お風呂に入ることが出来なかった一日目。
ひどく汗もかいたのに、匂わないかな、って心配をした。
二日目になると、頭が痒くなっていた。
だから、川で水浴びをする事で解決を試みることにした。
じとりと、水面にうつる自分の顔を眺めてから、手でかいてかき消した。
冷たい。
日がたっぷり入ってくる昼時。それでも山の中。
もう夏になろうか、という季節なのに、まだ肌寒かった。
肌に当たる風がひんやりとしている。
実弥さんと、夏にふざけて表で水をかけあった時は、多分こんなに冷たいと思わなかった。
日があたっていたからかな?
それとも、実弥さんが居たからだろうか。
そんな事を、ぼぅっと考えていたら、ガサッと音がした。
ガサガサと言う音は響いてきて、私はとりあえず刀の鯉口だけをきっておく。
「名字ー……っな!!!ば!!服!!」
草葉をかき分けて現れたのは、須玖君だった。
「わ!!びっ、……くり、」
「俺の台詞だ!兎に角、服!!」
「あ、ごめん!」
彼に言われるままに、慌ててサラシを巻き、下着をつけてシャツを羽織り、袴を穿き込む。
「任務また、一緒なの?」
「そーらしい」
「別々でもやれるって、上の人に言ってよ」
ちょっとだけ鼻で笑う音がして、振り返ると、私に背を向けて繁った草の上で胡座をかいている彼の後ろ姿が目に入った。
「あとベルトだけだから、ごめん」
「いや、……いや」
そうとだけ言って、ちょっと項垂れているから、ダメージは大きかったのかも知れない。
絶対童貞だ。
なんて思ってしまったから、もう悪戯心が働いて、近くに寄ってから腰を曲げ、耳元で私は囁いてみた。
「どこまで見ちゃった?」
「……っ、くそ!!」
バッと立ち上がり、キツく私を睨みつけた彼の鼻からタラリと垂れたものを見て、思わず指を指してしまった。
「あは!めっちゃ見てるんじゃん!」
「くそ!見たくて見たわけじゃない!!」
「そんなに?コーフンしたの?!うける」
笑うな!と奥歯を噛みしめる姿すら面白くて、ケラケラと笑う私に、そろそろ任務へ行け、と鴉が急かし始める。
濡れた髪を適当に後ろで縛り上げると、それで準備も整い、まだ少し離れた所で不貞腐れている須玖君に行こう、と声をかける事にした。
*
丸3日かかった任務もほどほどで終え、藤の家に着く頃には日も登って来はじめている。
「いっそ帰っても、良かったかも……」
「いやいや、休もう、とりあえず」
「疲れたなぁー」
須玖君が隣で小さく頷くのを見ながら、藤の家の門を叩いた。
今回の任務では、人里で鬼が潜んでいた為に探すのも一苦労だったのだけど、おかげと言うか、まぁ、おかげと言ってはそうなのだけども、いつか実弥さんがくれたのと少し似た瓶の椿油を見つけたのだ。
任務の最中、とはいえ聞き込みだったのだけど、それをそっちのけで買い物をしてしまったのは、いっそ仕方がなかった、と思ってもいいと思う。
今使っているものが、実弥さんがくれた頃のものと匂いが少しばかり違うのだ。
同じ椿油なのだから、一緒でしょ。
って、思っていたけど、各メーカーのシャンプーの匂いが違うかの如く、違う。
あの、ほんの少し甘やかな、それでいて後からちょっとだけスッキリとした匂いのやってくる感覚を私はどこかで覚えている。
けれど、未だ見つけられていない。
少しツンとした匂いの強いものから、どちらかというとまろやかな角のない匂いのものまで。
たくさん匂ったけど、どれもしっくりこないのだ。
でも、パッケージはどう見てもこれが一番近い。
今回は期待ができるかも。なんて。
実弥さんが亡くなってしまってから、もう暫く立つ。
恐らく10年とか、それくらい。
いっそ匂いも忘れてしまっているから「違う」って感じるのかな?って思ったんだけど、絶対に「そうじゃない」って、どっかで思うんだから、仕方がない。
自分が満足の行くまで探そう。
そう、思ったのだ。
おかげで、私の私物のその殆どは椿油だったりする。
どこか願うような気持ちで、藤の家の二階の一室。
ローテーブル、この時代だと文卓って言うらしいんだけど、兎に角その上で、瓶の蓋を開けて、手で仰いで匂いを確認してみる。
前回の物よりも、近い、気がする。
でも、多分これじゃない。
多分。
きっと。
きっと、もっと甘やかだった。
もっと、胸に残る匂いだった。
もっと、かぎたくなる匂いだった。
適当に蓋を締めて、文卓の上に体を預けた。
「実弥さん」
音にすると、なんだか泣きたくなってしまった。
会えない事なんて、わかっている。
やっぱり、実弥君じゃない。
実弥さんが良い。
実弥君を見たことで、余計にありありと思い出してしまった実弥さんの姿を、もう一度見たい。
抱きしめたい。
「いるかァ」って、いつもみたいに、手を広げて待っていて欲しい。
そうしたら、私はそれだけで幸せで笑ってしまうでしょ?それ見たら実弥さん、嬉しそうに笑ってくれたじゃん。
私はまた、あの頃に戻りたい。
戻れないことなんて、わかっている。
でも、わかっているからこそ、せめて、覚えている思い出をそばに置いておきたいな、って。
思い出にあるものを、もう一回見つけたいなって。
