小説 | ナノ

男には既に妻が居た。
特別珍しい事ではない。
少なくとも、今私の存在しているこの時代では、そういうものだ。
子を産み、家督を継がせねばならない。その為には、甲斐性さえあるのなら、子を産む女は多いほど良い。
そもそも、産まれても成人まで生きる子供の方が少ないのだ。
産んでもらえるのなら、産ませる、これも男の仕事に他ならない。
ただ、男は誰が見ても、私に傾倒していたと、思う。けれどそれで誰にも何も言われなかったのは、男とその、もう一人の妻、正妻との間に、長らく子が出来なかったからだ。
男の母は、寡黙な人だった。
貝のように、口を厳しく引き結び、開くことをしない。
ひっ詰めた髪は、綻びを許さないとでも言うように、いつも厳めしく纏められており、その厳しさを更に助長させている。
口を開いても、「息子に任せています」と。それ以外の言葉を、私は聞いたことがない。
永らく、誰かと共に居ることを選んでこなかった私は、これが普通なのかどうかも分からない。
けれど、いつも私の傍にやってきて、「今日は美しいリンドウを見つけた」そう笑いかける男に、私も心を傾けていた。
もう一人の妻が居たことなど、忘れるほどには。
その母の存在が、気にならない程には。

ややこが、腹に宿った。
男は酷く喜んだ。
それに私は喜んだ。

「あぁ、産まれるのか!!」
「ふふ、まだまだです。ささ、今日も忙しいのでしょう」
「ああ!また来よう!」

そう言って、軽やかに部屋を去っていく男に私は頬を緩める事を堪えることが出来ない。
部屋に吹いてくる風が生ぬるくべたついていて、もうすぐ夏が来ることを告げていた。
その日の夕刻だった。
食事の中に、いつもは見ない色をしたものが交っていた。
私は食事を持ってきてくれた侍女の者に、「これは?」そう問うた。

「滋養に良いものです」

そう、にこやかに小首をこて、と傾げる仕草と共に言う。愛らしい、女子だった。

「ありがとう」

その日の夜、私は男に縋り泣いた。
ごめんなさい、ごめんなさいと、何度も何度も縋り泣いた。あの女子は、侍女の着物を身に纏っていた、彼の正妻だと言う事を、私は後に知る。
その子は、この世に産まれ落ちてはくれなかった。
私は急速に自身の置かれている立場を理解した。

お母さまは、優しさで黙しているのではない。正妻と私はいつでも平等ではない。子には罪はないのに、狙われるのは私ではないのだ。
鬼も、人も、なんて醜い。
けれど、私はその女を特別憎いとは、ついぞ思わなかった。
我が子を殺した人間だった。けれども彼女も、時代に、この家に、自身の背負うものに、自身の立場に殺されているのだ。
誰が怨むことが出来ようか。
ただそれでも、わりを食うのが子供である。それだけはやはり、頂けないのだ。
私は自分の不甲斐なさが、一等憎らしかった。
自分の子を、護る事の出来なかった歯がゆさだけが身を占めていく。
握りしめた拳を、

「朱乃が無事で、良かった」

そう、ゆるゆると解いてくれる男の優しさが、痛かった。
その男を、心から愛することが出来ず、頼り切ることが出来ない事も、更に申し訳なく、それに何も答えることも、出来ずに、ただただ歯を食い縛り、口ごもっていた。


それでも私は、殺意を覚えるほどの慕情を知っている。
身を焦がすほどの想いを、知っている。
終ぞ、どのような人間にその思慕の念を覚えているかは、覚えてはいない。けれど、私が愛していた人が、それを許さない人であっただろう人だと言う事は、躰に刻み込まれている。
彼は、人を殺すことを、何よりも恐れていたと、思うのだ。
だから、私が人を殺めることを、彼はきっと、許さない。




私の腹は、また大きくなっていた。
あれ以降、食事は自分で用意をしていた。ながらく野営などしていたのだ。別段苦などは無かったし、野蛮と言われようと、臭い、と罵られようと、それこそこれで子供が護れるのならどうだって良い。
男は、酷く心配していたが、正妻の実家との縁ゆえに、彼女をどうこうする事等出来る筈も無く、「大丈夫です」私のその言葉に甘えてくれる。

