小説 | ナノ

俺には、師と思える人間が二人いる。
一人は職場の親父。後に俺の義理の親父になる男だ。__それから、あの女。




その日は、酷かった。
いつもよりもずっと酷くて、眩暈がしていた。

親父が帰ってきて、狭い6畳二間の家でいきなり暴れはじめたと思ったら、「女ァ出来たからよぉ!出てってやらぁ!!」と、酷く酒の匂いをさせて喚き散らしてお袋を殴ってた。
それから本当に出ていって、しんと音がしそうなくらいの室内に、扉を閉める音がでかく響いていた。
これは、親父じゃなくて一番上の姉が出て行った音だ。
お袋がこの後暴れるのを知っているから、先に出ていくのだ。
兄貴はもうお袋よりも図体がでけぇから、もう何をされるでも無い。
そうすると、俺がただただ耐えていればそれでいい。そう言うことになる。
それが、この家での俺の役目のようなものだ。
昼間は手伝いに出て、夜はお袋の気分転換の手伝い。
そんなもんだ。

その日は、皿が飛んできて、避けそびれたら左目の下に当たって皿が砕けた。
バカみたいに痛くて、思わず蹲っていたら、そのまま左目に当てていた手を引っ張られて、しこたま顔を殴られた。

「お前なんか!!そのまま!!!死ね!!!」

何度も何度もそう叫びながら、俺を叩き、叩くのが痛くなってきたのだろう頃合いで、今度は蹴り上げられてた。

「出てけ!!」

そう言われて、素直に裏長屋の一角にある家を俺は出る。
それでも、一刻か二刻して戻らなければまた探されて叱られるから、それまでの暇を潰さなければいけない訳だ。
ふらふらと霞む頼りにもならない目元を凝らしながら、いつもの河川敷まで足を進めた。
そこで顔を冷やすと良いと思っていたけど、その日は顔が切れてしまっていたから、結局はそれも出来ずに血が止まるまで上を向いて河川敷に転がっていようと思っていたと思う。酷く腹も減っていた気もする。

ぼう、と星を眺めてた。
川がさらさらと流れる音だけを「うざってぇ」と舌打ちをしながら、ぼうと空を眺めてた。

「ねぇ」
「ちょっ、と!だから、そこの!転がってる君!」

かけられる声にも「うざってぇな」と思いながら、視線を動かすと、軽業師みたいな動きでするすると川にかかった橋の欄干から体を滑らせた髪を一つに縛った女がぶんぶんと手を振っている。
俺の知り合いじゃねぇ、とあたりをつけてまた空を仰いでた。
そうしたら、俺の顔を覗き込んで

「それで見えてるの?」

ちょっと笑って失礼な事を抜かしてくる。

「怪我凄いな……ちょっと待ってね」

そう言う女の「待て」という言葉が気になって、ちら、ともう一度だけそっちを向いた。__ら、もう姿は無かった。
けれど、俺にそう言いつつも女の腕がプランプランと不自然な動きを見せていたのは、先ほど橋から降りてくる際に見ていて気が付いていた。

橋げたの向こう側に行っていたらしく、こちらに戻ってきた女の腕はもうちゃんと動いてた。
どうやら肩でも抜けてたのか、はめてきたらしい女はニコリと笑って、

「怪我見てあげるね」

そう言いつつ、真白な羽織ものを脱いだ。

「要らねぇ」

と俺は言うものの、戸惑う素振りの一つすら見せずに女は手を伸ばしてくる。
思わず、だ。
本当に、少しだけ、俺の体がピクリと動いたのを多分その女は見逃さなかった。

「触んな!」

立ち上がって、その手を払いのけたのは俺の本能的なものだったのかもしれない。
思いの外力が入っていたみたいで、女の手は大きく空を切った。

「そっかそっか、怖かったよね、ごめんね」
「怖かねぇ!触んな!!」

そう言って、近付いてくる女の胸元をドンドンと叩き上げるのに、びくともしやがらねぇ。どんな鍛え方してんだ!と、少しばかり躍起になっていたのかもしれない。
思わず、少し振り上げた拳は、女の顔にあたる。

