小説 | ナノ



そんな事もあったものだから、彼の屋敷を訪ねることをどうなのかしら。とは思うものの、行かずに居るのは、奥様にもカクシと名乗ったあの男の方にも、申し訳が立たないではないか。
そう思うと、一も二も無く足は動き、山を登っているのだから大概に私も強情でお人好しで、どこか厚かましい人間なのだと思う。

今朝はあんまりにも寒く、しんしんと雪が降り積もっていた。
そんな、底冷えする程の寒さに目を冷ました朝の事であった。
かじかんだ指先を息で温めながら、いつもの山道を登る。今日は既に雪がへこんでいる場所もほどほどにあるものだから、きっと然る方も帰って来られておるんだろう。そう考えただけで、少しばかり重くなった足をなんとか持ち上げて進む。
重い足取りは雪のせいにして、いつもよりのろのろと坂道を登った。

いつの間にか雪は止んでおり、日が差し込んできていた。
足取りも重くなっていたものであるから、いつもよりずっと遅くになってしまった。奥様が腕によりをかけたお肉は好んで召し上がってくださるだろうか。
ずぼ、と沈む足を持ち上げようとして雪を見た。

「……あか、」

そのあたりから続く、赤のぽつぽつとした染みは、鬼狩り様のお屋敷の方へと伸びている。
ここら一帯は山が多い。昔から、猟師が仕留めた動物を食す文化があるほどには。
ともするとその雪の上に落ちる赤には、見覚えがある。
血だ。
もしかせずとも、これは"鬼"の血なのだろうか。
それとも、彼は既に猟でもしてきたとでも言うのだろうか。
これが血液だという事は理解しているのだが、一体誰のものなのか、どういった経緯のものであるのか。そればかりは想像もつきそうにはない。
それでも、あの鬼狩り様が流血するほどの怪我を負っている想像なんてものも、私には出来そうもない。

そうすると、ただでさえ重かった足取りが、鬼狩り様の、あの恐ろしい面が更に恐ろしいものになっているさまを想像してしまい、より一層重くなった。
もう、一升餅でも両足に引っ下げているような心地だ。
あえて血の跡を避けると、必然的に少しあったへこみも避ける事になる。そうすると、より足が沈む。
歩き辛いことこの上ない。
あんまりにも、足が重くなる。
もう引き返してやろうかしら。そう思い始めた頃合いであった。それを見た瞬間に、私はクマにでも出くわしたかのように体全部が硬直した。
血が、流れている。
真っ赤な血を、降った雪が隠そうと足掻いているかのようであった。

「……おにがりさま、」

男の肌は、見える部分の半分以上が赤く染まりあがっているように見えた。
私の足は、気がついた頃には駆け出していた。

「お、おにがりさま、」

震える唇をそのままに、鬼狩り様の傍に膝をつく。傍らに置いた重箱がその重みで傾く。
積もった雪が、私の膝を食っていくようだ。身を乗り出すように手を突き立てた先の雪も、ギュッと鳴いてから沈んでいった。

「鬼狩り様、」

鬼狩り様の顔を覗き込みながら、私は尚もそう呼びかける。

「鬼狩り様、大丈夫ですか」

彼に触れようとして、私の手は一度空を切った。
なんだか、彼に触れることは、いけないことのような気すらしたのだ。

鬼狩り様はただでさえ白い髪やら肩口やらにまで雪が積もり、酷く寒そうにも見えるのに、それだけでは言い表しようのない、なにやら漠然とした不安感を内包している。

もしかすると、静かに閉じられた瞼のせいで姿を眩ませている、あの炯々とした瞳が見えないせいであろうか。
あまりにも血色の悪い唇のせいであろうか。
それとも、俯いているせいで、まあるい輪郭をより露わにしている頬のせいであろうか。
真っ黒の隊服が、白に覆われているせいであろうか。
とにかく、私が知る鬼狩り様よりも、どこか危うく、ずっと幼く見える姿が、ここにはあった。
だからかもしれない。

