本当の僕は 見えないでしょ?


cccシリョクケンサccc


古めかしい、書物の、紙の香りが、かすかに緊張感を持った静寂とともに漂っている。
嫌な緊張ではない。この空間特有のものだ。四条も六本木も、この学校の図書室が好きだった。
だからテスト三日前、肩を並べて勉強している二人の姿がそこにあることは、何ら不自然ではなかったのだ。

スムーズに動いていたシャーペンが、不意に止まる。くるくると指先で転がすのは、頭を捻っている時の癖だった。
鬱陶しがるように、若草色の緩やかな髪を耳にかけた。そのまま左手を口元にやる。形の良い唇をいじっている。
それでもやはり、答えも計算式もまとまらない。一息ついて諦めて、席一つ飛ばした隣で、真剣な面持ちでノートと向き合っている彼にこそりと声をかけた。
「ごめん四条、いま大丈夫かな?」
シルバーフレームに囲まれたガラス越し、髪と同じ藤色の瞳とすぐに視線が繋がった。
左手で眼鏡の位置を直しながら、六本木と向き合うように身体をずらした。
「ああ、平気だよ。どこか分からなかったか?」
潜めた声は普通の調子で、邪魔にはならなかったことにホッとした。あのね、とノートを四条の前へとずらしながら、どこで手が止まったのかを説明した。
六本木が引っかかったのは応用問題だった。確かに、これは少し難しいな。言って、学年トップ5には必ず名を連ねている我らが野球部キャプテンが、長い指と澄んだ声で解法を導いていく。
それに見とれて聞き惚れそうになりながらも、その内容に意識を集中させた。
四条って綺麗だよね。
そう零すのは胸の内だけ。頭の中は、彼が分かりやすく教えてくれる、複雑な計算式の整理に大わらわだ。
教えて欲しいと言ったのはこっちなのに、機嫌を損ねることはしたくなかった。
もっとも、彼の場合は気を悪くするよりも先に思考が停止しそうな気もするが。
「で、このαを……聞いてるか、六本木?」
「うん、聞いてるよ。四条の説明ってほんと分かりやすいよね」
いつもありがとう、そう付け足して笑ってみせる。ぱちくりと、男にしては長い睫毛が十回は瞬く。
あ、いや、どういたしまして、といきなりしどろもどろになる彼に、六本木はくすくすと小さく笑いを洩らす。
(動揺しすぎだよ)
マニュアル人間なのだ、野球と勉強以外は。頼もしいことこの上ないと言えばないのだが、もう少しその臨機応変な柔軟さを、対人関係にも活かせないものだろうか。
誤解されないように加えておくが、四条は別に人付き合いが下手と言う訳ではない。クラスメイトともチームメイトとも上手くやっている。
ただちょっと、ユーモアとか冗談とかが通じにくい真面目な堅物でさらに天然ボケのきらいもあるだけで。
―――ただ、ちょっとした悪ふざけに、上手くリアクションが出来ないだけで。
説明を聞いていたら、脳内で知識の歯車が噛み合った音がした。そっか、そういうことかと呟きながら、ノートをもう一度こちらに持ってきて、考えた式を一つ一つ書いていく。
無事に整ったところで、四条が覗き込んだ。やっぱり飲み込みが早いな、と褒められる。
ふっ、と、レンズの奥で和らぐ目元。六本木はそっと笑って、気取られないようゆっくりと顔を逸らした。
二人以外にいた唯一の生徒が、席を立ったのが横目に見えた。カウンターとその奥の事務室からは、死角の席であることも知っていた。
この学校の図書室は、広いのだ。見えない場所は、正味いくらでもあった。二人の姿は夥しい数の本棚たちが覆い隠していた。
こっちに座ろう。そう言ったのはわざとじゃなかった。本当だよ。
六本木は、素知らぬふりで目線を戻した。そしてもう一度笑いかけた。
それと全く同じタイミングで、野球部らしくない白い指が四条の顔に向かってきた。
疑問に思う暇がないくらい自然な動きが、大人通り越して渋いとたまに言われる、銀縁の眼鏡を掻っ攫っていった。
「わあ、すごいクラクラするね。そんなに目ぇ悪かったんだ、四条って」
知らなかったなあ、と零すのは、四条の眼鏡を自分で掛けて、すぐに外して瞬きをする六本木。のはずだった。
今の四条には、限界まで顔を顰めてとても人相の悪い顔をしても、六本木が持っている筈の眼鏡すら形を認めることが出来ていない。
「六本木、何をしてるんだ、お前は、」
「ねえねえ、四条、これ何に見える?」
四条が伸ばした手を絶妙な間合いで避けて、指を二本立てて見せる。
「……パーに見える」
くっと呻く四条だが、六本木の問いには答えるあたりが律儀だ。やっぱり限界まで眉を顰めた悪人面で。
その返答に目を丸くする六本木。そしてまた小さく笑い出す。図書館ということも配慮して、あくまで小さい声で。楽しげに。
「ほんとに、ほんとに目悪いんだね。へえ、そっか、知らなかったなあ」
無邪気に、四条の眼鏡をかざす。声からも分かるくらい、楽しそうにしているに違いない。
ぼんやりとしか見られないその表情。視力に問題ありですねと小学生から言われ続けていることを、初めて悔しく思った。
いや、そんな場合ではないと思いなおす四条。何せ、文字通り何も見えないのだから。どうにか返してもらわないことには、身動きすらろくに取れない。