それくらい、あってもいいじゃん。って。
「実弥さん、」
会いたい。
まるで、慰めるみたいに、文宅の上に沈んだ私の頭を、鴉がつんつん、と突く。
ここ、多分湖ができる。それくらいに、泣きそう。
暫くしたら、私の鴉が「ゲェッ」と、藤の香袋を吐き出して、ここの人に渡せ、って言う。
「えー?なんで?いつもはそんなこと言わないじゃん」
「マレチ」
短く告げられた言葉ですら、実弥さんの事を思い出すキッカケになるの、本当にどうにかして欲しい。
「わかった。わかった、わかった。わたしとく」
私の言葉に満足したのか、バサバサっと羽をバタつかせた真黒な身体を窓枠に引っ掛けて、どっかに行ってしまった。
泣き止むまで待ってたんだから良いだろ、とでも言ってんのだろうか、って、少しだけむくれたくなったけど、黙っておく事にする。
まだもう少し浸って居たかったからだ。
「名字!」
「わっ!!」
「悪い!」
須玖君が、大きな声で嬉しそうに襖を開けたから、ビックリして身体を跳ね上げてしまった。
腕が当たってしまった椿油の小瓶は、パタリと倒れてきちんと閉まっていなかったから、中身が溢れて分卓を汚す。
「わー、……これ、絶対落ちにくい……」
「なんだったか、こういった手入れの仕方もあったろう?……そういう物だ、多分!」
適当なことを言い始める須玖君に、ちょっと笑ってしまいそうになりながら、須玖君の差し出してきたハンカチで遠慮なくガシガシ拭き取ってやった。
「で?なんかあった?」
「いや、今日の昼、天ぷらうどんが食えそうだ、と」
「えー、やった!」
すっかり油濡れになった藤の香袋を持ち上げて、におうかな?
と、嗅いでみた。
頭を、ガツンと殴られたみたいな。
違う。
喉を絞められた、みたいな。
正しくない。
心臓を潰されたみたいな。
もしくは、全部。
首筋までブワッと、鳥肌が立つ。
指先が震えた。
「……これだ」
「?どうかした、……どうした?」
須玖君の言葉には答えられなかった。
もう、息もうまく出来ないくらいに泣いてしまったから。
ごめん、って思いつつ。
もうすっかり、匂いの変わった自分の髪に、擦りつけてやりたい。
そうしたら、あの頃に戻れたりやしないだろうかって。
私の背を擦ってくれる須玖君には申し訳ないけれど、暫く泣き止むことなんて出来はしなかった。
また、実弥さんに会えたような、そんな気がしたのだ。
何気ない日常が大切だった。
一緒に食べたご飯が、美味しかった。
白菜の煮物ばっかりが得意だった私に、実弥さんが他の煮物の作りかたを教えてくれて、私は実弥さんにお肉の調理を見せたりして。
お酒を使ったフランベが、凄く気に入ってたから、ホントは始めに事故ってそうなっただけだったんだけど、「すげェ」って凄く楽しそうに声まで上げて見てたから、何度もするのは地味に怖かったけど、してたのは、最後まで言えていない。
博識な実弥さんに、花の名前を教わった。
そのおかげで、私未だに沢山の花を覚えてる。
実弥さんの顔なんて、もう忘れそうにすらなってたのに。花は常に目に入るから、嫌でも教えてもらった日を思い出してしまうんだ。
体が上手く扱えなくなってきた実弥さんの気分が晴れるようになれば良いって、庭に植えた花は、半分以上、言い過ぎた。もっとだ。殆どが、駄目になったけど、それでも根を張ってくれた水仙は、嫌味なくらいに春になる前には花を咲かせてた。毎年。
実弥さんがいなくなっても。
そんな日常が、大好きだった。
大変なことだって、泣きたくなることだって馬鹿みたいにあって、今だってそうだ。
もっともっと早くに決意して、実弥さんが私を見つけてすぐの頃に、無理言ってでも刀の鍛錬でもしておけば、もしかしたらその先は変わったかもしれないじゃない?って。
実弥さんがもう少し生きられる未来があったのかも、って。
実弥さんの弟だって、もしかしたら、生きてたかもよ?って。
そんなもしも、なんて。
考えたくないのに、考えた。
何度だって後悔してる。
だから、それはこれからするんだ。
このにおいだ。
投げるみたいに適当に放って寄越してくれたものと同じだ。
なんだ。実弥さん、私のこと結構最初から、すごい大事だったんだ。
私のこと、すごい好きだったんだ。
ちょっとだけ、わかってた。
そんなつもりだったけど、もっともっとずっと、私が思ってたよりずっと、私大事にされてたんだ、って。
死なないって、知ってるはずなのに。
あー、もう、好きだなぁ、って。
恋しさに、擦り切れそうだ。
やっぱりもう、会いたい。
「すき」
「すき。」
「すき、あいたい」
「……つれてって」
「そばにいてよ、」
「すき」
「むかえにきて」
知れて嬉しいのに、
やっぱり、知るんじゃなかった。
溺れそうだ。
実弥さんが居ない。
それだけで、ずっとずっと、息ができていないの。
間違っても「心配しないで」なんて、言える日は来ないよ。
だから、
むかえにきて。
腐った水の中の魚みたいに、私はどこかでずっと。ずっと、死を待っている。
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