小説 | ナノ



バシャバシャと音を立てて川を歩く。
三月にもなると、そろそろあたりは暖かくもなっている。
その上、そろそろ太陽も傾いていた。
おかげで早朝に比べれば水は幾分か冷たくはない。
それでも十分に冷たい水は、体を冷やしていく。
数刻前に鬼狩り様の屋敷へと食事を置いたところであった。
三日続けて来ているが、三日とも彼は帰ってきてはいないらしい。
今までは週に二度程度、食事を用意するという事だけに留まっていたのだが、カクシ様にああ言われて以来、出来る限り毎日食事を持ち寄っている。
それでも今日のように食事に帰るのもままならない事も多いようで、こうして翌朝までお重が一寸たりとも動かずそこにある。
手つかずのお重を引っ下げて、私は新しいお重をそこに置く。そんな毎日を過ごしていた。

鬼狩り様が帰って来られていないから、洗濯物も無く、掃除は先日終えたばかり。軽くだけ箒掛けをすれば、見る間にすることも無くなった。
まだ日も高い。
そうすると、明日の食事をどうしようか。奥様とまた話そう。今日はお重に肉を詰めているから、魚にしよう。
そう思ったものだから、今日はまだ中身の詰まった重箱片手に山を登ったのだ。

澤までやってくると、さわさわと水の揺れる音がしていた。
もしかすると、新しく木の葉をつけた木々の隙間から鳴る小枝の擦れる音や、葉の重なる音なのかもしれない。
ぐぅと鳴る腹を落ち着かせる為にも、適当な大きさの岩場に腰を下ろし、本当は鬼狩り様の召し上がるはずのものであった重箱のふたを私は開けた。

煮しめられた根菜を口に放り込み、咀嚼してから次を放り込む。
それを暫く続けてから、私はキンと冷える水の中へと足をねじ込んだ。

水面からかろうじて顔をのぞかせている、比較的大きな石へと向け、己のこぶしが三つではきかない程の石をえいやとぶつけ投げる。
ガツンと耳に痛む程の音がして、そのうちプカプカと浮き始めた魚を麻の袋へと放り込んだ。

「うまいもんですね」
「わ!!」

思いの外近くから唐突にかけられた声に驚き、たたらを踏んだのちに、ばちゃんと飛沫を巻き込んで、私は川へとお尻を投げ込んでいた。

「だ、大丈夫ですか」
「……はい」
「すみません」
「こちらこそ、申し訳ありません」

私に手を差し出してくださったのは、いつかのカクシ様であった。
手ぬぐいを私へと差し向け、急ぎ着替えましょう、と彼は私の荷物を一も二も無くまとめ上げていく。

「あ、あの!ですが」
「風柱様もちょうど居られますし、挨拶にも丁度良いと思いますよ」
「え……だって、先刻まで、お、居られなかったと思うんですが!」
「はて、今朝は早々に帰られたと思うんですが……ちょうど暫くしたら出る時刻になるところですし」

カクシ様は荷物はもちろん、あろうことか、私まで抱え上げたままにそそくさと山を下りていく。
あまりの速度に、私はカクシ様へとしがみついた。
中腹にある、鬼狩り様のお屋敷の塀が見えてきたあたりで道は平坦に歩き良くなり、そのせいも相まってかカクシ様の脚運びも、より軽やかなものへと変わっていく。
みるみる間に、景色は後ろへと流れていった。

□□□□□

ビッ、ピッ、と風が小さく悲鳴を上げているかのような音を立てている。
通された一室で、いつか着た着流しに袖を通してからそろそろと庭へと面した障子戸を開く。
そこでは予想通りというか、鬼狩り様が刀を振るい、鍛錬をして居られた。

「すご……い」

あまりの熱量に、私のぽっかりとあいた口は塞がろうとはしてくれなかった。
チラ、とだけ私へと視線を寄越した鬼狩り様は、直ぐに私を視界から追いやってしまったことだろう。
もう、こちらを気にする素振りなど見せずに、鋭い音をたてる姿はやはり恐ろしいものであった。
鬼気迫るとでも言うのが正しいのであろうか。
何方にしても、私は声をかけることが出来なかった。

それから数度刀を振った後に鬼狩り様は静かに息を吐く。
胸がぎゅうと詰まった。
カクシ様の言う「普通」がどうの、と言う話しは実のところ、私はうまく理解できていなかった。
けれど、何かこの鬼狩り様は私とは違う。私達とは、違う。それが理解できた気がした。ただ、何が違うのか、どう違うのか。
そこまでは説明もできそうにはない。
けれど、とは違うところへと行こうとしている。そのようなことを言っていた、いつかのカクシ様の言葉を思い出していた。

