小説 | ナノ

お腹を撫でると、とくとくと心臓が動いている気がする。
ずっとずっと、色のなかった世界に、お腹が大きくなるにつれて段々とこみ上げてくるものがある。
この感覚は、はるか遠くに味わったことがある気がするのだけれど、もう覚えていない。
ただ、その時に胸を占めた気持ちはずっとずっと、忘れていない。
何よりも愛おしく思った。
気が狂いそうになる程に、嬉しかった事をだけ、覚えている。
紅葉のような、ふくふくとした指を、手を。
握られる指の強さを。
もう、顔も名前も思い出せないけれど。
それでも私は、覚えていた。

「朱乃」

そう静かに呼ぶ声に、ゆっくりと振り返ると、戸の陰から出てくるように部屋に入ってきた男は、そのまますすすとやってきて私の隣に腰を下ろす。

「もうすぐだな」

そう言いながら、少しばかり頬を緩め、私の腹を撫でる。この男に拾われたのはもう、はるか昔のように思う。
それからは、幸せだった。
白黒だった世界には、確かに色がついていったのだから。





何度も何度も時を巡った。
その度に助けたい人は増えて、愛おしく思う気持ちは膨らんで。
私は継国縁壱と名乗る男と無惨を滅することが出来た。
出来たのだ。
無惨の横にいた美しい女の鬼はまるで消し炭のように風に吹かれて消えたのだ。
無惨が、死んだ。
私は、もう死ねるのではないか。
これで、消えることが出来るのではないか。
もう、この世界の人々は、鬼に脅かされることなく、鬼を知ることなく世界に愛されて笑いあえる日々が待っているのではないか。
それを考えると、自分の事のように嬉しかった。
誰かに私は「よくやったなァ」そう言って貰いたかった気がするのだけれど、誰だったろうか。
とても、大切な思い出だった気がするのだけれど、どんなだったろうか。

隣を見ると、私と同じように、夜の闇に隠されながら、空を仰ぐ剣士が居る。
私と同じような痣を、額に携えて。
珍しくすこしだけ汗をかきながら。

「継国様、ありがとう。」

私が彼を巻き込んだのに。
彼はずっと、刀など握りたくはなかっただろうに。
復讐などに身を窶す事など、本来はしなくてよかった。
妻を子を弔って、まだまだ若い身空なのだから、そのまま新しく女房でも作ればよかったのだ。
なのに、この人の半生を、私は使い潰してしまった。
こちらを向いてから、静かに、ほんの少しだけ口角を上げた彼は、私の顎から頬にかかる炎のようにくゆる痣を一つ撫ぜて、静かに、ただ一つだけ頷いた。

それから、彼がどうしていたのかを、私は知らない。
私は何もすることがなくなってしまった。
寺に身を置き、静かに過去を思い起こしながらいつ消えるのか分からない余生を過ごす事にしていたのだけれど、
一向に老いず、死にもしない。
私は寺を出た。

もうその頃には、年号も変わってしまっていた。


私は、沢山の鬼を斬ってきた。
そのうちに、鬼を斬っているのか、人を斬っているのか、自分がしている事がわからなくなってくる。
私は遥か昔、ここに落ちるよりもずっと前、たいそれた人生を送ってはいなかった。
ひどくつまらない人生だったと思う。
それが退屈で、退屈で。
こちらに来てから、刀を振るい始めてから、私の世界は色付いた。
きっかけはそうでないのかもしれないが、私は確かに、自分が強くなっていく事に喜びを感じたし、誰かを守れている、誰かの役に立っている、誰かのために生きている。
それがただただ、嬉しく、楽しかった。
私は、鬼を殺して、楽しんでいたのだ。
いつかの鬼に、言われたように。
図星だった。
そう、命を奪う事に、私は確かに喜びを感じてしまっていた。
きっと、そう言う人間だからだ。
そう言う人間だったから、きっと地獄に堕ちたのだ。
私は、そう言う人間だったから、死ぬことをすら、許されなかったのだ。

思い起こすことの出来る記憶は、もう遥か少ない。
膨大な量の記憶を、このちっぽけな脳では扱うことが出来ないのだろう。
だから、誰かと交わしたのであろうか、自分で誓ったのであろうか、鬼を滅ぼす。滅し尽くす。私はその為だけに生きたのだ。
ぼう、と歩いていると、いつの間にか森に入っていた。
青い草の匂いがする。木の根から、水が吸い上げられていっているのが見える。それから、葉まで辿り着き、葉脈に広がっていく。それを瞼に焼き付ける。
花の蜜を求めて蝶が舞い、蜂が飛び、童の声がどこかから聞こえてくる。
近くの木の幹に腰を据える。
それから幾何か経とうかと言う頃。
草葉の揺れる音。
そちらに目をやると、
腹を空かせた熊の親子が居た。
腹の中は空っぽで、特に母親の腹が酷い。
もう何日食っていないのだろう。
あぁ、そうか、冬眠から覚めたところなのだろう。

ここで、何かの糧になる、そんな終わりも、悪くはない。
悪くはないな。
こうやって、私の罪すらも食べてくれれば良い。
どうか、この子たちの腹が満ち満ちます様に。
そう、静かに目を閉じた。