時には一緒に食事をする。そうすると、私の善と、自分の善を侍女の目の前で入れ替えるのだ。

「あ、あ、お、おやめください!!!」

そう叫ぶ侍女の頸は辛うじて飛ぶことは無かったけれど、それ以降、もう彼女の姿を見ることも無かった。

「はじめから、こうしておればよかった!!」

そう笑う男に、私は胸が苦しくなる。
この仕打ちも、毒を食らうのも、疎まれるのも、私一人なら、良かったのに。
言えはしないのだけれど。

愛おし気に、私の腹を撫でる男に、私は、何も言えないのだ。

酷く苦しい夜だった。
腹が、腰が、割れそうに痛い。
臨月迄まだもう少しあるというのに、腹が張り裂けそうに痛いのだ。
もしかすると、腰かもしれない、いや、背中か。
痛い、痛い、と悶えて気が付く。子は、大丈夫だろうか。また、何かあったのだろうか。
あぁ、嫌だ。
前回の、股から流れ落ちていく感覚を思い出して身震いする。
あぁ、怖い。
怖い。
何度も、叫ぶように男の名を呼んだ。叫ぶように何度も呼んで、

気が付くと、目の前にはお母さまが居て、男は私から少し離れた所で足を揃え、腰を下ろしていた。

「気張りや」

貝のようだったお母さまは私にそう一声かけ、産婆が間に合うか、わからない、と。
お母さま手ずから、子を受け止めてくれるらしい。
もう私には頷く以外の選択肢は無かった。
長い夜だった。


おぎゃあ!!

大きな声で泣く子に、私は心を何度も何度も撫でつけて、ようやっと、男を見た。

「う、まれ、ましたよ」
「あぁ!!ああ!!!ようやった!!よう、やった!!」

うふふ、と、もう空気のような声が漏れ出るのが、早いか、それとも、痛みが先か。

「あぁあ゛あ゛あぁぁぁ゛!!」

首を切ることも、心臓を貫くことも、もう何でも無かったのに、この痛みは、異常だ。出産は、死ぬよりも、痛い。

「ふ、た、ご……や!」

お母さまの、動揺する声が聞こえた。
男は、息をのんだ。
この時代に双子は忌み嫌われる。だから、何方か一人を絞めてしまったり、生贄に差し出したりと、多様な方法で一人だったことにする。
私は其れを知っているし、わかってはいる。
特に、この男は、武家の人間だ。しきたりやなんやを、重んじなければならない人間だ。それは、わかっている。
男は、蒼い顔で母親を見やっている。
私が確認できたのは、ここまでだ。

産み落とした子は、お母さまが厳しい顔で、私に抱かせてくれた。
額に、痣がある。
"この子を、絞めなさい"
言外に、鋭い眼光がそう言っている。
男は首を二度、横に振り、"諦めろ"、と言外に言う。

私の子だ。
私の大事な子だ。
私の、たからものだ。
奪われたくない。奪われて、なるものか。奪わせたく、無い。

「出ていきます。二人を連れて」
「なりません。あなたとその子が出ていきなさい」

お母さまが、冷たく吐き捨てる。

「いいえ、この子たちは、二人、同じ様に育てなければなりません!後生です」

お母さまは、少しだけ考えてから頷いた。けれど、それに大きな声で異を唱えたのは、男だった。
あまりの声の大きさに、私は肩を揺らし、子は泣いた。
びりりと空気の震えをさえ感じる。
この人も、幾人も人を殺めてきた人だ。
その気迫を、感じる。いっそ、誰かを殺してしまいそうな。