もう一度手を伸ばし、私は鬼狩り様の頭上の雪を払い落とし、肩口の雪も同じようにと払い落としていく。

「お風邪を、召しますよ……」

かじかんだ指先が、彼の首筋に触れてしまい、今度はそのあまりの冷たさにサッと血の気が引いた。

「!!!お、鬼狩り様ッ!!た、大変!!」

もう目前であった鬼狩り様の屋敷の門を叩きもせずに開け放ち、玄関口まで走った。案の定、錠はかかっていない。
玄関扉をも開け放った後に、雪をザクザクと音を立て踏みしめながら、鬼狩り様の腕に手を引っ掛け、引きずろうと藻掻く。
その矢先であった。
雪を巻き込んで重さが増したその体を、グイ、と引いた際に、小さく「ぐぅ、」と、うめいた彼の腹から、真っ赤なものがとくとくと出るのを見てしまった。
がなり立てる心の臓を諫める術もなく、点々と続いていた赤いものの正体に、全身の肌が泡立った。

「ど、どう、どうしよう……!」

かァかァと、頭上で喚いていた鴉が一羽、そのうち側までやってくる。
どッ、と汗が全身から吹き出したのを感じた。

「だ、ダメよ!!!鬼狩り様は、食べものじゃないのよ!!!」

鴉を追い払うように何度か空を払い、はぁはぁと上がり切った息もそのままに、鬼狩り様の足を担ぎ、彼の体を引きずり歩いた。

「も、もうすぐ、もうすぐですよ!おうちですからねッ!!」

バサバサと、彼のすぐ頭の上を鴉がしつこく飛んでいる。
焦りからか恐怖からか、訳も分からず勝手に私の両方の目から流れる涙には目もやらず、鬼狩り様の巨体を玄関へと引きずり入れた。
玄関すぐ。三和土に転がした鬼狩り様の体をそのままに、以前まで、きちんとこの屋敷へと入っていた際に、手ぬぐいがあった場所を思い起こしながら中を改めていく。

「勝手に入りますからねッ!入りますよぅッ!!
あ、あぁ!もう!!!せ、洗濯物……た、溜まっているじゃないですか……ッ!そうじゃなくて……!て、手ぬぐい!!」

ありったけの手ぬぐいをかき集め、冷たい三和土に転がる鬼狩り様の腹に押し当てた。

「あぁ、どうしよう!!どうしよう!!!」

あたりを見渡してもめぼしいものも無い。
ただ冷えきった彼の体から、いのちが零れ落ちそうで、知らず、体が震える。
私の手の中に詰まった真っ赤に染まっていく手ぬぐいだけが温かい。
もう、どうにでもなれ!と、そのままの勢いで傍に置いた手ぬぐいを鍋の中に放り込み、その上に表の雪を押し込んで火をつけようとかまどの前にしゃがみ込む。
かじかんだ手では、上手くマッチ棒が擦られず、やはり目から大粒の涙が溢れ出した。

「すぐに、温かくできるもの!さ、探しますからッ!!きっと、すぐに暖かくなるから……!!
もう!ついてッたら!!
……やだやだやだ、お、奥様ッ!どうしようッ、」

なんとか火のついたマッチ棒を竈へ放り込み、側の薪をくべる。
上手くつかないものだから、その場を投げ出し、とにかく温めないと!とあちらこちらを見渡した。

「どうすれば、……ッふ、布団!お布団ッ!!」

適当に布団やら何やらを持ち出し、足袋も全部脱がし切った鬼狩り様の足元に引っ掛け、私も同じように布団の中に入り込んだ。
鬼狩り様の腹を片手で押さえ、空いた手で、彼の身体を擦りあげる。
これで、少しでも早く温まるだろうか。
その間押さえ続けた腹の血も、止まって、止まってと願いながら、やはりぎゅうぎゅうと押し続ける。

「おにがりさま、……し、しなないで!!」

そう私が弱音を漏らした時であった。
閉めたはずの玄関扉が、建物が軋む程の音を立てて開き、全身を黒に包んだいつかのカクシ様の姿がそこにはあった。
たすかった。
一も二もなく、そう思った。

「たすけてッ!!!助けてあげて!!お願いっ!!」
「あぁあ!言わんこっちゃない!!」

そう一声叫んだカクシ様は、私にありったけの湯を沸かすように言いつけ、鬼狩り様を囲炉裏のある土間まで目にも見えない速度で運び上げた。
それを横目で見ながら、私は未だ震える足で裏まで走り、水を汲み上げ、火にかけた。

