり小袖に血が滲んでいる。
きっと擦りむいているのに違いない。
大きなため息が漏れ出ていった。
そのうち、痛みのせいか、胃のあたりが酷く不快であることに気が付いた。
吐いてしまいそうだ。
体も熱い。
きっと、熱が出ている。
本当に死んじゃうのかな、このまま、私は死んじゃうんだろうか。
昨日よりももう少し青く晴れた空を見上げていると、酷く心細くなり、下唇を噛み締めた。
そのうちカラスが頭上を旋回して、カァと一つ、鳴き声を落としていく。

「だから、食べものじゃ、ないの……」

瞼が重い。
もう目を開けておくのさえ億劫であった。
頭はうまく働いていない。ずぅと靄がかかっている。
腕も足も上手く動かせそうにはない。ひどく痛む。
こんな事なら、鬼狩り様に絶対にお祭りを一緒に見たいとごねてみても良かったんじゃないだろうか。
鬼狩り様に、本当はもっと仲良くなりたいと言ってみても良かったんじゃないだろうか。
鬼狩り様に、好きな食べ物をもっと早くに聞いてしまえばよかった。そうすればそればかりを拵える練習をして、うんと上手くなって、鬼狩り様へと差し入れるんだ。
そうしたら鬼狩り様は「美味しい」と仰ってくれるだろうか。
「名前のでないと、食べられない」とでも言ってくれる日が来ただろうか。

そんなしょうの無いことを考えながら、私はそう、と瞼を下ろした。

***

「オイ、起きろォ」

生きてるなァ、返事をしろォ、とぺちぺちと頬を軽く叩かれる音が、耳の近くで響いている気がしたものだから重い瞼を持ち上げた。

「どこが痛ェ、立てるかァ?」
「……おにがりさま……」
「オゥ」

真っ白な髪が向こうの青空を透かしている。
鬼狩り様のくり、とした目が私の様子を伺おうと私を覗き込んでいたのだ。
その鬼狩り様の肩に、一羽のカラスが停まった。

「か、らす……」
「コイツがお前を見つけた、感謝してやれェ」
「からす、なのに……?」
「怪我してる、つって、焦ってたァ」
「からす、なのに」
「鴉なのにィ」

へんなの、と私が笑うと、鬼狩り様も、同じように薄い眉を下げる。
もしかすると、笑っているのだろうか。
私に、笑いかけて下さっているのだろうか。

「掴まれるかァ?」
「……ま、てくださ……ん゛ぅ、」
「……悪ィ、どこが痛む」

私を負ぶさろうと、かがんだ鬼狩り様へと出来る限り寄りはした。
鬼狩り様は私の腕を自身の肩へと回し、立ち上がろうとしたところで私のあばらが悲鳴を上げるのを、私は確かに聞いた。

「……ぅ、うぇ、……う、わ、ぁあん、……いたいよぉ……!!」
「わかったァ、どこが痛ぇ、言ってみろォ」
「わぁあん、ぜん、ぜんぶ、痛いんですよぉ、」
「そうだなァ」

わぁわぁと声を上げる私に鬼狩り様は「そうだな」「痛いな」と何度も頷き、そのうちにひどく優しい声音で「ちぃと辛抱しろなァ」なんて囁くように言ってから私を背中に抱え上げる。

「こわ、怖かったぁ、!」
「そうだなァ」
「しんじゃ、しんじゃうって、おもったのぉ!」
「怖かったなァ」
「奥様、たすけて、って、ぇ、」
「今から送ってってやる」
「おに……が、りさま、がぁ!」
「ん」
「おにがりさまに、も、……会えなく、なっちゃ、うって……まだ、わた、私、まだ、ふじだ、な……一緒に、見てないのに、てぇ!」
「……」

鬼狩り様の背中におぶられながら、何度も鬼狩り様を私は呼んで、そのうち鬼狩り様は答えなくなっていく。
それでも、あぁ、私は助かるのだ。
鬼狩り様の足が地を踏みしめるたびにそう思えた。
鬼狩り様の背中がただひたすらに暖かかった。

「おにがり、さまぁ、」
「……」
「よもぎ、」
「……ヨモギィ?」
「よもぎもち、作って、もってこう、って、わた、私ね、鬼狩りさ、に、よもぎ、もちぃ、!」
「わかったァ、わかったから、落ち着けェ」
「ヨモギもちぃ……!」
「わかったァ」

「よもぎ餅なァ」と、私の言葉を確認するかのように繰り返す鬼狩り様の声が、まるで弟妹へと言い聞かせ、宥めすかすようなものに変わっていき、そのうち鬼狩り様の背中が歩いているのとは違う揺れを連れてきていた。

「わらわ、ないでくださ、……ぅう、もぉ!」
「あんこ、入れてくれなァ」
「あんこ……入れるね、ぇ」
「ん、甘めでなァ」
「あま、いの、ね」
「ん」
「あんこ、すきなの?」
「……すきィ」

鬼狩り様の言葉に、きっと私の心臓は一度止まった。
全身が熱くなり、両頬がきゅうきゅうと痛んだ。
そのうち足の先までじんとした痺れが回っていったものだから、もう誤魔化すことも、目を瞑っておくことも出来そうには無かったのだ。

「わたし、も、……すき、です」

いやにしかつめらしい声であった気がする。
凡そ自分の口から出たとは思えないほどの真面目くさった声に、あんまりにも恥が勝り、鬼狩り様の肩口へと顔を擦り付けるように埋め隠した。

「美味ぇからなァ」
「はい」

私も好き。
私は、きっと、あなたが好き。
私、鬼狩り様をお慕いしているの。

ただでさえあちらこちらが痛むのに、心臓のあたりまでもが更にきゅんきゅんと痛みを引き連れてやってくる。
鬼狩り様の一挙手一投足で、頭の中が沸騰する。
きっと、里中の家の薬缶なんかよりずっと湯気を出すんだわ。
そう思えるくらいには、熱かった。

「い、たい……」
「……こっちのが近ぇな」
「……」
「うちまで連れてく、その後傷見てやっからなァ」
「……うん」

鬼狩り様が、今までにないくらいに優しく語り掛けてくるのは、私を憎からず思ってくださっているからだろうか。
それとも、優しさであろうか。
それとも、誰かと重ねておられるのだろうか。

やはり、からだ全部が痛かった。

「いたい……」
「もうちょい頑張れなァ」
「……はい、」

きっと、お医者様にもわからないんであろう痛みが、全身をつきつきちくちくと駆け巡っていた。

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