「あー…頭痛ぇ…」

のそりと小西が布団から這い出した。下仲はその動きを感じ取ったらしく、ゆっくりと目を開ける。

「…どうか、しましたか…?」
猫目を瞬かせてから、隣の男の顔を見る。眉にしわを寄せて、不機嫌そうな表情をしていた。
二人は素肌でベッドに寝っ転がっていた。あんなにも情欲の波に呑まれていたのに、今はシーツがヒヤリとするほどに落ち着いていた。
情事が終わると、後始末を済ませて取り留めない話をしながら、いつの間にか二人とも眠りにつく。と言うのが、小西と下仲の普通だった。
昨日も例に漏れず、気がついたら夢の世界に飛び立っていた訳なのだが。

「…ん、やけに頭が痛むんだよ…。昨日酒は飲んだが、それの所為か?」

「二日酔いになるほど飲んでないと思いますよ?そこまで酔っていたら、私も断っていますし…」
地毛の黒髪に手を突っ込んで頭を抱えた。よっぽどその痛みが煩わしいらしく、小さく呻きながらシーツに突っ伏す。

「偏頭痛とかも、ないでしょう?」

「無い。…筈なんだが、ダメだ。痛ぇ…」

「寝起きだからじゃないですか?」

「んー…」
問い掛けの中に明確な答えは無いようで、首を捻った。
尚も唸る小西に気遣いの言葉を掛けようとすると、不意に顔を上げた。

「……今、何時だ?」

「え?」

ベッドのすぐ横にある棚の、シンプルなデジタル時計を手に取った。隣の小西が下仲に覆い被さってその手元を覗き込む。

「ちょ、重い。…8時、ですね」

「明かり点けてないにしても、やけに暗くねーか?」

確かに、カーテンを閉め切って電灯を点けていないにしても、窓の外から日の光が見当たらないのはおかしい。冬だったらここまで暗いことも有り得るのだろうが、今は夏に差し掛かっている時期だ。

「…そう言えば…」

邪魔ですから。と、小西を押しのけ、鈍く痛む下半身を引きずるようにして窓までほんの僅かな距離を歩いた。
淡い色合いのカーテンを引き開ける。

「……あ」


窓を、幾つもの雫が伝い落ちていく。その後ろに、空が薄暗くどんよりと陰っているのが見える。薄墨を塗りたくったような雲だった。


さぁっ、と静かな雨音が、窓の外の遠くからも微かに聞こえてきた。



雨音



「雨、結構降ってますね」

もう一度カーテンを閉める。微かな雨音は、先ほどと同じように更に聞こえづらくなった。

「やっぱりな。おかしいと思ったんだ。この部屋に居るのに、日が射さないから」

下仲の家は高層マンションの一室にある。二人のいる部屋は寝室で、窓から丁度日が差し込む位置だった。だから二人は、いつも日の出の少し後に起き出しているのだ。
まだ頭を抑えて呻いている小西に、下仲は溜息をついた。

「まだ痛むんですか?」

「雨が降ると、いつもこうなんだよ。…昔からな」

どこか遠くを見ながら話していたことは見ない振りをし、またベッドに潜り込む。肌を滑る布の感触が、少し冷たく、心地いい。
うりゃっ、と、逞しい腕が下仲の細い肩を抱えた。片手は眉間を軽く押さえたままだ。
抱き寄せられた彼は、嫌そうな顔はせず、そのまま大人しく身を委ねていた。

「……静かですね」

「どうしてだろうな。日が照ってると、むしろ賑やかに思えるのに、雨が降っただけで、全部静まり返ってるみてぇだ」

「空気も、冷たい気がします」

「ひんやりしてる。寒いわけじゃないが」

「でも、……私は、雨が不快ではありません」

雨は、全てを落ち着かせる。下仲は、雨が嫌いではなかった。
ヨーロッパで修行をしていた時も、美しい町並みを目に出来ないのは残念だと思ったが、雨に煙る景色も、何故だか好きだと思ったのだ。それは、それよりももっと前、小さな子供の頃から感じていた気持ちだった。

和の文化を好む、ある富豪の邸宅をムスタキ氏について訪ねたときのことだった。あの頃の自分はまだ幼く、かのフランス料理界重鎮に才能を認めてもらい、学ぶために連れていってもらっていなければ、そんな場所には到底足を踏み入れることなど出来なかったのだが、まだ幼かったためにそんなことはあまり理解できなかった。

