ベッドのサイドテーブルの右の引出の中


「下仲主任、これ、もらってください!」
震える指先が差し出したのは、真紅に覆われリボンを掛けられた、想いの結晶だった。
下仲はそれを綺麗な指で優しく掴んだ。弾かれたように彼女は顔を上げた。
「ありがとう、嬉しいよ」
その美しい顔が微笑む。丁寧に受け取られたことと、憧れのシェフの笑みを向けられたことに感激した名も知らない女性社員は、「ありがとうございます!」と一礼してその場を去っていった。
後姿を見送り、包みをくるりと裏返して眺める。名乗ってくれればこれの出来を後で知らせることも出来たのに。と、どこかズレたことを思いながら、鞄の中に落とした。
もっとも女性達は、自分の気持ちの代弁者を添削されたくはないだろうが。自分自身、ずれているのは百も承知。だから下仲はあえてそんなことを考えていたのだった。その想い一つ一つに、いい答えを返せないのは分かりきっているから。
(どうしてこんな気を揉まなきゃいけないのかな)
微かに息をついて上へと向かう。以前であれば、罪の意識なんて感じずに済んだのに。受け取ることで満足してくれる女性ばかりだと思っていたから。今思えば、とんだ子供の発想だ。ちやほやされていい気になっていたとしか考えられない。
でも実際は違った。真剣に、愛を伝えようとする人もいた。それは下仲がその立場になったからこそ、分かることであった。―――『あなたの愛が欲しい』と、求めるようになってしまったから。
なんて皮肉だ、と一人ごちる。しかもその対象がまた、一風変わったとしか言いようの無いところが、毎年この日に罪悪感を加速させる要因の一つだった。
今度はもっと深い溜息を吐き出す。その憂いじみた表情に振り返る女性の視線を感じながらも、会議室へと一直線に進む。
後ろから、少し大きい足音が追ってくるのが聞こえた。そして、
「おい、なーに暗い顔してんだ」
来た。要因が今、下仲の肩を叩いた。
「……何つう顔で見んだよ、お前。え、オレ何かしたか?」
猫目がすうっと細められる。深い蒼色がキラリと光った。そこらのモデルが逆立ちしても敵わないような美形の、その様子は本当に恐ろしいものだった。
小西が引きつり笑いを口元に浮かべる。普通に挨拶をしたつもりだったのだが、一体何が彼の逆鱗に触れたのかは分からなかった。心当たりが(今のところは)見当たらず、どうしたものかと冷や汗をかく。
「……おはようございます」
そんな小西の心情を見抜き、少しだけ不機嫌な声で言葉を返した。ただの八つ当たりのような気がしなくもないが、もっと正確に言うのならば……
(―――仕返し?)
それもそれで違うような気がする。どうも上手い言葉が思いつかないので、ここらへんで終わりにしたほうがいいかもしれない。
「お、はよう」
「……別に、何もしてませんからね。だから小西さんが気にすることはミリ単位でもありませんからご心配なくー」
「棒読みやめろよ! んで目を逸らすな!」
この肉料理部主任と仏料理部主任の漫才に等しいやりとりは、滅多に見られない名物として浸透していた。以前は犬猿の仲として有名だったのだが、いつの間にやら仲が良くなっていたのは何故かと、小西が出戻ってからしばらくの間、噂話の的だったのは結構前の話だ。
今はすっかりとは言えないが沈静化して、二人の噂については落ち着いている。もっとも、悟られないように振舞っていた賜物であるが。
それはともかく。小西がふと小鼻を動かした。ん? と呟いてから、下仲に訊ねた。
「随分甘ったるい匂いがすんな。何か、持ってんのか?」
「え、……気づいてないんですか?」
何が、と返され、下仲はやれやれと溜息をついた。
「今日、バレンタインなんですが。素でボケたんですか、小西さん」
「……ああ、そっかぁ。そうだそうだ、忘れてた。だってオレ、チョコとかもらったこと無いもんよ。モテない男にゃとことん縁の無い行事だもんなぁ」
笑って髪をかきあげる。その仕草に、うっかりきゅんとなってしまう自分が妬ましい。何でこの人こんなに男前なんだ! とは、面と向かって言えるわけも無いけれど。(むしろ惚れた欲目か、これは)
顔は悪いわけじゃない。むしろ小西は見た目よりも、野生的な雰囲気や人好きのする笑顔、面倒見の良さが魅力だった。前はそういった一面も隠れてしまうほどに粗暴さと自己中心精神が目立っていたが、今じゃ年下から慕われる存在になっている。
逆に、ここまで上ってくるまでにもらっていなかったのかと、下仲は内心で驚いた。きっとたまたまタイミングが合わなかっただけなのだろうと、一人納得する。今日も社内を飛び回るから、言わなくても気がついただろうが。
(……自分はもらっといて、何だけど)
ああやって渡されたように、きっと小西も渡されるだろう。いじらしくて、可愛らしくて、必死で。
彼がそれに、応えることは無いのだけれど。
(それは僕も同じことだ。でも、)
心の奥で、どろりとした何かが溜まっていく。ちょうど、今この手にある物体を溶かして、流して、全部をひっくるめたような。
苦い茶色。その落ちた一滴が、一雫は、とても、とても苦く熱い。
(馬鹿だな、ホント)
なんて汚い。なんて甘い。それでもそれが愛おしい。
「で、お前からチョコとか無いのか?」
「脳味噌洗ってくればいいと思いますよ」
「オイ!」
責任だけは取って欲しいものだ。と、胸の中でひっそりと溢した。

