『……はあの人が、手に…れば……よかったのに…っ』
ヒステリックな母の叫び声が遠くで聞こえる。
この人の言葉をちゃんと聞いてしまったらダメだと本能で感じていたのか、いつもぼんやりとただ時間がすぎるのを待っていた。
そのため思い出す怒鳴り声はどれも途切れ途切れだ。
『…まえは……!私から……を奪うのね……ゆるさない…!』
急に目の前が鮮明になる。
ここは…家?玄関のあたりだ。
周りにはピンクブラウンの髪…わたしの髪が散らばっている。
そして目の前には、憎しみのこもった目でわたしを見下ろして、手を振り上げる母の姿。
『お前なんか…出ていけばいいのよ!!』
――殴られる。
反射的に目を閉じて、与えられるであろう激痛に耐えるためにぎゅうっと身をかたくする。
ヒュッと手のひらが近づいてきて、頬に当たる直前。
『…陽菜…ちゃ…』
母のとは違う温かい手に掴まれて勢いよく体を揺すぶられ、わたしは目を開いた。
「…陽菜ちゃん!!」
目を開けて一番最初に飛び込んできたのは、紗世ちゃんの焦ったような心配したような顔だった。二、三度瞬きをして、ようやくここが就寝部屋なのを思い出す。
夢だったんだ。
最後が妙にリアルだった。あれは、わたしが家を追い出されたときの記憶だ。
もう綺麗さっぱり治ってるはずなのに、左頬がじんじんと痛む気がする。しっとりと嫌な汗までかいていた。
「…すごくうなされてたけど…大丈夫?」
「紗世ちゃん…ご、ごめんね、心配かけて!すごくリアルで怖い夢見ちゃって…!」
起こしてくれてありがとう、と紗世ちゃんに笑いかける。
時計を見てみると、まだ起きる予定の時間より一時間も早い時間だった。
けれどなんとなく寝る気にはならなくて、ゆっくりとベッドから起き上がる。
「すごく早起きだね。何かあったっけ?」
「へへ。今日花椿家のご令嬢がいらっしゃるっていうから、楽しみで」
「花椿…」
そういえば昨日の夜、榊原さんが言ってたような。う〜ん。どこかで聞いたことある名前。設楽家と交流があるんだから、すごい貴族様の家なんだろう。
着替えながら首をかしげていると、後ろから「もしかして陽菜ちゃん知らない?」と声が聞こえた。
「王室御用達の超有名なファッションデザイナー、花椿吾郎先生!ブティック・ジェス、雑貨屋シモンのオーナー。この人の一言から流行が生まれるって言われてる。今日いらっしゃるカレン様は吾郎先生の親戚にあたるご令嬢だよ」
私も会うのは今日が初めてなんだ〜、と紗世ちゃんは目を輝かせながら言った。
客室の掃除も終わり、朝ご飯を食べてお出迎えの準備に取り掛かる。
もうじきカレンさまはいらっしゃるみたいで、屋敷の中はいつも以上にいろいろな人が行きかっていた。
そういえば、今日はピアノの音聴こえないな…まだ朝早いし、起きてないだけかもしれないけど…。
偶然通りかかったので、近くにある聖司さまのお部屋の方向に視線を向ける。
舞踏会も相変わらず断ってるみたいだし…最近は少し機嫌が悪いみたいだ。挨拶をしても、ああ、と短く言ってさっさと部屋に戻ってしまう。近寄るな、話しかけるなオーラ満載というか。
少し気にしつつ、掃除へと向かった。
「カレン様いらっしゃったって!!」
「きゃーっ!一目でいいからお会いしたい!」
「しっ。ほら、私たちも行くよ!」
「ええ!」
カレンさまがいらっしゃったみたいで、みなが一斉に玄関ホールへと向かいだした。
急いで掃除用のエプロンからレースのついたものに着替える。わたしも早く行かなくちゃ。
玄関まで行き、並んでいる使用人の方々の後ろにつく。
さっき聞いた話によれば、カレンさまはとってもスタイルがよくて、憧れている女性も多いのだとか。
若干ドキドキしながら待つ。
しばらくすると扉が開き、背の高い女の人がお付きの方々や榊原さんとともに入ってきた。ようこそお出で下さいました、と頭を下げる。
「こちら段差がございますので」
「ありがとう」
凛とした声が廊下に響く。綺麗な黒髪で、すらりと背の高い人。よく見かけるようなリボンやレースがふんだんにあしらわれたものではなくて、スッキリとしたとても落ち着いたドレスを着ていた。
さっきメイドの方たちが騒いでたのもわかるなぁ…。
カレンさまが客室に向かわれたので、紅茶やお菓子などの準備に取り掛かる。
すこし遅れ気味だから急がなくちゃ。
パタパタと軽く廊下を駆ける。
目的地に向かいながら、今日のこの後の予定などぼんやりと考え事をしていたので、前から人が駆けてくることに気付かなかった。
「わっ!」
「アイタタ!ごめんっ!怪我しなかった!?」
「あ、はい、大丈夫…」
バッと頭を上げる。目の前で尻もちをついているのは、先ほどのきれいな背の高い女の人だった。
(わっ、どうしようカレンさま…!?!?)