「カクシ様!他に何かありませんか!湯はまだ沸きません……!」
「なら風柱の着物持ってきちゃくんねぇか!」
「は、はい!」

こちらを向くこともなく、カクシ様は鬼狩り様の上衣を引っ剥がし、腹部に針を刺しながら叫ぶように告げる。
引っ詰めた髪が乱れるのも構わず、水で流れきらずに汚れたままの手のひらを自分の着物で拭い取りながら、私は鬼狩り様の清潔な着物を探す。

「……はやく、はやくはやく!」

褌やら何やらを纏めてひっ掴み、また鬼狩り様の元へと戻る。

「……」
「さ、縫い終わりました!……腹回りをもう一度拭って、今度は酒でもかけときましょうか」

そう言いながらまだまだ熱い湯で清潔な手ぬぐいをザッと絞り、傷周りを拭い取りながら手早く着替えまでさせていくカクシ様は、相当手慣れておられるようであった。
あまりの早業に、私の開いた口は塞がりそうにない。

「酒!!さ、さがします!」
「冗談です」

くすくすと肩を揺らすカクシ様は、囲炉裏を囲む座布団を並べ置き、簡易の布団を用意したかと思うと「すみません」と目を細め、私に三つ指を付き、頭を下げ始めた。

「わ!……えぇ、え!」
「この度は、風柱様をお助け頂き……何であなたまで下げるんですか。私が顔を上げられないじゃないですか」
「さ、先にお上げください!鬼狩り様方へそんなことをさせたとあっては私、腹切りせねばならなくなります!!」
「またまたそんな大仰な。さ、先にお上げください」
「む、無理ですぅ……」

あまりにもカクシ様が引いて下さらないものだから、私はもう少し額を硬い土間の床板へと押し当てる。

「ほら、額が痛ぅございましょう、さ、お上げください」
「か、カクシ様こそ、お顔を上げてくださいませんか!」
「そうです私はカクシです。鬼狩り様の下僕です。あなたよりも下の者と思っていただいて結構ですので」
「な、何をおっしゃいますか!覚悟をしてその詰襟を纏う方は、皆鬼狩り様と同等でございます!」
「そのお言葉、有り難く頂戴します。ですから、お上げください。愛らしいかんばせに跡がついてしまいます、ささ、おはやく」
「で、出来ませんよぅ……!」

果てしなく、低い位置での問答を繰り返していると、今度こそハッキリとした声を伴う音で、「おい」と呼びかけるように鬼狩り様は唸った。

「目、覚めましたか!」
「よ、良かったぁ……!」

身体を起こそうとする鬼狩り様を補助するように、カクシ様は彼の背中へと手を当てる。
けれど、鬼狩り様は「必要ねェ」ときっぱりと断り、首をグリンと回す。そうしていつかの鋭い目で私を捉えた。
鬼狩り様はやにわに立ち上がったかと思うと、私の手を引き、どすどすと大袈裟な音を立てて闊歩する。
まるで止まる様子もない鬼狩り様に「安静にしてないとですよ!」だとか「お傷は痛まないのですか!」だとか。
かけた声には尽く返事を貰えず、ついにはお互い草履も履かずに裏庭まで放り出される始末だ。

暫く、とはいえ十数歩ほど、雪を踏みしめたところ。

「鬼狩……っ!!!きゃぁあ!!」

ザバァと、頭上からあまりにもキンと冷えた水が降ってきては、私を濡らしていった。
ざばぁざばぁと何度も頭から水をかぶったものであるから、体は凍え、手はかじかみ、肌が痛む。
水を、かけられたのだ。
そう理解したのは、突然のことに噎せあげ、鬼狩り様の形相を見てからであった。
私達を追ってきたらしいカクシ様の戸惑う声がしている。

「風柱様!あぁぁ……!すぐに!すぐに着替えをお持ちしますね!」
ンなこと・・・・させてんじゃねェ!!!」

あまりの怒号に、私の体は大きくはね、カクシ様は「申し訳ございません」と頭を下げた。
今思うと、鬼狩り様が怒った姿を初めて目にしたのかもしれない。
彼は見てくれこそ恐ろしいが、決して私を叱ることは、今まではしなかった。
であるから、きっと、今日なにか悪いことを私がしてしまったのだ。
そう思うけれど、結局なにをしたのかなぞわかることはない。彼は教えてくれるつもりもないらしく、また井戸から組み上げた水に自身の腕を突っ込んでから、私の頬をギュッと拭った。