「許さぬ」

男は激怒していた。

「許さぬ。心迄もは、とうに諦めた。……知っておる。お前が、俺を見てはいない事等。」

あまりの気迫に、私も、お母さまも、息をのむことしかできすにいた。
ゆっくりと、子を抱きかかえた男が、顔を私に向けて、睨みつけるように、こちらを見た。

「俺から、離れる事等、決して、許さぬ!!!」


男の激昂にお母さまは腰を抜かした。あの厳しいお母さまが、だ。
子を殺さないと言う事には落ち着いたものの、二人を共に育て上げられるのは、二人が乳を飲む間のほんの少しだけ。二人が、二つの歳になる頃には、私は弟の方と離れに住まう事。
それから、十になる頃には、この子を手放す事。
それが最大の譲歩だった。
仕方がない事だ。
しようのない、事だ。
せめてそれまでは、沢山の愛情を、注ぎたい。
確かに二人を、二人ともを大切に思っていたのだと、わかって欲しい。実感してほしい。
情けない母親だけれど、今の私には、これが精いっぱいなのだ。あまりの不甲斐なさに、矢張り私は、歯噛みする。
男は兄の方に、巌勝と名をつけた。
いつも、何者にも勝ち続けられるように。
勝ち得られるように。と。
その言葉に、私は男から顔を反らした。

私は腕にすべてを委ねるふにゃふにゃとしたまだまだ便りのない体を抱きしめながら。
全ての良縁が、この子に壱つとなりやってきます様に、と。私の変わりに、この子を愛しんでくれる者に出会ってくれます様に、と。縁壱、と。
二人が一つであったことを。この二人の縁が、必ず一つに、絡まりあいます様にと。


それから、季節が二度巡り、この子たちを、離れさせなければならない、そう決められていた時が、やってきてしまっていた。
何度も二人を抱きしめた。

「みちかつ、みちか、つ。母は、お前を愛しています。母は、誰よりもお前を、愛しています!!」

きっと、苦しいと思うくらいには抱きしめてしまっただろう。
私は、この家で、立場も権力も無いものだから、従うことしかできない。不自由を、させる訳にもいかないから、連れ去ることも、出来ない。
私が二人が一緒である、と言う事に拘りさえしなければ、この子たちは不自由なく暮らせるのだ。
なら、それでいいではないか。
いいではないか。
あの日は、二人を連れ出ていくと、啖呵を切ったにも拘わらず。
私はなんて臆病になったのだろう。
何が二人にとっての幸せなのか、もうわからない。
正妻が居る以上、お母さまが居る以上、これ以外に、出来る事がないのだ。
もどかしい。もどかしい。いっそ、殺してやりたい。

「いたい」

と、みちかつから、あまい、子供の独特の声が上がる。
胸がずきずきと、痛みを増して抑えられないものが塊となって、私の頬を濡らしていった。
まだ二つになったばかりの巌勝と、今日ここで、私はお別れをしなくてはならない。
はなれに住むことになる私と縁壱は、もう、そう易々と巌勝に会うことは許されなくなってしまうのだ。

「すまない」

そう、男の謝罪する音を、私は受け入れることが出来なかった。



巌勝は、真っ直ぐに育った。
まるで会うことは叶わないまでも、はなれから毎日剣術の稽古をする、巌勝の声が響くたびに心が温かくなったものだ。
縁壱と同じ大きさに、もう一揃え、同じ様に着物を縫った。
私に用意されていた部屋には、もうたくさんの二揃えの着物がある。
今、渡すことは叶わないけれど、いつの日か、これを着てくれる日が来ると言い。
そう願いながら、決して上等とは言えない反物を、今日も縫い上げるのだ。


縁壱は優しい子だった。
争いごとも、諍いも何もかも無縁の、どこかおっとりとした子で。
縁壱は、とても素直で愛らしい子だった。
真っ直ぐで、この世の汚い事等何も知らないというような。このまままっすぐに育って欲しい。
そう思う。
出来る事ならば、ずっと、二人を見守っていたい。

けれど、私はきっとまた、どこかで二人の前から姿を消すことになるのだろう。

縁壱が、私の腕を掴み、ふるふると頭を振る。
手の中の椀物を食べてはいけない、とそう言っているのだろう。
わかっていた。
わかっていて、私は食べている。
縁壱にあたるものが、美味しくも無い赤米や、なんやばかりで申し訳はないけれど、全てを食べていなければまだ他に何かされては、縁壱に何かをされて、護れるのかわからないから。
こんな護り方しかできない母を許してほしい。