天気は生憎の雨であったが、そこはまさしく日本風の建築で、まるで時代劇にでも出てきそうな屋敷だった。縁側があれば立派な庭もあった。下仲はムスタキ氏の調理を余すことなく学んだ後、その屋敷の主人に、少しの間、屋敷の中を見て回っても構わないと言われたのだ。唐突な提案に驚いたが、実はとても興味を持っていたので、その申し出は願ったり叶ったりであった。

なお、それを主人にそれとなく頼んだのはムスタキであったことを、下仲は未だに知らない。富豪も快く承諾したので、幼い下仲の屋敷散策は実現したのだ。

目に付いたのは、客間と廊下を挟む障子を開け放したために見えていた日本庭園だった。雨の雫が、絶え間なく植物や石灯籠に打ち付けている。池に落ちると、いくつもの波紋が打ち消しあうように忙しなく広がった。
確かこの時だ。雨の振る風景が、とても情緒のあり、美しいものだと知ったのは。(…きっとその頃の下仲は、情緒などという言葉の意味は分からなかったであろうが)
幼心に、何かしんみりした気分になっていると、丁度葉のみが雨に打たれている薄い紫の花が眼に入った。見たことのない花だと思い、縁側を歩いてその花の傍に近づく。
菱形のような形が4つ集まって、花弁と思える部分が形成されていた。時折、雨垂れが花にも落ちて、露が丸くその上に留まった。

『この花は何と言うんですか?』

『それはアジサイと言うんだ。…これは花じゃないんだぞ。その花びらに見える部分の、真ん中にある小さな部分がアジサイの本当の花なんだ。他の部分は萼と言って、本当の花を守っているんだ、幼き料理人よ』

『えっ?』

主人の説明には、思わず目を丸くした。こんなに美しいのに、花じゃないことが信じられなかった。主人はそんな下仲の心情を悟ったのか、面白そうに微笑んだ。ムスタキはムスタキで、下仲の驚いた表情が珍しく、うっかり吹き出してしまっていた。


少し、昔を想起していた。あの後も、色んなものを見せてもらったなと、10年以上昔のことで少々ハッキリしない記憶を掘り返した。何にせよ、雨が嫌いではないと自覚したのは、丁度その時からだった。

(そう言えば、次にアジサイを見たのは、日本に来てからだったな)

ついでに、アジサイという字を紫陽花と書くと知ったのも、日本で味皇料理会に着任する少し前のことだった。妙な当て字だが、響きや字面は悪くないと思った。

「…どうした?いきなり黙り込んで」

小西から声を掛けられて、ハッとなる。普段なら、こうして静かになっても彼が声をかけることは少ないのだが、今日は急に押し黙ったことから、気になったのだろう。

「…いえ。少しだけ、ヨーロッパに居たころを思い出していました。…もっと、小さい頃の話です」

「……そうか」

言ったきり、今度は小西が閉口した。こういった事情を、むやみやたらと突っ込むことをしないのが、小西だった。自らにも、何か薄暗いことがあるからなのだろうか、と思うこともあったが、きっと根掘り葉掘り聞かないほうが良いということは、下仲だって分かっていた。子供といえるほど若い年齢ではない。…成熟したといえるほど年をとってはいないが。
微か過ぎる雨音が、絶えず外から鼓膜に届く。瞼を閉じれば、雨音と互いの息遣いしか聞こえない。薄暗い部屋の中で、その静かな音は、子守唄のように思えた。
と、また眠りに落ちようとすると、隣から声が聞こえてきた。

「基之」

「……何ですか?」

「オレは、雨が好きじゃない」

でも、とさっきからずっと眉間にやっていた手を下ろし、両方の腕で下仲をその中に閉じ込めた。そして、言葉を続ける。

「お前と一緒に居れば、悪くないな。こうゆうのも」

そう言って、白い額に口づける。ふっと微笑んでから、煌く金糸を指で梳いた。その一つ一つの動作が愛しげで、大切な宝物を取り扱うような優しいものであったことに、下仲は同じように唇に笑みを浮かべた。

「…雨も、いいものでしょう?」

「…ああ」

雨音は、遠く、遠くに記憶を連れたまま、止む気配は無い。
それは静かに、しかし確かに、響いている。


今は、二人で耳を澄ませていても構わないだろう?


「……あー、ダメだ。また眠くなってきた」

「通り雨とかじゃなさそうだし、長くなると思いますよ、この雨」

「じゃあ、寝直そうぜ。と言うより、もう起きてられん……」

「…って、早いですよ。寝るの。……私も寝るか……」



サァアッ、と、二人のいるマンションを雨音が包む。
もしかすると、雨が上がるのも、そう遅くはないかもしれない。


fin.

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