「だから来るな、ってんだろがァ」
「……あ、あの……ごめんなさ、」
「オイ、後は頼んだァ」

それだけカクシ様へと向けて言った鬼狩り様は、私と同じく裸足のまま、雪の積もった庭を歩いて奥へと消えた。
阿修羅のようであった、と思う。

「えきしっ!」
「あぁ!あいすみません!」

立ちすくみ、ただただ呆然とし、体を震わせた私をカクシ様は抱えあげて下さり、「すぐに暖をとりましょう」と静かに前をひたと見据えた。


バチバチと火の弾ける音と、ぐつぐつと汁物の煮える音がしている。
鬼狩り様の物だという着物を着るようにと出され、水の滴る私の着物は囲炉裏の上で干されている。

「さ、暖まります」
「ありがとうございます」

具がたくさん入った汁物は、少ししょっぱい。

「あの、……放っておいたら、死んでしまうんではないかと、思ったものだから……」
「ええ、存じております。ありがとうございます」
「お、鬼狩り様、血が、たくさん出ていて……す、すごく冷たくて……か、らすまで、やってきていて……し、死んじゃうのかしらと、思ったら……」

崩した足、膝の上へとお椀を持った手を下ろす。
たまに舞う火の粉があまりにも赤いから、先の鬼狩り様の姿を思い出してしまいそうであった。
せっかくあの仁王像のような恐ろしい形相に塗り替えられそうであったというのに、矢張り、目をきつく閉じ、大きく広げられた殆ど上下の無い胸元。あの雪に埋もれた白と黒と赤。
鋭い眼光の隠れた静かな、物言わぬ顔。
ただただ、恐ろしかった。
亡くなってしまうんじゃないかしら、と。
違う。
死んでいる。
そう、思ったのだ。

「さ、ほら、召し上がって下さい」
「……美味しいです」
「ええ、そうでしょうとも」

にこ、と目元だけで笑うカクシ様に私は頷いた。

「私のせいで、貴方まで叱られてしまいましたね、すみません」

そう、私は軽く頭を下げた。

「いいえ、これは私が悪いのです」
「……そうでしょうか?」
「そうなんです」

さも当たり前のことのように頷くカクシ様は、私に向けてまた笑う。

「あの、これに懲りず、またここへ来ては下さいませんか」
「来ても良いんですか」

私は首を傾げた。
どうとっても、鬼狩り様は来てほしくはなさそうであるし、私が彼に何ができるとも思えない。
奥様の遣いであれば来ようとも思うが、もうこうして定期的に来るのはよした方がいいのではないだろうか。
ただただそう思ったのだけれど、私とよりもずっと鬼狩り様と付き合いの長いらしいカクシ様は「来てほしい」という。

「是非に」そう笑う。
「けれど、鬼狩り様、来られるのは嫌なようですけれど」

そう尋ねると、「だからです」とカクシ様は笑う。

「私は、あの人たちに普通・・でいてほしい。あの人は『鬼にならねば鬼は殺せない』と言いますが、あの人はきちんと、立派な人間なんです。どうもあの人は、それを忘れてしまうようだから」
「ふつう」
「ええ」

カクシ様はそう頷いて、ひどく優し気に目を伏せる。
それがどういう気持ちであるのか、どれほどのものであるのか、私には解ることはない。
それでも、鬼狩り様に、心休まるときがあればいいのに。そう思う。

「今日のことは、申し訳ございませんでした」
「い、いいえ!」
「だから、あなたまで頭を下げないでください」
「だ、だって……!」

カクシ様のいつか言われた「風柱様は、優しい方です」というのはまだわかりはしない。
今日も、結局はこんな目にあったのだ。
わかりようもない。
鬼狩り様がもたらして下さっている恩恵も、本当のところはきっと私は理解できていない。
それでも、鬼狩り様は私に毎度礼を用意してくださっていたし、その礼の品々が毎度違うものであった事を私はしっている__とは言え、あれが私への物だと知ったのは最近ではあるのだが。__それでも、鬼狩り様は毎度受け取りもしない私の為に、と用意をしてくださっていた。
私は、鬼狩り様のそんなところを、知っている。

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