一番星
暗黒武術会。名前を聞いたことはあったが、魔忍の里は外界との通信は無いに等しい。
そういった情報を手に入れられるのは、普通、里の上層部のみで、いくら最強の“修羅の怪”であろうと、所詮一端の忍でしかなかったため、大会については噂話でしか知る術はなかった。
その噂話が、今、この里の中では兄同然に慕っていると言っていい化粧使い、画魔の口から、「参加しないか」と持ちかけられていた。
「……武術会?」
「ああ。…正確に言うと、オレも本当は持ちかけられた方でね。吏将や爆拳が、腕試しと称して、長に許可を取ったらしい」
「……興味が無い。オレは、参加する気など無いぞ」
いつもどおりの無表情で、凍矢は静かに拒否した。怒ったり、馬鹿にしたりしているわけではない。ただ、無駄な戦いをする主義ではなかっただけだ。
それもそうか、と画魔は笑った後、今度は真剣な顔をして、凍矢に向き直った。
「!…画魔、オマエは出るんだな。…何故だ?」
「……この大会で優勝した場合、賞品は望むものがもらえるらしい。最強の武術会だが、オレ達が五人で出たら、不可能な話じゃない」
画魔は凍矢の顔を見た。あどけなさが残るのに、正反対の冷たさが覆う端正な顔立ちに、二つある空色の瞳が、しっかりと画魔を見据えている。
彼の瞳の奥は芯まで冷え切っているようにも見えたが、その更に深い底には、かすかな揺らぎがざわめいているのが分かった。なんて美しく、不安定な宝石なのか。尤も、その不安定さも画魔や陣が見なければわからないものだったであろうが。
血飛沫が似合うようで、あまりにも似合わなかったのだ。凍矢は。
陣は最近、凍矢から時折、泣くような風が吹いてくるのを感じていた。
彼を振り返って見ても、氷のような能面で、「何だ」としか言ってくれなかった。だが陣は、それがいつも殲滅の任を請け負ったときに起こす風だと知っていた。
凍矢は感情を隠すことが上手い。魔忍として当たり前のことだと、陣は何度も吏将に説教されていたが、中でも凍矢は、恐ろしいほどに感情を表には出さなかった。
年不相応と言える冷酷さ、そして強さに、里の忍たちは畏怖と尊敬と、――嫉妬の念を込めて、凍矢を見つめていた。
魔忍としての道を歩むためには、他者を殺すこともいとわない心が必要だった。正確には、心――感情は、必要なかった。
だから閉ざした。一々感傷的にならないように、任務に支障をきたすことの無いように、全てを隠した。
そうしなければ、凍矢は壊れてしまってもおかしくなかったからだ。気づいていた。
白く冷たい両手を、他者の血で赤く染めていけば、いずれ自分が壊れてしまうことを。
――――そうまでして忍を続ける意味はどこにあるのか。
とは、陣も画魔も、尋ねることは出来なかった。
その生き方しか出来ないと、凍矢が納得、いや、半ば諦めているのを知っていたから。
吏将と爆拳から、この話を聞かされたとき、画魔はチャンスだと思った。もしも優勝さえ出来れば、彼をこの陰の世界から連れ出せるかもしれない。
――誰よりも冷酷で、誰よりも優しくて、誰よりも脆い、呪氷使いの彼を。
凍矢のところに行く前に、陣には既に話をつけていた。まさに即決だった。
『強い奴がたくさん来るんだろ!?だったらオレは参加すっぺ!』
あまりの早さに苦笑したが、それだけが理由だとは画魔も思ってはいなかった。
賞品は、望むもの。
それを聴いた瞬間、陣の耳がピクッと反応したのを画魔は見逃さなかった。
『………意味は分かるだろ、陣?』
『……凍矢は、出るだか?』
先程とは打って変わった静かな声に、画魔は分からん、とだけ答えて、陣のねぐらを後にした。陣は画魔を見送ると、彼には珍しい溜息を一つついた。
これで凍矢が話を呑んでくれれば、自分も気兼ねなく闘える。自分のため、そして凍矢のために。
凍矢の心が壊れようとしていたことは、陣もその風から分かっていた。表面は欺けても、心自体を失ったわけではなかったので、風使い特有の能力を扱うことが出来た。
早く、何とかしなければ。唯一の親友である彼が、彼でなくなってしまうのは、陣にはきっと耐えられないことだった。
陣だって迷っている。嫌悪している。―――忍であっていいのか、と。だから、凍矢と抜けたいとずっと思っていた。きっと今なら。いや、今しかない。
「…………凍矢…………」
呪氷使いの真名を呟き、陣は空を見上げた。相変わらず雷雲しか見えなかった。
「優勝すれば、何でもだ。…それは魔忍から抜ける事だって、可能とするだろう」
「!」
画魔の言葉に、凍矢は微かに目を見開いた。しかし、
「………馬鹿馬鹿しい。そんなことは、不可能だ」
と言って、目を伏せた。画魔はなおも言葉を続ける。
「何でも、だ。所詮小さい国の一つである魔忍の里が、この大きな大会の規定に逆らえると思うか?…陣は、出る」
「!!…だろうな」
「…頼む、凍矢。オレが出るのは、…」
オマエの為なんだ。と、続けることは出来なかった。そうすれば、凍矢は益々拒絶の意思を固くしただろう。
―――オレの勝手で、オマエや陣を巻き込むつもりは毛頭無い。
と、答えが返ってくるのは目に見えていた。
「…自分のためだ。オレ自身が、忍を抜けるために。だから頼む。力を貸してくれ」
とっさに言い換えたとは、気づかれなかったようだ。凍矢は画魔の言葉に、真剣に耳を傾けていた。そして、
「……………分かった」
とだけ言って、頷いた。画魔は安堵して、日時と、人間界に行く際の集合場所を伝え、簡素な小屋から出ようとした。出ようとして、凍矢を振り返った。
「凍矢」
「……何だ?」
「………………」
例えオレが死んだとしても。
オマエと陣は、生き延びてくれ。
自由を、掴んでくれ。
「……いや、何でもない。じゃあな」
画魔は本当に言いたかった言葉を、そっと心の隅に押しやった。一番伝えたいのが凍矢でも、彼自身に、伝えるわけにはいかなかった。
凍矢は疑問符を浮かべたが、「ああ」と言って画魔を見送った。画魔は一瞬表情を曇らせ、闇の中に跳び去った。
「………忍を抜ける、か」
画魔はそれが望みだと言った。他の二人はどうだって構わない。陣は分からない。では自分が、本当に望んでいるのは。
―――――オレは―――――
「……………光……………」
輝く世界。光に満ちた世界。鮮明で美しい世界。全てが眩く愛しい世界。
そのいずれも、自分が手に入れることは望んではいけないことだった。しかし今、もしかしたらそこへ、たどり着くことが出来るかもしれない。チャンスを、もらえたのだ。
今更になってそれに気づき、不意に画魔に申し訳ない気持ちになった。
ギュッと拳を握る。最初で最後の、絶好の機会。
光を手に入れる、忍の世界を抜け出せる、最初で最後の。
水面のような凍矢の目に、もう迷いは無かった。
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