好き≒友達の方程式



季節は春の筈なのに、驚くくらいに空気と温度が生ぬるくて。

いっそ汗が流れるほどになりながら、目の前のノートに向かう。

それは、机の横に座って教えていた彼も同じらしかった。


「……あっちぃべ〜……」

「我慢しろ。オレだって暑い」

カチャ、と白い指が銀縁の眼鏡を押し上げた。その指の細さを、
(綺麗だな)
と思っていたら、凍矢は陣に次の問題を解くよう急かした。

中間テスト、三日前。二人は放課後の教室に残って、テストの追い込み勉強をしていた。
とは言っても、陣が凍矢に頼み込んだだけの話だ。別に凍矢はどうとも思わなかったらしく(きっと自分の勉強は終わっているのだろう)、今も根気良く数学がさっぱり過ぎる陣に付き合っている。

そこらの教師よりもはるかに分かりやすい教え方で、ちんぷんかんぷんな問題を解くためのヒントを提示してくれる。その出すタイミングがまた絶妙で、本当にダメだと思ったときにしか与えない。
この優秀なコーチのお陰で、陣の数学力はちょっとだけ上がったような気がしていた。

「……んー、これで合ってっか…?」

その声に凍矢が、間違えた計算式を消したり消さなかったりして(消さなかった式は、次に繋がる失敗だからだそうだ)やや汚れているノートを覗き込んだ。
オールバックに固めた水色の髪は、邪魔すること無く白いうなじを陣に見せる。その滑らかさに歯を立てようとするのを必死で胸の奥底に閉じ込めた。

「…正解だ」

凍矢は赤ペンで丸をつけてくれた。同時に、唇の端に笑みを浮かべる。その度に思うのは、どうしてそんなに綺麗なのかってことだった。

「……っ……」

キスしたい。

先程から、そんな衝動が幾度と無く陣を襲った。今、この場で。
しかしだ。元々、自分が無理を言って残ってもらっているのだから、やらかしてしまえば、下手をすれば嫌われかねない。

ああ、畜生。全てにおいて自分の所為なのだが、凍矢がこんなに無防備なのも、悪い気がした。
そりゃ、自分が襲われるなんて考えても居ないだろうからな。…例え恋人同士、だとしても。

「ホラ、次の問題を解け。このままじゃ帰れないぞ。あと数問だ」

低い、けれど透明な声が耳から脳まで一直線に貫いた。確かに、窓の外を見れば徐々に日が沈みかけている気はする。

「え〜…でも、頭から分かんねえだ…」

「しょうがないな……これは1年の頃の公式を応用するんだ。こうやって…」

およそ生殺しに近いような時間は、それから30分ほど続いてしまった。

 
二人分の影が、前方に長く伸びる。人影は他に見当たらなかった。

「もうさっぱりだべ…ベンキョーしたくねぇー!」

「学生の本分だ。高校生になってしまった以上、仕方の無いことだろう」

陣はうがぁと頭をかきむしる。凍矢はそれに呆れたような、ていないような、微妙な表情で切り返した。こうして一緒に駅までの道を辿るのが、いつの間にか当たり前になってしまっていた。嬉しいことに変わりは無いが。

(そう言や、……あん時か)

いつだったか、それが出来なくなってしまった時があった。

『何で男なんだ?どうしてオレなんだ!?お前がオレを好きでも、オレがお前を好きだとしても、何もできない!オレは女の子の代わりにはなれやしない!!』

『じゃあどうしてわざわざ凍矢を女の子の代わりにしなきゃなんねーべ?オレは凍矢が好きだ!代わりなんていねぇし、必要も無ぇ!オレは凍矢の傍にいたい!!』

凍矢の眼鏡が涙でびしょ濡れになって、陣も滅多にない怒り方をした。

親友から、恋人になる。男女でも大変だが、男同士ならそれに百個くらい輪をかけて大変だ。幸運にも、凍矢は陣を好きでいてくれた。

しかし、あの怒鳴り合いは、告白してから少し経ってからのことだ。凍矢が、急に距離を置き始めた。問い詰めてみれば、「オレは陣にふさわしくない」だそうだ。
ふざけるなとキレたら、凍矢がいきなり泣き出した。そして泣きながら滅多に出さない大声で突っかかってきた。ああやって逆ギレされることも滅多になく、陣は自分の気持ちをぶつけてきた凍矢に、再度キレた。