「……あ、あの!あの!!すごい!すごいです!そんなに速く振れるものなの?!ぜんっぜん見えなかったです!すごいなぁ……!」

まるで誤魔化すかのように早口で捲し立てた私には見向きもせずに、縁側へとやってきた鬼狩り様は足の砂を払い、私に一瞥もくれずに通り過ぎて行く。
そのうち足音と一緒にカクシ様がやって来られて、鬼狩り様とすれ違う。
「さ、これを」とすっかり乾いたらしい着物を持ってきて頂けた。

「あ、ごめんなさい」

ありがとうございます、と受け取ろうと手を伸ばせば、襖の向こう側、中廊下へと体を向けたままの鬼狩り様は、やはり私を視界にすら入れても下さることなく吐き捨てた。

「勝手に上げてんじゃねぇ」
「あ、あの!ごめ、……ぇ、えと!お邪魔してます……それから、あの!魚!お魚、お好きですか?」

カクシ様が何かを言うよりも先に矢継ぎ早に告げるも、鬼狩り様は「どうでも良ィ、用が済んだなら出ていけ」と、ぴしゃりと私を窘める。
私は「ぐぅ」と唸るように息を呑む。

私とて、カクシ様や奥様の言いつけで無ければ、やめてます!
そう言う事が出来ればどれほどか。そう思わないでもない。
けれどここでそんなことを言って「二度と来るな!」と本当にいつかのように叱られては、困るのは私だ。
そう思うと、強く出られないのだから、勝手が悪い。
恐ろしい事には代わりはないが、あの日水をしこたまかけられた、それ以外に彼にされた事。
それを考えると、出てくるのは毎度の土産物と、空っぽの、綺麗に清められた重箱なのだ。
恨みようもないではないか。

「あ、では!お食事!食事だけしたら!」

私の再度の言葉にも矢張り、鬼狩り様は一瞥すらくれずに歩いて奥へと消えていった。

「手伝いますか」
「いい!大丈夫です!ありがとうございます!!」

隣で、私に着物を差し出して下さっているカクシ様に首を横へ降って見せながら、襷をかけた。こうなったら、「うまい」とでも言ってもらわねば!
鼻息荒く、使われている形跡の無い厨へと向かった。

□□□□□

「お待たせしました!これ、とれたてなんです!きっと脂がのってて美味しいと思うんです」

箱膳へと用意した食事を見た鬼狩り様は、内廊下へと立つ私と、私の腕の中におさまる箱膳へと視線を巡らせ、ガリガリと頭を引っ掻いた。

「……」
「あ、あの、それじゃぁ、……出ていきますね!お邪魔してすみませんでした」

無言で箱膳を受け取り、睫毛で目を隠した鬼狩り様は、直ぐ側の部屋へと膳を運んで下さる。
食べてくれる。
食べようと、してくれている。
それだけで、なんだか胸がいっぱいになり、つきつきと棘が刺さるようであった。
邪魔をしてはいけない。気が変わられてしまったら、ひどく悲しいもの。と、直ぐに踵を返したところで、私の背中へと「いただきます」のちいさな声が刺さっていた。

「(わ……)」

私へは背を向けているから、顔を拝むことは出来はしないが、ピンと伸びた背の向こうに、箸の動く様が時折見えていた。
外廊下の向こうへと広がる中庭を見つめながら召し上がって居るのだろうか。下がることのない白い髪が、咀嚼ごとにさわさわと揺れている。
食べて、くれている。
私は足を止め、口元へと手を当てていた。

「……見てんじゃねェ」
「あ、ごめ、ごめんなさい!」

あたふたとした無様な言葉を漏らしながら、足を一歩踏み出したが、今度は「オイ」と小さな音で呼び止められる。

「はっはい!!」
「明日、その中味は食う」

一体何の話しをしておられるのだろうか。
数瞬迷うが、今日持ってきたお重の事ではないだろうか、と当たりをつけると、また胸がじんわりと熱くなってきて、全身が擽られているようだった。
寒空の下で、熱い湯に体をつけたときみたいな、どうしょうもない痺れが、全身を走っていく。
気が付くと私は、それはそれは大きな声で「はい!」と返事を返していた。


「……いただきます、……だって、……ふふっ」

鬼狩り様の屋敷から出る頃には、たった一言にすっかり耳まで熱くなったものだから、首元をパタパタと仰ぎ、家路を急いだ。
一刻も早く鬼狩り様の屋敷から離れたかった。
離れて、喉元までせり上がっている、悲鳴と呼ぶに相応しいほどの雄叫びを上げてしまいたかった。
気が付くと、駆け出していた。
もう、バタバタと走って、きゃあきゃあと叫んで、爆発しそうな心臓を、全部走ったせいにした。
それでも、あのピンと伸びた黒詰め襟の後ろ姿が、どうにも頭から離れてはくれそうにも無かったのだ。


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