「も、申し訳ございません…!」
急いで立ち上がって頭を下げ、手を差し伸べる。そっと添えられた右手。
「ハッ!やばいかも……」
「……え?」
カレンさまはわたしを見て少しだけ頬を染めていた。
「アタシ、花椿カレン。…って、さっきお出迎えしてくれたんだし知ってるよねぇ」
「あ、はい。わたし、芹沢陽菜です」
「よろしく。ねぇねぇ、もしかして新人さん?」
「はい。最近ここに来たばかりで」
「ふぅん…そっかそっか、うふっ」
「…?」
「ううん!なんでも?」
カレンさまは立ち上がり、わたしの頭からつま先までを舐めるように見る。
な、なんだろうか…!!
「ねえねえそれより、洋服とか好きな方?」
「え、まあ…」
小さい頃はよく綺麗なドレスに憧れていたし、いまも流行やなんかには疎いものの、ドレスを見るのは好きだ。前に少し奥さまのドレスを見せていただいたときなんてちょっと興奮してしまった。
「よかったぁ!じゃあさ、なんか相談あったら何でも聞いて?お店に来てくれたらサービスしちゃう!」
「わぁ、い、いいんですか?」
「うん! それからさ…」
「はい」
「アンタのこと、バンビって呼んでいい?」
「えっ!?どうして…?」
「だってそういう感じだもん!もう何て言うかさ…ほら、キョロンとしてて?」
「そ、そうですか?初めて言われた…」
「じゃ、アタシが名付け親。決まり!ね、バンビ!」
「ちょっと恥ずかしいけど…」
「うふ。これから楽しくなりそう!じゃあまたね!チャオ!」
手を振ってカレンさまが歩いていく。
なんだか、カレンさまってとっても面白い方だなぁ。最初みたときはかっこいい人っていうイメージだったんだけど。
……それにしてもバンビって。う〜ん……
カレンさまの姿が見えなくなって、ハッと我に返る。
いけない。紅茶を取りに行かなくちゃ。
2、3歩歩きだしたとき、客室の扉が開いて人が出てきた。
「待って」
「えっ!?あの…わたし?」
こ、今度はなんだろう…!
急に呼び止められてわたわたしてしまう。
「うん」
「ええと…」
「名前は?」
「あの、芹沢陽菜ですけど…」
「やっぱり…」
「あなたは…?」
こげ茶色の髪に、大きな猫目の女の子。背や年は同じくらいかな…?みたことのないメイド服を着ている。ということは、カレンさまのお付きの方…?
「わたしのことはいいの。それより、星の導きを信じる?」
「星!?えぇと…」
「…そう。知らぬが仏かもしれない…」
そういってその人は睫毛を伏せた。
知らぬが仏…星の導き…??どういうこと…??
「ちょ、ちょっと待って。なんだかすごく気になるんだけど…」
「あっ!バンビ!」
「あ、カレンさま」
呼ばれて振り向くとカレン様が戻ってくるところだった。
「あれ?みよちゃんも…あ、二人って友達になったの?」
「えっと、わたし今呼び止められて…」
「あ、なるほどね。この子、宇賀神みよちゃん。アタシの専属のメイドなの。ね?」
「“ちゃん”はやめてって言ってるでしょ?カレン」
「ごめんごめん。いい子だよ?ちょっとシュールだけど」
「“子”って言わないで」
「もう!可愛い顔しちゃって!ねぇ?」
二人のやりとりを聞いて、なんだか可愛くてくすりと笑う。
仲良いんだなぁ。
「ふふ、はい。
あ、それよりさっきの星の話って…」
「知りたい?」
「あ、またやってる。ミヨは占いに凝ってんの。すごく当たるんだから!ね?」
「そうなんですか…」
「恋愛、運勢…本当に知りたくなったら、いつでも相談して」
「はい。じゃあ、その時はよろしくお願いしますね?」
三人でにこりと笑う。
わぁ、嬉しいなぁ。
「カレンとミヨとバンビのキューティー3結成だね!バンビ、休憩になったら部屋に来てね! チャオ!」
「…3?」
「そこ引っかからない!」
そういって二人は手を振って部屋に戻っていった。
花椿カレンさまと、宇賀神みよさん。
なんだか仲良くなれそうな気がする。
prev / next
-11-