翌日。
結局あの後はあいつに会えないままだった。
小さな後姿をやっと見つけて、声をかける。
「芹沢」
「はい!あ、聖司さま…」
少しだけ気まずそうに、様子をうかがうように芹沢は俺を見上げた。
昨日の今日だしな…身構えるのも無理はないか。
別にイライラしてないし怒ったりするつもりはない、という意思を伝えるために、なるべく優しく言葉を発する。
「昨日の夕方頃、菓子と紅茶を部屋に持ってきたのおまえだろ?」
「…!は、はい…わたしです」
「薄い。茶葉の蒸らしが足りない」
「う…すいません、勉強不足です…」
「まあでも、飲めなくはなかった。…ありがとう」
それに少し救われたのは事実だ。素直に礼を言うと、一瞬きょとんとしたがすぐに嬉しそうな顔に変わった。あまりにも嬉しそうな顔をするもんだから、ごく自然に俺までつられて笑っていた。
変に立場を気にしすぎていなくて、こっちも自然体でいられる、ような気がする。
本当変な奴だな、こいつは。
昨日あれだけ嫌だと思ったのに、なんだか急にピアノに触れたくなって、そばに寄ってそれに触れる。
いつも弾いている曲のワンフレーズだけ片手で軽く弾くと、自分でも驚くほど柔らかい音が出た。
ちらりと芹沢を見ると、少し頬を赤く染めて、ふわりと花が咲くように笑っていた。
そして、
『聖司さまのピアノ、とっても好きです』 と。
貴方のピアノが好きだ、なんて、よく言われる。まあ大半は俺の地位だとか金だとかが目当てだったり、縁談が目的だったり、いわゆるお世辞、決まり文句のようなものばっかりだったけど。
文字だけ並べてみれば同じ言葉なはずなのに、甘い声で放たれたそれは温かくて真っ直ぐで…なぜか俺の中にすっと入ってきた。
純粋に、俺のピアノを好きだって言ってくれている。
一瞬、トクンと心臓が大きく脈打った。
気付かないフリをして、スツールに腰掛ける。
俺がピアノを弾く姿勢に入ったのに気付いてか、芹沢は部屋から出ていこうとした。
「…別にいい。ここにいろ」
「えっ?でも…」
「いいから。ただ、静かにしてろよ。そのソファに座れ」
今日だけだからなと呟いて、弾くときにあまり視界に入らない位置にあるソファを指差す。芹沢は落ち着かない様子でオロオロしていたが、しばらくして意を決したようにソファに座り、目を閉じて聴く体制に入った。
それを横目で見て、手を鍵盤の上に置いて弾き始める。
家やなんかでピアノを弾くとき、誰かがそばにいると気が散ってしょうがなかった。
だけど、何故だろう。
こいつなら、いいと思ったんだ。
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