そうやって真面目に考えてしまうことも、六本木は承知の上でまだ眼鏡をもてあそぶ。暴力沙汰にはならないことは、知っているから。
「なんか、新鮮。四条が眼鏡外すってあんまりないもんね。男前な顔、してるのにさ」
悪戯っぽく笑われた、と思う。しきりに四条は瞬きを繰り返していた。
くるんと、眼鏡の弦を持って、自分の頭上にまたかざす。
レンズの奥は、いつも見ている景色とはまるで違う、不明瞭で歪んだ世界だった。
「不思議だね。僕には何にも見えないのに。四条はこれがないと、何にも見えないんだよなあ」
ねえ、と言われるが、四条はどうとも答えようがない。返せ、と言っても、もうちょっと、と返された。何がそんなに楽しいのか。
自分の知っている彼が取る行動ではない。しかし、以前自分が妹に対して起こした過ちを思い出して、噛み潰した。
“らしい”“らしくない”という判断基準は、色んな意味で取るに足らないものであって、色んな意味で損をする。
きっと彼に対しても、その台詞を言ってはいけないのだろう。と、考えはするが、不可解に思うことくらいは許されたいとも思う。何せそれは行動する上での命綱だからだ。
「六本木、もういい加減に、」
「ねえ、四条。僕は、」
僕は、見えるの?
動きが止まる。また六本木の唇が動くのが聞こえた。「僕は、どんな風に見えるの?」
―――どんな風に、見えていてほしいんだ?
そう聞き返すだけの余裕は、残念なことに四条には見当たらなかった。
「……み、」
「み?」
「見えない、ぼやけてしか……」
一瞬、間の抜けた空気。それがすぐに破られたのは、六本木が図書館に少々響くくらいに、笑いを上げてしまったから。
「図書室ではお静かにー」
司書の声を聞いて、ぱっと口を閉じる。けれど、やっぱり顔は笑いを隠せなくて、声を出さないまま喉を鳴らし続けた。
正直に答えただけであった。と言うよりも、知っているはずだろう。さっき確かめたのだから。
何なんだ、これは。いったいどうしたらいい。そろそろ四条のキャパシティには限界が来そうだった。
「うん、ごめん、そうだよね、さっき聞いたよね僕、知ってたよ」
あー、お腹痛い。目尻に滲んだ涙を拭う。とうとう固まりかけている四条に、ひそひそと囁いた。
ふふっと笑い声で結んで、六本木が気まぐれのように立ち上がった。
「四条、目、閉じて」
えっ、と口に出したが、今度は四条がぼやけた若草色を見上げることになり、諦めて瞼を下ろした。眉間の皺は、少し薄らいだ。
ガタン。椅子がズレる音が聞こえた。1メートルもない間を、上履きの音が埋めてきた気がした。
両のこめかみに、慣れた無機質が戻ってくる。微かに引っかかるのは、ぎこちないのは、自分で掛けるわけではないから、仕方ない。
「いたずらして、ごめんね。もういいよ」
努力の跡がびっしりついた指が、頬骨をかすめてふっと離れる。妙に緊張しながら、目を開けようとする。
と、左の瞼が動かない。よくあることだと、右の瞼だけを持ち上げた。
片目だけでは、彼の長い睫毛も、白い肌も、整ったパーツも輪郭も、上手く把握しきれなかった。
唇に押し付けられた柔らかさだけしか、四条にはハッキリと分からなかった。
やっと、もう片方の瞼が動いた。それをゆっくり、限界まで開くと、さっきとは違った意味で、ピントがまるで合ってくれない六本木の顔を凝視した。
けれど確かに、儚げで優しい顔立ちが、花が綻ぶような笑みを湛えていたのが見えた。
ねえ、と言われてもまだ、時間は止まっていた。時どころか空気すら止めていたのは、満足げに、それでもはにかんでいた彼であったに違いない。
「僕のこと、見える?」
見え、る。答えたのが合図かのように、だんだんと石化が解けていく。それを分かってかいないでか、六本木は踵を返した。
ノート教科書ワーク資料集、流れるようにバッグへと詰めていく。「早くテスト、終わったらいいのにね。野球、したいなあ」最後に消しゴムを筆箱に入れて、それもバッグに放り込んだ。
チャックを閉める。椅子を仕舞う。四条はただ、六本木の急いでいるとも思える後片付けを、何となく見ているだけだった。
「今日はありがとう。もう遅いからさ、帰ろうよ。それじゃ、またね」
繊細な見た目の彼には不似合いなスポーツバッグを肩にかけて、六本木はまたねと手を振った。
少し顔が赤らんでいた。白いから、少しだけでも一応は分かる。やけに冷静な自分の思考を、どこか遠く違うところで聞いていた。
彼の姿が完全に見えなくなって、それからすぐ本当に暗くなって、四条はやっと茹蛸よりも真っ赤な顔で頭を抱えたのだった。


(頭の固い人だから、キスも硬いんだと思ってた)
そんなことないんだなあと。そんなことあるわけないと。初めから分かりきっていた答えが、そっと唇に触れさせた。
ぎゅっと瞼を閉じた。まだ頬が、熱かった。


――――――
イメージソング:40mP『シリョクケンサ』

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