自分たちの気持ちをぶつけまくった後に、ようやく仲直りをした。これからは、そんなことは気にしないと約束して。

(でも、)

周りには明かせない関係。陣も凍矢も、それははっきりと分かっていた。
そして、多分今も誰にも悟られてはいない筈である。だって二人は、こうなる前からずっと一緒にいたのだから。

いつからだったか、陣は凍矢を、愛しているのと同等な欲望で見ていると自覚した。付き合い始める、少し前からだっただろうか。

好きだ。心の中でそう叫びながらも、凍矢に嫌われることだけが、嫌で、嫌で仕方が無くって。顔も見られなくなるほどに欲望は膨れ上がってしまった。から、避けて、逃げて、近づくことすらしなかった。凍矢がそんな自分をどう思っているのかも知らずに。

凍矢は受け入れてくれたのに、それでも凍矢は自分じゃ陣にふさわしくないと言った。

だから陣は言ったのだ。自分が必要なのは凍矢以外誰もいないと。


(……なんか、よく分かんねぇだな〜……)

人を好きになるということは、きっととても難しい。
陣の頭を悩ませている数学の問題よりも、その数倍は難しい。だって数学は、どんなにどんなに、こんがらがるほど複雑でも、答えが必ず存在するのだから。
恋も、愛も、大好きも、ちゃんとした答えなんて、どこにも見つからないんだ。

触れたいと思うのは。欲しいと思うのは。傍にいたいと思うのは。笑っていてと願うのは。

どうして?

ぶっちゃけて言ってしまえば、どうしてもこうしても無かった。自分が好きという気持ちを抱いたのは、凍矢だけだったのだ。

こんなに胸が苦しくなるのかとか、嬉しすぎてどうしようもなくなるときとか、今みたいに考えまくって結局よく分からなくなるのとか、幸せだと思うときとか。

全て、凍矢が傍にいたから。苦しみ以上の喜びが、陣の日々を彩り続けた。
だからいいのだ。よく分からなくても、幸せがあることは事実だから。


「……凍矢」

不意に陣が立ち止まった。瞬間、少し遅れて振り向いた凍矢は陣にくちづけられていた。

「…!」

あまりに突然のことで、抵抗する意思が一瞬どこかに行ってしまった。それがいけなかった。
陣はそのままキスを続けた。凍矢の薄くて柔らかい唇を貪った。たとえ周りに人が居たとしても、陣はそれをやめることはしなかった。

だから人が居ない今は。二人だけの家路に着いている今は。ひたすら、ひたすらに。それこそ、この時をいるのは二人だけだとでも言うかのように。陣は唇を押し付けた。

「……っ、…馬鹿……!」

少し経ってから、凍矢は漸く理性が戻ってきたようで、陣の肩を強く押した。少し乱れた息を整えながら、陣の顔を睨みあげる。
でも夕陽に負けないくらい赤くなった顔で上目遣いに見られても、威圧感はまるで無かった。

「…お前、なに考えてるんだ……!」

ずれた眼鏡を直して、陣に文句を言う。確かに今するべきことではないかもしれないが、別に陣は悪いことをしたとはさらさら思っていなかった。
ので、謝ろうとは思わなかった。凍矢よりも一歩追い抜いた場所に立って、振り返った。

「―――帰ろ?凍矢」

にっこりと、陣は笑った。いつもの人懐こい笑みのようではなく、瞳の奥に鋭い光が走るような。そんな笑顔だった。
もしかしたら、普通の人はその微かな威圧感に気おされたかもしれない。
しかし凍矢はその笑顔が、丁度悪戯の成功した子供のような、してやったりと言った表情である事を知っていた。

(…………オレも、大概だな…………)

敵わない。それくらい好きだというのは、一体良いのか悪いのか。誰か教えてくれとも思うが、教えられなくても、何となく答えは分かっていた。

「…待て!」


遥か後ろの町並みに陽が沈む。不自然な恋人達にお似合いの、薄暗い時間。


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