なんて不健康な。ほろ酔いと称すにふさわしい、このふわふわとした朧気。
真っ暗な天空に浮かぶ月は、妙に橙がかっていた。弓なりが下にむいていた。誰かと半分にしたそれを、誰が持っていってしまったのか。

もっとも、二宮の限界はすでにほど近くあったので、文字通り浮ついた意識でいられるのは今だからであった。強くないのは自分でちゃんと分かっていた。
隣にいる彼の人は、そんな限界など知ったこっちゃないというように、かろやかに歩みを弾ませた。三歩先をいったその背中は、大きな青い猫のように見えた。

真夜中へと連れ出されたのは、二人きりの酒宴のあとだった。
普段は眠りに誘われる時間。不健康というのはそのせい。
ぼんやりと熱い頭では、断るといった思考もなく。
最初からなかったくせに、という声は、無視をした。

楽しげな鼻歌が聞こえるようで。穏やかな微笑みは普段よりもさらに幼くなって。時折くすくすと小さくわらう。
いったい何が可笑しいのかと。聞けばその人は何と答えるのか。想像がつかなかった。するだけ無駄なのは知っていた。
「何か可笑しいんですか」
「ん? 楽しいよ」
答えにはなっていない。しかし、ほんの少しだけ見下ろせるようになった横顔に、視界が広がるような静けさを感じて、ならいいですとだけ答えた。
夜明けの空のような色合いの髪を、耳にかける何でもない仕草も、すっきりとした長い睫毛が瞬きによって揺れるのも、くっきりと意識にコマ送りで映される。
一秒にも満たない時が絵になる。そんな人だ。それらをスローモーションで刻みつけるのが当たり前になりつつあり、というかなっていて、溜息をつきたくなる。

それだけ、この人の近くにいる。
その一瞬一瞬を目に焼き付けることが出来るくらい。
深い夜に沈むことのない、圧倒的な現実の静けさが、しんしんと内側に降り落ちた。それは確かに形をつくる。

塔哉さん、と名前を呼ぶ。また数歩先で背中を見せていた彼は、「何?」と黒いジャケットの裾を翻した。
ぼんやりとした月明かりに浮かぶ、白い顔。街灯に照らされている、整った目鼻立ち。うっすらと、けれど確かな、柔らかさに満ちた笑み。

美しい人だ。溜息をつきたくなる程に。

数歩を埋めて、その左手を取る。持ち上げて、その指が唇に触れた。
彼の腕を下ろして、ぎこちなくこちらの指を絡ませた。相変わらず冷えやすい手だった。手袋くらいしてこい、なんて言わないけれど。
繋ぎ目が見えないように距離をつめる。どうせ意味がないことなんて、分かっていた。
少し強く握る。じわりとそれに絡みついてくる長い指。惚れ込んでやまない十本の白枝。それはそれらだけでは決してなくて。
ああ、限界とか、それが言い訳であったかどうか、嘘であったかどうか、全てこの手からこぼしてしまった。
「珍しい、ね」
「嫌なら、放します」
更に詰まる彼との間。詰めてきたのは誰でもない彼だった。
ううん、と首を振って、大事な肩に大事な人の頭が乗った。形のいい重みはこちらを見上げた。
「嬉しいだけだよ」

仮にも往来の場で何をしてるのか。そう、咎める気にも焦る気にもなれなかったのは。
(甘い、)
夜に薫るような甘さに、適う術が見つからなかったからだ。
不意に泣きそうになったのを、呼ぶとしたら、愛しさとでも言うのだろうか。

「寒いね」
「少し」
「でも、嫌いじゃないんだ」
「そうですね」
夜の空気が身体の中の全てと入れ替わっていく。
まるで夜に溶けていくようだった。
それでも確かにそこにいる。吸いつく肌が、混じり合う体温が、夜を歩く繋がった二つの存在を保証してくれている。

吐く息が白くなる頃は、まだもう少し先の話。
たとえ限界を迎える寸前でなかろうとも。二宮はきっと一ノ瀬の誘いを受けるのだ。
そしてまた、お互いに気まぐれに繋がり合うのだ。

並んで歩く大きな影を形作るのは、弓なりを下に向けたような歪な月だった。
優しさはこんな形をして、二人に淡ずんで在るのかもしれない。


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