「遅いなぁ……」
時計を見上げながら呟く。とっくに料理も出来ているというのに、インターホンは鳴らされない。いつもならばもっと早くに来るはずなのだが……。
事故にでも遭ったのでは。そう思い、落ち着きが無くなる自分に気づく。つまらなさそうに、テーブルを指でたたき鳴らし始めた。
高い電子音。下仲は弾かれたように立ち上がると、すぐさま受話器を取る。
『悪ぃ、待ったか?』
申し訳なさそうな、それでも苦笑はしているのが目に浮かび、ホッと息をついた。
だがそれは声には出さず、遅いとつっけんどんに言い放った。「手厳しいな」と小西は言い、開けてくれないかと受話器越しに聞かれる。
「今、行きます」
電話を戻し、小走りに玄関へ向かう。気持ちが高揚する自分をどうにかしたくて仕方ない。けれどどうしようもできないから、困っているのであった。
鍵を外し、ドアを開けた瞬間、下仲は目を丸くした。
「……なんですか、それ……」
「バレンタインって、フランスだと、どっちがどっちって関係無ぇんだろ? 思い立ったからつい、な」
小西が目の前に差し出していたのは、赤い薔薇を中心にまとめた、大きな花束だった。彼はそれを、有無を言わさずに押し付けた。
後ろ手にドアを閉めて、鍵を掛けた。まだ呆然としているらしい下仲を見て、きまり悪そうにこめかみを指で掻く。
「……いらなかったか?」言ってから、小西は独り言のように呟き始める。何か理由を探そうとしているらしいが、しまらない唸り声しか出ないようで。
その様子が、何だかとても、可笑しかった。ふふっ、と気がついたら笑い出している自分がいた。
「渡してから、後悔しないでくださいよ。……恥ずかしくなかったんですか?」
彼に対する愛しさが、下仲を微笑ませる。照れくさくて仕方が無い小西は、ボサボサの黒髪に手を突っ込んでそれを紛らわした。
「恥ずかしくない訳ねぇだろうが。お前が買うならともかく、オレには似合わなすぎだっつうの。―――ただ、何か渡したくなってさ。男に送るもんじゃねえって、分かってたけど……」
そこまで言って声が止まる。ちゅ、とキスをされたからだった。一瞬の出来事に二の句も告げなかった。
すぐに離れて、唇をふっと上げる下仲に見惚れる。先ほどのような柔らかい笑みではなく、悪魔的な微笑みという違いがありはしたが。
そうですね。と顔に添えられた手が輪郭を滑った。本当に、変わり身が早いよなと、熱を帯びつつある頭でぼんやり考えた。
「けど僕は、そんな貴方が好きですよ」
さらりと爆弾発言を残して、花束を持ったままリビングに向かう。「夕飯できてますよ。食べるんでしょ?」
振り返った下仲に、今度は小西から口づけた。
零れそうなくらい目を見開いているのが可愛くて、すぐさま口付けは深いものに変わる。
「っふ……は、あっ……」
特に抵抗が見られないことに気を良くし、貪るように、味わうように、舌を絡め合う。留まりきらない唾液が顎を伝ってシャツに落ちた。
しばらくして、唇が離れる。目許が朱に染まった下仲はどうにも扇情的で、もう一度顔を近づけようとするとするりとかわされてしまった。
「……先じゃダメか?」
熱の篭った声で囁く。肩が微かに跳ねたのを、そっと指でなぞった。
小西を見上げた瞳が、何かを湛えているのがとても美しかった。
「花瓶に生けるのは、後で、ですね」

「ところで、もらったチョコレートはどうするんですか?」
「んー、何とか全部食うよ。甘いもん苦手なんだけどなぁ……」
随分と人がいいものだと、フォークを口に運びながら思う。それがまた彼のいいところで、下仲がやきもきする原因の一つなのだが。
温めなおした料理を堪能しつつ、小西に笑いかけた。妖しく光る目つきに、先ほど発散したばかりの欲がまた蘇る気がした。
「私でも嫉妬くらいはするんですがね」
「……お前、今度は気絶させんぞ」
目の据わった小西の言葉を軽く笑って流す。テーブルの端には、鮮やかに生気を迸らせる花束が、静かに花瓶の中で息を潜めていた。

(我ながら似合わないことしちまったな……)
(あることにはあるんだけど、どうしようか……)


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