考えることを放棄して


蒸気が足元を駆けるように流れてゆく。張り詰めた痺れる緊張感の中、彼らは呆然と右手を掲げる男を見つめていた。

考えることを放棄している。
考えて、彼らに隙を与えてもし…正体が黒だったら、まずここにいる全員の命は無いのだろう。どんどん最悪の可能性へと広がる推測を押しやって彼らの言葉を聞く余裕はあの男にはない。
サヤは息を殺してもう一歩人混みを掻き分けた。刀身ボックスが擦れあう音がやけに響く。

金髪の青年の、絶望した表情。
バッと後ろを振り向いて二人の様子を伺う。どちらも静かに彼を見つめて、抵抗する気も逃げ出す素振りも見せなかった。

もはや彼らを疑う理由なんてない―――。

「えッ…!?」
「!?」

サヤはアンカーを壁に突き刺し、逆風を切って彼らに接近した。黒髪の少女が射殺すような目で剣を構える。唐突に回転をかけてアンカーを抜き、彼らに脅える群衆へと向き直った。

戸惑いは前後から押し寄せる。

「続けてください」

隣に釘で打たれた様に動かない金髪の青年に、前から目を逸らさずそれだけ告げた。
混乱するその目は忙しなくぐるぐると周り、やがて意を決したように全力の敬礼をする。

「私はとうに人類復興の為なら心臓を捧げると誓った兵士!!その信念に従った末に命が果てるのなら本望!!!彼の持つ『巨人の力』と残存する兵力が組み合わされば!この街の奪還も不可能ではありません!!――人類の栄光を願い!これから死に行くせめてもの間に!!彼の戦術価値を説きます!!!」

目一杯口を開け訴える主張が一面に轟く。隣に立つサヤまでもその訴えに聴き入り、そして高揚させた。
まだこれで助かった訳では無いのだ。はっとして隊長と呼ばれる男に視線を戻す。
白い蒸気で表情は見えない。考えているのだろうか、鈍くなった動きに安堵した瞬間、その腕は前へと伸ばされた。

(っ!!)

目を瞑る。隣で死を覚悟して息を呑む声が聞こえた。
…しかし、肝心の痛みは襲ってこない。

「よさんか。相変わらず図体の割には子鹿のように繊細な男じゃ」
「ピクシス司令…!!」

ざわめいた空気に瞼を開けば、沢山の兵士を従えた老人が男の腕を止めていた。
ドット・ピクシス…彼はトロスト区を含む南側領土を束める最高責任者であり、人類の最重要区防衛の全権を託された人物である。

彼の指示で剣を構えていた兵士が捌けていく。周りには彼とその部下である数人の兵士、そしてサヤを含む四人だけが取り残された。現状を理解できない金髪の青年はただ立ち尽くして歩いてくるピクシスの姿を見つめている。
サヤは剣を収めて座り込む男を振り返った。

「怪我はありませんか」
「は…」

巨人化直後の人間の身体は熱いようだ。脈を調べて手のひらを青年の額に当てる。
隣で我慢ならないと言いたげに少女が身を起こした。

「エレン、その人から離れて。危ない」
「いや、危ないって言われても、」
「エレン…?」

その名前に反応する。

「あなたがエレン・イェーガーなの?」
「そう…です、けど、…それがどうかしたんですか」

額に当てていた手越しに、大きくて綺麗な瞳が疑わしげに見上げてくる。サヤは手をひらりと放して微笑んだ。
こうもすぐに会えるとは思わなかった。

「ごめんなさい…なんでもないわ。気にしないで。体温も異常じゃないみたいで安心した。巨人化の後ってどうなるのかなって思ったんだけど」
「調査兵団か…やけに一人だけ到着が早いようじゃな?」

背後からの声に背筋が伸びる。サヤはすかさず敬礼をしてピクシスに向き直った。周りのエレン達もそれに倣っている。
ピクシスは変に緊張感の無い目で彼らを見回し、そしてサヤを舐めるように見た。この状況なのに呑気に笑ってサヤに顔を近づける。

「わしの眼はまだ老いていなかったようじゃのう…殺されるには惜しい美女がおる」

そう言ってもう一度笑った息は明らかに酒臭かった。

「して、おぬしはこの新兵達と知り合いか?」
「いえ…初対面です」

気まずい気持ちでエレン達と目を合わせていく。高らかな笑い声が再び降り注いだ。ピクシスは面白そうに背中で腕を組む。

「ほう、見かけによらずぶっ飛んだ事をしでかすのう。わしが一歩でも遅ければ、この訳の分からん子供と一緒に灰になっていたやもしれぬぞ?」
「そんなことはあまり考えていなくて…。でも、彼らは確実に仲間です。あの巨人を目の当たりにしても、私の直感は変わりませんでした」

むしろ彼の登場に確かに興奮したのだ。エレン達の存在は、必ず何かに影響を与え得ると…。

「まあともかく話を聞くとするかの。巨人を眺めながら散歩でもどうじゃ」

そんなピクシスの一言に、皆は驚いたように固まった。彼は絶対的な権力者の反面、生来の変人としても知られている。



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