二人の面影


『外のせかいって、そんなにいいものなの?』
『お兄さま…?』

――昔、サヤとハンスがまだ幼いころ、拗ねたように唇を尖らせるハンスが風呂上がりのサヤの髪を梳かしながら尋ねたことがある。
あまりにもサヤが父親の出回ってはいけない本の話をするので、飽き飽きしていたのだ。

『壁のなかの方がよっぽど安全じゃない。巨人だっておそってこないんだし、なによりみんながそう思っているのに』

そこまで言ったところで、サヤのくりんとした丸い瞳がこちらを見上げていることに気付く。ハンスはきまり悪くなって天井の角へと視線を逸らした。今にもサヤがどこかへ行く訳ではないのに、何を不安がっているのだろう。

『わたしは、みたいよ。お兄さまといっしょに、青い海がみたい。きっときれいだね』

柔らかく少女はそう言うと、心の底から楽しみそうに、そして寂しそうに笑った。
いやだ。やめてよ。急に大人びたそれに不安が迫り上がってくる。気付けば手が止まり、サヤの髪から手を放してしまっていた。

父親は、よく外の世界の事を話した。
ハンスはそれが人魚やユニコーン、魔法使いといったお伽話の一つであるようにしか思えなかったのに、サヤは違った。父が本を広げ紡ぐ”砂の雪原”や”氷の大地”などといった空想話に、懐かしそうに耳を傾けるのだ。挙げ句の果てには壁の外へ行きたいなど言い出して、母親を困らせた。それでもサヤの希望が彼らに否定されることがなかったのは、両親ともに壁外の世界を、気休めにしろ密かに夢見ていたから。
いっそのことサヤに夢を見せた父親を恨めればいいのに、そうはいかない。絵空事を聴くハンスですら、みんなで夢を膨らませる時間が幸せだったのだ。
彼ら貴族の人生など、壁の中の安定と引き換えに定められているようなものなのに。

『…ぼくは』

お父さまに、お母さま、サヤがそばに居ればいい。そう願うだけなのに苦しいのは何故だ。
サヤの髪をといていた櫛が手から滑り落ち、ハンスは左胸を押さえる。視界がぐらぐらと揺らいだ。

『お兄さま…?』

心配そうな声が反響する。
幼さを残した声がだんだんと遠のいて、暗転と共に大人びた女性のそれに変わった。

『ハンス……』
『っ』

何故サヤは怯えた声を発しているのだろう。
目を瞬けば、両手をついた自分の体の下にサヤが倒れている。浅く呼吸するそれは畏れからか綺麗な瞳に膜を張っていた。

拒絶するように押し返してくる手は、自らの手できつく抑え付けてある。震える感覚が肌に伝う。

嗚呼、僕がこうしたんだ。

大切な家族を、唯一の存在を、この手で傷つけた。
その事実はどんなに月日が経っても変えられない。

――終われ。終われ、終われ!

目の前の光景から視界を遮断し、ハンスは呪うように叫んだ。こうすれば夢から覚めることが出来るのをハンスは知っている。

これは夢だ。記憶だ。何度も見る悪夢だ。


「――ハンス様、」
「ッ」

現実味を帯びた声に身体が跳ねる。目を開けたそこには、見慣れたシャンデリアとバニラ色の天井が広がっていた。手が湿り、背中がひんやりと不快な汗で濡れている。

「大丈夫ですか、旦那様?今朝もうなされていたようですが…」
「あぁ、平気だよ。毎朝悪いね」

メイドが渡した冷めたタオルを受け取ったハンスは、深い息を吐きながら首元を拭った。遮光を伴った豪華な装飾のカーテンが開けられれば、室内は幾分か明るくなる。
手の震える感覚がまだ生々しく、ハンスは恨めしそうに自分の掌を握った。

「旦那様、やはり一度お医者様に診てもらったら如何でしょう…。顔色が悪くなるばかりですし、どこかご病気なのかも知れません」
「必要ないよ、そういうわけじゃない。寝付きが悪いだけさ」

心配させないように笑ってみるけれど、その顔に精気はない。何の説得力もない主人に言葉を詰まらせるメイドはしかし、そこまで言うならとそれ以上の発言を諦めた。
ハンスの様子が急変したのは間違いなくサヤが参加した社交界の夜からだ。屋敷に帰ってきたハンスはどこか絶望したような、泣きそうな表情でメイド達に迎えられたのだ。

どうしたのかと尋ねようにもハンスは口を閉ざすばかりで、肝心のサヤへは無断で手紙を遣すわけにもいかない。あんなに仲の良かった二人の面影を背後に眺めながら、昔から仕えていたメイド達はただ寂しさを噛み締めることしか出来なかった。

様子の落ち着いたハンスの横に立ち、一人のメイドは一通の手紙を主人に差し出す。宛名はハンス、差出人はサヤ・アンドレア。

「どうか、お読みください旦那様」
「……」

懇願するように手紙を握り締めるそれを眺めて、ハンスは表情を曇らせる。それはもう何十通目かも分からない、サヤからの手紙だった。
ハンスの睡眠が困難になった頃から、こうやって毎週のように手紙が届いているのだ。内容が何なのかは分からない。ただ判るのは、サヤがなにかを伝えようとしていること、そしてそれをハンスが拒み続けているということだけ。

「……読みたくないんだ、捨てておいてくれないかな」
「旦那様…!」
「冗談だよ。机の上に置いておいてよ、後で読むから」

それが嘘だというのは引き出しの中に溜まった未開封の手紙の束が物語っている。

「今日は夕方から大事な会議があるんだろう?その準備をしよう。さあ、もうこの話は終わりだ」

美しい声を伴ってハンスは立ち上がり、メイドに脱いだ寝衣を差し出す。何か言いたげだったメイドも、切り替えるように淡々とハンスの皺一つないシャツの釦を留め始めた。



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