「ごめんね、縁壱。」


定期的にはなれに届く花は、きっと男が持ってくるものだろう。
それを私は一輪挿しの花瓶に生けて、時には桜、時には椿、黄梅、杜若。
色とりどりの小さな美しいそれが、いつしか私の世界の全てになっていた。

「綺麗ね、縁壱」
「はい」


縁壱は、毒でまともに身体の動かなくなった私の体を、いつも支えてくれる。
よく気の付く子だった。
だから、私は気が付いてしまった。
あまりまじまじと、見たことの無かった縁壱のその目を確りと覗き込む。
見えている。
きっと、この子も、見えている。
縁壱は、私の不死以外の全部を、恐らく継いでしまっている。
恐ろしい程に、強い子になるだろう。
決して争いごとを望まない、この優しい子は、その大きすぎる力故に何もかもに巻き込まれてしまうだろう。
どうか、それを隠し通せることを願う。
この力の責任を、背負わなくても良い事を祈る。

その日は突然だった。
七つになった頃。
私の体はもう限界だったらしい。
恐らく、直に私は死ぬ。
そう、何となくだけれど、わかってしまった。
死んだら、消えてしまうだろう。そんな、気がするのだ。
きっと、男は自分を責めるのだろう。
男は、後悔するのかもしれない。悲しんでくれるのかもしれない。
いつものように、暗い室内で薄手の着物を縁壱にかけて、まだ動く右の腕で、縁壱の髪を何度も梳いた。
鈴虫の音が響いていた。

「縁壱、兄さんを、まもってね。」
「兄さんを、頼むわね。」
「兄さんと、幸せに、なるのよ。」
「縁壱、……愛しているわ」

私は静かに目を閉じた。

「はい、母上」


濁流のように流れてくる走馬灯のような映像に、頭を太鼓か何かのように、何度も殴られるような感覚。
酷く、痛かった。
痛みのあまりに、頭を押さえつける。
真っ暗闇の中で、流れてくるのは、これは、きっと記憶だ。
私の、記憶だ。

思い出される記憶全てに、鬼がいる。
おかしい。
そうだ。
おかしい。
私は、何度も何度も無惨を殺してきたはずなのに、どの時代に遡り、無惨を殺しても、その前に生きた世界には無惨が居る。
つまり、殺したところで、未来には影響を与えない?だから、無惨はずっと生き続けて、私の大切なものを、私は護れる日は、来ない?
私が殺してきた無惨は、同じ様に何度も生き返る、と言う事?何度も、彼も時を遡っていると言う事?
それとも、私が殺している無惨は、藤間さんや、須玖君、煉獄さんや、秋さんたちが生きてきた世界に居る無惨とは別人だと言う事?
並行世界に、いると、言う事?
もっと、別の……?
では、他の鬼は?首を、斬るときに私を母と呼ぶあれは?
……縁壱、巌勝、…………黒死牟、
…………
……………………あぁ、あぁ、何てことだ。
何てことだ!!
私が産んだ。確かに、巌勝は、私の子だった!
何てことだ!なんて事だ!!
巌勝の、悲しく私を母上と呼ぶ声が頭に響く……
鬼に、されてしまう。
鬼に、なってしまう。
縁壱、が、あの優しい子が、兄さんが鬼になって、平気なはずがない。
沢山の物を、背負うことになるのだろう。
避けて通れない道が、嫌と言う程に、あるだろう。
何てことだ。
沸々と、忘れていたものが、感情が、胸の中で薄汚く戸愚呂を巻いて鎌首をもたげていくのがわかる。
これは、明確な殺意だ。
どろどろと、明確に悪意が沸き立つ。
まごうことなく、私は今、殺意を抱いている。

「鬼舞辻、無、惨………こ、ろ、してやる。殺してやる!!!」

苦しい。
怒りで、息が上手くできない。
目の前が、霞む。

私はやはり、そうして刀を握り直す。
もうそこには、いつかの鍔は無いけれど、同じところも何一つとして無いけれど、それでも私には守らなくてはならないものに溢れている。
死んでも、死んでも生き返るのなら、生き返ることが出来ない程に、殺し尽くせばいい。
もう、歯向かいたくなくなる程に、殺し尽くせばいい。

人に、手を出せなくなる程に、殺し尽くしてしまえば良い。


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