「あ、」

動きを止めた俺に、ゆっくりと笑いながら手を伸ばしてきて、その肩口に俺の頭を押し付けた。

「痛かったねぇ、……辛かったねぇ。」

何があった、なんてことを聞くでも無く、ただただ頭を撫でながら「大丈夫」と吐き続ける。
何が大丈夫だ。帰らなきゃいけねぇ時間は多分過ぎてる。
帰ったらまた殴られらぁ。
そう、言ってやりたいのに、いつぶりかももうわからない温かいものが全身を包むのが、どっかで心地よく思ってしまっていたのかもしれない。
俺は動けなかった。
だから変わりに、

「痴女かよ」

って、毒を吐いておいた。
クツクツと笑った女は、「酷い」って言うくせに、

「ね、私と来る?」

なんて言う。

「どこにだよ」
「私の家。」
「ハ?……マジもんの変態かよ」
「バカ」

俺から体を離して、羽織を体に纏わせながら、

「ええとねぇ、……弟子にしてあげよう」

そう言って、腰に差していたものをくいと軽く持ち上げた。

「……やらねぇぞ、ンなもん、握った事もねぇ」
「弟子だから、家の掃除とかでも良いよ」
「自分でやれよ」
「時間が無くて」

はは、と笑いながら、
「実はね、」と語りだしたのは、荒唐無稽な鬼退治の話。
確かに、帯刀している事にはそれで説明が付くのかも知れないが、流石にそんな面妖なモンを信じられるほど俺は幼くは無かった。

「もっと捻った嘘つけよ」
「……そうなるよねぇ……
ま、いいや。"今"から助けて欲しかったら、手を取って。」

そう言って、差しだされた手を取ってしまったのは、未だになぜだったのかはわからない。
周りの大人になんて、何も期待していなかったのに、だ。
俺はその女の手を取っていた。

結局その後、俺の手を引いて女は俺に家まで案内させた。
何をするのかと思えば、俺の家の前でお袋に三つ指ついて、「息子さんをください」等とふざけたことを抜かしている。
幸い夜も深かったから人通りは少なかった物の、こんな申し入れをお袋は受ける筈がねぇ、と思っていから、明日から俺が恥ずかしいじゃねえか、と言うその思いでいっぱいだった。
だから、

「やめろ!勝手な事すんな!」そう叱り飛ばしたのに、懐から札束を三つ出して

「足りますか」

と、女は鋭い目でお袋を睨みつけるように見ていた。


結局、その後お袋に金で売られた俺は、女に手を引かれて暫く歩いていたが段々と疑心暗鬼になっていく。
いくら何でも、都合が良すぎる。
何がどうあってこの女は俺を買ったのか。
俺はたまたま怪我した日にたまたまいい大人に拾われて、飯まで貰って、面倒まで見てもらえるのか。
そもそも、こんなに大金を用もないのに常日ごろから持ち歩いている人間が果たして居るのだろうか。

そんなはずがない。

手を振りほどいた俺を見て、女の目が丸々と見開かれる。

「お前、何がしてぇんだ。俺ぁそんな金返せねぇぞ」

おもむろに俺の方へと体を向けた女は、静かに俺を見ている。

「ドブに捨てるほどの金あんなら、男にも困らねぇだろ」

俺ががなると、ケラケラと笑い、また俺に手を伸ばしながら

「捨てたつもりないなぁ。……私、向こう50年先の未来まで見越しての投資なんだよね」
「……ババァになったらみろってか」

その言葉に、きょとんとしてから、また大きな声を上げて笑う。

「やだ、面白い人だったんだ……知らなかった。」と笑い、

「ちょっと、違うかなぁ」

そう、少し遠くを見ながら言う。
俺は伸ばされた手を取らず、その女の後ろをただ歩いた。
この時点で俺の身の置き場はもう、この女のもとにしか無かったからだ。





連れ帰られた先は、あの積み上げれていた大金に見合うくらいの立派な屋敷。
高そうな掛け軸やら、壺やらが置いてある。
茶碗やら何やらも、欠けも傷の一つも無い綺麗なものだ。
本当にこんな生活してる奴がいたのか、といっそ感心してしまう。