次に目を開いたときには、目の前に鬼が居て、私の腸を食っていた。

あぁ、終わってはいなかった。


絶望。
それがその時に感じた、ただ一つだけの気持ちだった。

この世界は、終わっては、居なかった。

また、目を開き直す。
世界はやはり、薄暗い。
世界はやはり、薄汚い。
その鬼を羽交い絞め、朝日を浴びせた。

私には何も無かった。
する事も、なしたいことも。
鬼は、またこの世界に現れた。
けれど、それは、殺しても無駄だと言う事だと、瞬時に私は理解が出来てしまった。
ならば、もうやめよう。
もう、守りたかったものが何かも忘れてしまったのだ。
守りたい、その気もちだけでやってきたけれど、もう無駄だったじゃないか。
全部、無駄な事だと、わかったじゃないか。もう、やめよう。
食物連鎖の一環だと、諦めてしまえば良い。

そう思うのに、私はまた刀を握っているのだ。
私は、もう、生きていたくもないのに、死んでしまいたいと、心から願うのに、無様にも、無様にも、名も憶えてすらいない、輪郭でさえはっきりとしない愛していた者たちの幸せを、未だに願ってやまないと言うのだ。


「天女だ」

その男が、私の姿を見て発した第一声がそれだった。
鬼の血を浴び、素っ裸で刀を振り下ろし、鬼の首を刈り取った私にその男はそう言ったのだ。

その男は不思議な男だった。
身寄りもなく、素性も卑しい私に、綺麗な服を着せ、天女だと笑いかけ、顔の半分近くを痣に覆われた私の顔を見て、

「美しい」

そう、いうのだ。

「名を、そろそろ教えては、くれないだろうか」

その男の言葉に私は俯いた。
視線の先にある、畳の紋縁の装飾が美しい。

「私は、自分の名を、覚えていません。」

男は息をのむ。
自分とてわかっている。
そんな事、普通にこの男のように生きていたならありはしないのだ。
捨て子や某でも無ければ。
でも、全部がどうだっていい。
もう、どうだって、よかったのだ。
この男に、どう見られようと、捨てられようと鬼に食われようと、死のうと生きようと、もうどうだっていい。
私は悠久の時を、この男よりも、どの人間も敵うことの無い長い永い時を、生き汚く永らえねばならぬのだ。そう、決まっているのだ。
全部が、どうだっていい。

少し外を歩こう、そう男に手を引かれて庭の小さな池を見た。
鯉が居た。
別の日には、花を摘んで、照れくさそうに私に男が花を渡しに、私に与えた部屋までやってくるのだ。
本を読み聞かせてくれた。
酷くゆっくりと話すから、私は眠たくなって、その男の肩に頭を預けて眠ってしまう。
花見をしよう。
そう、外に連れ出される事には、もう季節はぐるりと廻っている。

「あの日の、事を覚えているだろうか。」

男の声が、葉の擦れる音と共にこちら迄届く。

「えぇ、」
「夜明の綺麗な日だった」
「そう、でしたか」

あれは夜明けだったろうか。
灰色の空に浮かぶような真っ白な桜の花びらに、そっと触れた。
枝垂桜。
花は顔を私達に向けて、頭を垂れるみたい。
そよそよと風が吹くたびに、その頭を揺らしている。
もう少し色付けば、きっともっと綺麗だ。

「その夜明の頃に君に出会えたから、朱乃。君は、あけの。どうだろうか」
「あけの」

その一言に、さぁ、と薙いだ一際強い風が花びらを舞い上げていく。
世界に色がついていく。

「朱乃。私と共に生きないか」

美しい、朱華色の花びらが、舞っている。
青ゝとした空の下で、美しい紺鉄に染め上げられた肩衣を身に纏い、少しばかり耳を赤らめている男が、唇を引き結んでこちらをじ、と見て言う。
桜が、まるで私を祝うように顔をこちらに向けて、揺れている。

「ともに、いてくれるのですか」

どこか懐かしい感覚だった。
ずっとゝ、待ちわびていた、とでも言うように、心臓が初めて鼓動を刻んだような感覚に、頬の筋肉がひきつって。
口角が上がっていってしまう。
なんて安い女だろう。
言葉一つで。
いや、違う。
この人は、私が見ようとしていなかっただけで。ずっと、こうやって、私に伝えようとしてくれていたのだ。
お家の決めた結婚だとか、詳しい事私は分かりはしないけれど、あるだろうに。
めかけ、とか、そう言うものなのかもしれない。
そう言うものなのかもしれないけれど、
どこにも居場所も、生きる理由も無い私に、それをくれると、言うのだろうか。
私の生きる意味を、くれると、いうのだろうか。

「ともに、生きてくれるのですか」

男を窺いみると、
ふるふると震えて、少しばかり顔も赤くなっていて、

「そう、言っている!」

拳を握りしめて。

私は、初めてこの男を愛らしい、と
初めてこの男に自分の心を向けた。

「お名前を、今一度、伺っても……よろしいでしょうか」

私はこの男に、愛されたいと、浅ましくも願ってしまった。


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