暮色




 さあっと風が吹いた。彼の飛翔を見つめていたのは、沈む太陽で。


 「凍矢ー?」陣は自分の部屋の襖を開けた。今さっき魔界から帰ってきて、薬品のにおいがするアイツに教えられて部屋に戻ってきた。凍矢は部屋にいると。
 当番だったから仕方ないし、今日は陣と死々若のみだったから、酎と鈴駆が帰ってきていないなら、鈴木と凍矢が屋敷に残るのは当然なわけで。
 鈴木は、修行もしたと言っていたが、どうせその後は実験に没頭していたのだろう。じゃあ凍矢は?決まっていた。蔵馬達から借りた、書物を読み耽ることだ。
 
 「…あり?」居なかった。おかしいなーと思いつつ、鈴木が嘘をついたのなら張り倒してやろうと画策しつつ、再度畳の間を後にする。
 でも、一冊分のスペースが本棚に空いていたことを、気がつかない陣ではなかった。
 ここではない、とすれば……

 「、あ、」ぐるぐると回廊を巡っていると、縁側の柱に、小柄な背中がもたれているのが見えた。縁側の障子は開け放たれていて、夕陽がキラキラと彼の髪を反射した。
 上機嫌で近寄って、声をかけようとした動作が止まる。

 (……眠ってんのか)

 恐らく読み掛けであろう本に突っ伏して、静かに規則正しい呼吸を漏らしていた。何ともまあ微妙な体勢で本が隠しているため、凍矢の顔は見えない。
 (…お)
 ぐらり、と凍矢が揺れた。起こしたかと息を潜めると本を持った手だけが膝に落ちた。がくんと凍矢の頭も揺れたが、大分深い眠りに入っているようで、起きる気配は無かった。

 「!」
 うっかり噴出しそうになったのを堪える。
 (……ッ、凍矢、本の痕ついてるべ…!)
 丁度本の角が当たっていた部分が、赤くへこんでいた。いつもの彼からはあまり考えられないような姿だ、と陣は思った。
 
 
 少し考えて、彼の顔に手を伸ばす。翡翠の色合いの前髪を指が掠めても、凍矢は瞳を閉じたままだ。
 すっ、とその痕を指でなぞった。それでも、凍矢は起きない。

 (――…無警戒だなァ……)

 魔忍の頃は、そんなことは絶対に有り得なかった。むしろさっき、陣が凍矢に気づいた時点で、凍矢はその足音で飛び起きていただろう。
 変わったのだ。明らか過ぎるほどに。それは、陣にとっては、喜ばしい変化だったけれども。

 きっと、みんなが近寄っても、凍矢は起きない。でも、ここまでして起きないのは、自分を信頼してるからだと、
 (…自惚れても、いいべな……?)
 ちょっと独占欲が、胸の中で沸いた。


 何となく、庭の方を見た。
 「―――」
 やっぱり、空の色は綺麗で。柔らかい光と、厚く、それでいて軽やかに見える雲が混ざり合う。空は淡い光の色から、どんどん夕陽色に染まっていく。
 まるで絵を見ているような。しかし、その美しさはリアルに在った。

 どうして、こんなに綺麗なんだ?――どうして、こんなに愛しいんだ?

 凍矢の横に跪く。白い頬に、そっと指を滑らせた。やはり凍矢は起きようとはしない。
 睫毛が長い。橙色に染まった小さな寝顔は、女の子と見間違えるほど綺麗で。性格だって、優しい。でもそれ以上に、――愛しくて。

 陣は、本当に幸せそうに笑った。

 「…凍矢、」
 その声に、凍矢の瞼がピクリと動いた。
 
 「……陣」

 目を開けた凍矢の瞳は、変わらずに空色のまま、陣を映しこんでいた。
 「へへっ、凍矢、ただいま!」
 笑顔のままの陣に、凍矢もつられて笑った。
 「…お帰り。陣」


 「凍矢、ずっと寝てたべ?部屋に居なかったから、オレ心配したっぺ〜」
 「ん、気分を変えようかと縁側に来たんだが…いつの間にか眠り込んでいたようだな」
 「風も気持ちよかっただ〜。魔界から出てきたから、尚更だべ!」
 「ああ。…マズイな、夕飯の用意をしていない。…陣、手伝ってくれないか?」
 「オウ!今日は何作るんだ?」
 「今日の内に魚を買ってきた。焼き魚にでもしようか」
 「う〜、美味そうだべ!あー腹減った!」
 「早く食べたいなら、益々手伝ってもらわないとな」
 「勿論!」


 
 夕陽の美しさとキミの愛しさを重ねた
 (きっと何よりも、この時間が幸せで)


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