「好きにくつろげ」と言われたは良いものの、兄妹全員が雑魚寝していた寝室よりも広い部屋を割り当てられてしまうと居心地も悪く、何をすればいいのかもわからない。
そうすると、ただ畳の上に転がる位しか、することも無いのだ。
だが、夜通し歩いたことも相まってかまだ陽も高いうちに俺は寝コケてしまっていたらしい。
女がいつの間にか俺の部屋に入っていたようで、俺の髪を手で梳いている。

「触んなって、言ってんだろ」
「起きた」
「聞いてんのかよ」

身体をゆっくりと持ち上げると、少しばかり居住まいを正し、

「私は名字名前です。よろしく」
「……不死川恭梧」

薄く笑う女は名乗った。
よろしくなんぞしてたまるか。と思っている事は顔に出てしまっているだろうか。

「あのね、今から私は仕事に出る。多分明後日には帰れると思う。……お手伝いさん、みたいな人が来ると思うから、わからない事はその人たちに聞いて」
「……」

俺は返事を出来なかった。
こんなに高級そうなもんがある家で、裏長屋から買ってきたガキ残してどっか行くとか、平和脳が過ぎるだろ。
それが素直な感想だ。

そう言うのも含めて。
出てきた食事が酷く美味しく、更には腹いっぱいまで食べられた。
そう言った事全部。
何かは知らない、それでも理不尽な怒りが轟々と腹の中で燃え盛る。

もうだめだった。
カッとなって、与えられた部屋の掛け軸は破り捨て、障子扉の障子は剥ぎ取り、出された食事の茶碗は全部割った。
何があってそんな事をしているのかは分からない。
けれど、誰一人としてそれを咎める人間はいなかった。
片付ける人間まで、居なかった。

名字が帰ってきてその惨状を見てから、からからと笑い、俺の頭にぽすんと手を乗せて風呂へと向かっていく。
結局、何も言われなかったのだ。


課と思えば翌日には俺の部屋に長半紙を持ってやってきて、

「恭梧、自分で書き直してね!」
「字書けねぇわ!バァァカ!!」

ざまぁみろ、とでも笑うように吐き捨てると、

「書けるまで書くんじゃん。頑張れ」

さも当たり前のようにそう言う。
うざったくて、字でも何でもないへろへろを書いて置いといてやった。

「芸術ってやつ?!」

またからからと笑っていた。

壺を割った時も、何処で買ってきたのか、大きな丸盆をもってきて

「割ったなら作らなきゃ!……窯無い!!!……とりあえず、お茶碗作っといて」
「……したことねぇよ」
「皆初めてはあるよ」

そう笑う。

むしゃくしゃが止まらなくて、名字を殴ってしまった時は、避ける事等、避ける動作など一切見せることなくいつかのように顔を俺に殴られた。
何も言わずに、俺の頭を一つ撫でて庭に出て木刀を振っているから、
俺もそうすれば、「殴らなくてもすんだんじゃねぇか」って思い始めて、

「教えろ」
「いいよ」

次第に、名字が居る日も居ない日も木刀振って、屋敷に出入りする人間に掃除の仕方を教わるようになっていた。

それでも、酷かったと自分でも思うのは、あの女が、名字が丸一月近く帰って来なった時だと思う。
どうにも出来ない程の苛立ちに、もう我慢も仕切れなかった。
手あたり次第、木刀で家を殴りまわり、着ていた黒服の男にも殴りかかっていた。

その後帰って来た名字は、その黒服に何度も頭を下げていたけど、俺にはやっぱり何も言わない。
その代わり、自分の部屋にしていた一室の障子が破けていたのを愕然とした顔で見てから、

「マジかよ……寝れない……ここだけは、ほんとにダメ」

そう言ってから、俺の頭をかき抱いた。

「……ッ、く、」

何が苦しかったのか、もう自分でもわからない。
ただ、無性に泣きたくなって涙が止まらなかった。
ただその時、自分は名字の心を乱す事等出来ない程度の矮小な人間なんだと、価値のない人間なんだと、そんなような事を考えていたような気もする。
名字の中に俺は存在していないのだろう。
それと同じようなものなのだろう。
そんなどうしようもない苛立ち、それに近かったのかもしれない。


その日の夕方、俺は初めて屋敷を出てすぐ傍の山に駆け込んだ。
今思うと、見つけて欲しかったのかもしれない。
自分のことで、少しでも頭を使えばいい。そう、思ったのかもしれない。

