音の檻 | ナノ



弾けば弾くほど、




聖司さまがお仕事で宮廷に行かれて、今朝やっとお戻りになった。


3日ぶりに、ガラスのように透き通った音が廊下に響き渡る。
気付けばすっかり足は止まっていて、その音に聞き惚れてしまっていた。


物音をたてないよう慎重に例の隣の部屋に行き、少し扉を開けておいてその音を聞く。


美しくて、寂しい旋律。どこか感じる懐かしさ。
なんだか、今日はどこか刺々しい感じがする。


そういえば…聖司さまがこの曲以外を弾いているところ、聴いたことがない。

よくお仕事やなんかで家にいないときはあるけど、必ず1日一回はほぼ毎日弾いている。だから、その曲のメロディは最初から最後まで覚えてしまった。

終わればまた最初から、同じ曲を何度も何度も。

何か…理由があるのかな。




結局一曲丸々聴いてしまった。
そろそろ時間だし、仕事に戻ろう。ひとつため息をついて、顔をあげた、その瞬間。

バンッとピアノを強く叩きつける音が聴こえて、勢いよく扉が開いた。びっくりしてお部屋を飛び出す。


「せ、聖司さま…!?」

「ついてくるな!」


ちらりともこちらを見ずに、聖司さまはわたしの隣を通りすぎてどこかへ向かっていってしまった。

小さくなっていく聖司さまの背中をただじっと見つめる。

すれ違う瞬間、一瞬だけ見えた表情。苛ついているような、嘲笑っているような、苦しそうな…。どうしたらいいのかわからない。そんな表情をしていた。


聖司さまが気になる。ピアノのことで、何かあったんだと思うんだけど…
けれど、きっとわたしは追いかけるべきではない。わたしなんかが軽々しく突っ込んでいい問題じゃないと思う。
だからせめて、聖司さまがお戻りになられる頃に軽いお菓子と温かい紅茶を淹れて、持っていこう。

そう決めて、仕事に戻った。












「……菓子と紅茶…」


庭から戻ると、テーブルの上に軽い菓子と紅茶が用意してあった。頼もうと思ってたものがあって少し驚いてしまった。


『せ、聖司さま…!?』


部屋から出た瞬間、ひどく驚いた様子で俺を呼んだメイドの姿が浮かぶ。

芹沢陽菜。
死にかけのところを母上が保護してきた、数か月前にうちに雇われたばかりのメイド。俺といて楽しいとか言う変な奴。数日前には庭で寝てたこともあった。
…寝ながら泣くなんて器用な奴だ。


初めてあったときあんな接し方をして、部屋の前で立ち聞きするなと怒ったこともあるのに、めげずにほぼ毎日休憩時間だかなんだかで、ちょこちょこ隣の部屋まで足を運んできては俺のピアノを聴いている。

本当に物音ひとつたてずに静かにしていて、思いの外あまり気にならないので特に咎めたりはしなかった。
まあ、勝手に盗み聞きしているのは感心しないけれど。


こくり、と紅茶を一口飲む。
少し薄い。茶葉の蒸らしが足りないな。
きっと、これを用意したのはあいつだ。確信はないけど、直感的にそう思った。

ソファに身を沈めて、はぁと深くため息を吐く。

感情に任せて鍵盤を叩いた。
何のためにピアノを弾き続けているんだ。どうして俺は、ピアノをやめられないんだ。弾けば弾くほど、やめられない自分が嫌になる。自分にはピアノしかないんだと思い知る。

頭の中がぐちゃぐちゃで、これ以上ピアノに向かっていたらどうにかなりそうだった。

毎日毎日、あの曲を何度繰り返して弾いたって、もう何の意味もないのに。



「………バカみたいだ」

軽く舌打ちをして、菓子を口の中に放り込む。噛み潰した瞬間、ふわりと広がる甘さ。やけに甘く感じるそれを舌の上で転がして、残っていた紅茶と共に一気に飲み込んだ。






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