程無くしてからだ。
そこで、俺の名前を息を切らしながら叫ぶ名字の声を聞いたのは。
声はかすれているから、もうずいぶん叫んでいたのかもしれない。
木の幹に預けていた体を起こすと、すぐそこに名字は来ていた。
ガサガサと大きな音をたてて、俺の方へとぐるりと回ってやって来てから、あれだけ木刀を振り回しても息を乱すことも無い名字が、は、は、と犬みたいに短く息を吐きながら、俺を鋭い目で睨む。

「……ん、だよ」
「で、……出るなら…昼間に、…書き置きを、残せ!!」

初めてだった。
始めて、横面をひっぱたかれて、あまりの勢いに、後ろの木に体をしこたま打ち付けた。

「ってぇなァ!!!」

それから、そのままぎゅうと抱きしめられた。
いつの日か、この女の肩口に埋めていた俺の頭は、女と、名字と同じ位置にある。
血相変えて、裸足のままで息まで切らせて走ってやって来た名字を見ていると決まりが悪くなって、その思ったよりも小さな背中に、手を回した。

「し、死んでたら、……守れていなかったら、どうしよう、って、……わ、私が撒き込んだばっかりに、恭梧殺しちゃったら、ど、どうしようって、……」

名字の肩は馬鹿みたいに震えていて、俺の左の肩口がじんわりと濡れていく。
風が吹くと、そこだけが酷く冷たくて、痛いのと、冷たいのでなんだか少しだけ涙が出た。

「……悪かった」

余計に抱きつく力が強まったのは、今だけは許してやろうと思う。





あれから、剣術の稽古が酷く厳しくなった。
「何かあっても、恭梧は死なないな!って、思えるまで扱くから!」そう燃えているのだ。

未だに、衝動的に苛立つこともある。
その度に名字を殴ってしまう事もある。
絶対に避けられるはずなのに避けない上に、俺の頭を軽く叩いて、

「そういう時はどうしろって、言ったよ!」

なんて馬鹿みたいなことを言いながら、俺の目の前で顔を腫らしたままで両腕を広げているのだ。
本当に、阿呆だと思う。
捨ててしまえば良いのに。
俺ならこんなの捨てちまうな。そう、思う。

名字の腫れた頬を見る度に、お袋と親父の血を実感していた。
嫌という程に実感して、名字の居ない夜にだけ、何度も何度も「ごめんごめん」って謝っていた。
俺がこんな人間で有る事を謝っていたのか、それとも殴っていた事を謝っていたのか、もう今となってはわからない。

その度に、帰って来た名字がくっせぇ服と体で、

「帰ったよぉ」

と、俺に抱きついて、

「待っててくれてありがとうね、恭梧は優しいね。恭梧はえらいね」

呪いのような言葉で俺の首を絞めていく。
その言葉を聞くたびに、苦しくなるのだ。間違いない。



何も役に立つことも無く、そうこうして、何年経っていたか、もう覚えちゃいない。
けど、まだまだ学習できていなかったのは、恐らく俺だ。

俺が先に食事をしてた。そうしたら帰って来た機嫌の悪そうな名字を見て、

「腹立ってんなら、俺をなぐりゃ良いだろ」

そう言う。
そうしたら、名字は

「ならちょっと体を貸してもらおう」

笑って、俺の頭を腹あたりで抱えながら

「しんどいねぇ」

って、初めて苦しそうな顔を俺は見上げていた。


暫く、とはいっても、そう経っていない。
その日は酷く晴れていたと思う。
庭で木刀振ってたら、帰って来た名字が、鋭い声で俺の名前を呼んだ。
その迫力を俺は何と評すれば良いのか終ぞ分かりはしないが、恐らく、"殺気"とでも言うのではないだろうか。
その時、木刀を右手にぶら下げながら、縁側から俺を呼びつける女の声に、もう俺はコイツに殺されても良いじゃないかとさえ思っていた。
コイツが拾った、買った命だ。

「なんだよ」

俺は木刀をそこに置いて、身一つで手負いの母熊みたいに鋭く周りを威嚇するような目の名字の元へと向かう。
また、名字は両腕を広げて、俺の頭を抱えて、

「ごめんなさい、ごめん、たすけ、……間に合わなかった、ごめん、ごめん」

ずっと泣いてた。
いつの間にか、縁側に立つ女の頭が地べたに立つ俺の頭と程近い位置にあって。
だからか、いつかこの女がしていたように、俺はその頭を、背中をそろそろと撫でた。




俺が試験とやらを受けたのは、それから程無くしてからだ。
いつか肩を並べて、その背負ったもんが小さい肩から零れた分を変わりに背負ってやろう等と殊勝な事を考えていたのだ。その為に俺は体"だけ"は頑丈に出来てるんだと、本気で思っていた。


少しばかり怪我をして帰ったが、まぁ概ね無事、と言っても差支えは無いと思う。
ただ、門前に立つ名字からの叱りを受ければ、無事とは言えなくなる、と言う事は何とは無く察してしまった。

頭を叩かれて、足を払われ、そのまますっころんだ俺に縋り、

「い、生きてたぁ、……生きて、たぁ!!」

門の前で大の男を押し倒しながら喚くのだ。
中に入ってからやれよ、とは今回ばかりは言えなかった。

それから数年は、半端ない鍛え方をされることになって、俺は任務どころでなくなる日も出てしまう程だったが、それはもう良い。
あれから数年たった頃、だ。
俺が、二十を迎えようかという頃だったと思う。

「もう、出ていって。」

俺から刀をとり上げて、選別だ、と大金を風呂敷に包んで言う。
先の任務で、俺が腕を折ったりだとか、まぁ、そこそこの怪我で帰った時の事だった。
その折れた骨もくっつききってない俺を金と身二つで外へと放り出してくれた訳だ。

門の内側から

「恭梧は、世界一可愛い奥さん貰って、世界で二番目に可愛い子供たちをいっぱい作るって仕事があるから!
破門よ破門!そんなに弱っちいの、要らないから!
私を喜ばせたかったら、子供見せに来て!次門を跨ぐ時は父親んなってないと、跨がせないから!」

わかったな!と、目の前で俺の刀をばきりと折り、かわりにと、いつか、俺に毎晩焚かせていた藤の香を入れていた香炉を投げつけてきた。

俺を、やっぱり捨てるのか、とか何とか、いつか吐くことになると思っていた台詞はとうとう出てこなかった。

大きな音を立てて閉まった門の向こうから、すすり泣く音が聞こえてきてしまったからだ。
いつかのように俺の名前を、啜りながら囁いてる。

「狡ぃな」

俺は初めて、雲一つない空の下で名字に頭を下げていた。





それからは適当な長屋に住んで、たまたま知り合った大工の親父に見初められてそのままそこで職にありついた。
正直働く必要などないくらいの金はあったのに、どうにも何かをしていないといけないと思ったのはなぜなのか。
だが兎に角、その親父の娘っ子と俺は結婚して、程々にやっていた。
いつからか、苛立つと志津を抱きしめるのが癖のようになっていて、「甘えたさんやねぇ」と言われたのは名字のせいだから、いつかシバイてやりたいと思う。

そんな女は、名字は俺のガキを見せに来いと、そうしたらまた敷居を跨がせると言っていたくせに、跨ぐものすら残してやいなかった。

「父ちゃん?」
「んー」

足元からの声に視線をやると、手のひらで額の汗を拭う息子が、大きな目をしばたたかせて俺を見ている。
その小さな体を抱きかかえて、熱すぎる体温に舌打ちをして、肩に乗せてやることにした。

「わ、あ!!すげぇ!!たっけぇなぁ!何もねぇのが見わたせる!」
「そうだな」

嬉しそうにはしゃぐ柔らかい手が俺の髪を掴み、

「ここに来たかったの?父ちゃん」

俺を覗き込んで笑っている。
いつかここで、一人で見上げた青々とした雲一つない空は、実弥がその殆どを覆い隠して、全然違う景色になっているが、ここに流れていた時間を俺は確りと知っている。
覚えておこうと思う。

「知らねぇ」
「ふーん?なぁ、父ちゃん、腹減ったぁ」

俺はその場で、また小さく頭を下げて、それから家路に着く。

「帰るかぁ、実弥ぃ」




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